いきなりこのようなうタイトルをつけると、何か、病的なものを診断するのかと思わせてしまうかもしれない。大丈夫。誤解なきよう先に少し説明すると、実は、他所で昨日、日本語の会話がつらい時の話が取り上げられていて(参照)、私は、そこを読んで二つの事を思っていた。一つは、外国人の拙い日本語を理解するときに使う推察力のこと。現実に起きていることから推察して何が趣旨なのか判断して受け答えする、ある意味特殊技能的な会話術のこと。もう一つは、私の息子に以前疑ったアスペルガー症候群のことであった。後者については、息子の名誉にも関わることなのであまり詳しくは書くべきじゃないと思ったが、実は、息子にアスペを疑った私が、実は、常識観念的には問題があるのかもしれないと思っていることなので、軽く触れて書いておきたいと思った。但し、上手くまとまめられていないので、文章が散漫になるかもしれない。ただ、今回は、書き留めておく良いチャンスだと思ったので、とりあえず筆を走らせている。
まず、前段の一つ目に挙げた、特殊技能的な会話術について。外国人の日本語と言っても流暢なレベルとそうでない、単語を並べたようなレベルがある。ここで取り上げるのは後者の方。例えば、最近身近に起きた例を挙げると分かりやすいかもしれない。
私は、ご近所から沢山の茄子を頂いた。新鮮な内に食べようと思ったら我が家ではとても食べきれない量だし、そうだ、近所の日系ブラジル人のセシリア(因みにご主人はイラン人)に食べてもらおう。そう思って袋に茄子を詰めて届けに行った。彼女は不在で、代わりにご主人のアサヤさんが応対してくれた。その時の会話がこうだった。
私 「ご近所から沢山茄子を頂いたので、おすそ分けに来ました。茄子は、食べますか?」
アサヤ 「あ、うちももらったよ。ちょっと待って、出してくるから」
この時点で理解できたのは、茄子はもらったから彼の家にもたくさんある。だから、私のはいらないということ。でも、「ちょっと待って」って、何故だろうか。出してきて見せてくれなくてもいいからね、と思っていた。待っている間、彼の言葉の意味は何なのか、何を待っているのかさっぱり分からないまま待っていた。
彼は、自分の車から大きな袋を二つ抱えて戻ってきた。そして、こう言った。
アサヤ 「車に忘れていたから持ってきた。」
私 「茄子を食べてもらいたくて持ってきたんだけど、沢山あるからいらないよね?」
アサヤ 「一つあげる。」
私は、自分が持ってきた茄子を彼に渡し、彼からは、もっと大きな袋に入った茄子を渡された。現実に起きたことと、彼との会話はとても結びつかなかったが、彼が意図したことは、私の茄子と、彼がもらってきた茄子を交換しようということだった。最後に私が、「交換するの?」と聞いて初めてそれが分かった。彼にしたら、彼の意志を日本語で説明するのが難しかったようで、おそらく、行動で示した方が速いと判断したのだろうと思う。
さて、こちらのご夫婦とは最近お付き合いし始めたのだが、日系ブラジル人のセシリアとイラン人のご主人の二人の会話はと言うと、殆どが日本語なのである。でも、私にはそのやり取りが理解できないことが多々ある。隠語だらけで、何がなんだかさっぱり分からない。さっきの茄子の会話のように、茄子をもらって欲しい私への返事がなまずなかったように、こちらの意図が伝わったかどうかも怪しい内に次の茄子の交換という意志さえも読み取れなかった。そと同じようなパニックに陥ることは儘ある。でも、ご夫婦には、一緒に暮らしてきた年月から、慣用的な日本語がきっと脳内に培われているに違いない。不完全な文法の日本語でも、その不完全さに逆に一定のルールがあって、二人の間では通じ合えるのだと最近わかってきた。問題は、この会話を理解しようとする私は、会話中の主語を探し、意図としての動作を見て言葉の理解が適っているかどうかを確認する作業を課せられている。これを素早く脳内で行うのは、アスペに見られるような特定の事象への「拘り」なのだろうか?という疑問である。というのも、毎回の会話でへとへとになってしまうからだ。
英語も少し通じるので、英語で会話を始めると、セシリアは単語を拾って理解しようとしてくれるが、アサヤは英語は殆どできないので、セシリアが彼女の日本語で彼に説明するという変な現象が起こる。だったら、私が初めから日本語で喋ればいいのではないのか?うーむ。とても悩ましい。これは、彼女らともう少し交友が深まれば自然に会話に慣れてくるということなのか?それに多いに期待したいところだが、私は、会話を理解するのにどうしても主語を見つけ、何を意図しているのか目的を知ろうと、困憊してしまうのである。
アスペ判定は如何に?昨日のブログのエピソードを読んで悩んでしまった。
もう一つの気がかりは、息子の一種の癖に関してで、物をいろいろなところに押し込んで片付けるという癖のような行動に、どう理解を示したらいいのか分からなかったことだ。
息子が東京の大学に入学する春のこと、私は、この件で彼を精神科に連れて行った。勇気のいることだった。長時間の心理テストの果てに得た診断は、知能指数は普通よりも高く、思考に問題があるとは認められないということだった。この時は、診てもらった医者を間違えたのかと思った。何を心配したかと言うといろいろあるが、特徴的なのは先に挙げた、物をしまい込む癖だった。
例えば、毎日お弁当を作って持たせていたが、時たま、友人とコンビニでも行って何か別のものを買って食べたくなったとしよう。彼は、お弁当を持っている事を忘れるからか、無視して別のものを食べたいくなっただけなのか、とにかく、何かを買い食いする。そこでお弁当が残る。これを持ち帰って自室の押入れや物入れにとりあえず仕舞い込む。この日の処理はこれで終了。また別の日、同じようなことがお昼に起こり、手付かずのお弁当を持ち帰る。いつかのお弁当処理と同じように、どこかに仕舞い込む。このようなことが連続し、妙な匂いにある日私が気づいた時は、彼が固まって貝のように口を閉じてしまうまで私の怒りが飛ぶ。この時は、私は病気になるかと思うほど神経をすり減らして彼を理解しようとしたが、彼の行動の本当の意図は分からなかった。たまたま病院で測ったら、血圧が上が157、下が98だった。平常時では低血圧気味の私には辛かったあの日々を思い出すが、自分がアスペなのか、息子の変な癖がおかしいのか分からない。
初めは息子は、お弁当を食べなかった事を隠蔽するために仕舞いこんだのかと思い、日頃、叱りすぎているせいかと反省もした。が、こう何度も同じことが続くと、息子にはアスペのようなものがあってそれがこういう行動となるのかと疑った。もしもそうだとしたら、親の私がそのことを知って彼の理解者にまずなることだろう。そうでもなければ、東京生活で彼は周囲と揉め事を起こすのではないかと心配した。それが、彼を精神科に連れて行った理由だった。と言っても、彼を納得させて連れて行くのにかなり話をした。仮に騙して連れて行っても、それは受診の時にもう一波乱起こることになる。だからだった。私のためだからと言って、頼んだ。渋々だったが、受信することに何ら躊躇することもなく、行くとなったらその足取りは軽かった。
結果、何も新発見はなかったが、二人で心理テストを受けたことや、何よりも精神科医に診てもらうというハードルを二人で越えたということへの達成感のようなものが私にはあったが、息子は、面倒なことに付き合ってやれやれと、疲れていたようだった。私が頼んだのだから確かにそうだったと思う。
とてもまとまらない内容になってしまったが、もう少し頑張って書くことにする。
「アンとサリーのテスト」で、前述のような息子と格闘した日々が蘇ったのである。私が隠されたお弁当を探す点で、筆者と同じような論理を引いていた。
「不確かな状況で不可解なことが問われるというときは、その状況から起きるべき事態と関連人物の行動パターンの可能性の事例をいくつか推測するんだ。この場合だと、ビー玉を探せという不可解な問いかけに対しては、アンがビー玉を隠すというのが一番ありそうなことだと思うね」
私なりに解釈すると、息子の行動パターンから、押入れや物入れ、バッグ、布団の下など、彼がしまい込みそうなところを探すと、必ず一つや二つ出てくる腐ったお弁当。そのことで私は、彼の行動パターンを学習し、探すのに苦労はしなかった。である。
この結果は、結果であって当初は違っていた。
息子がお弁当を残し、それをどこかに仕舞い込んでいるとは疑いもしなかった当初、見つけた私は即座に、息子はお弁当を食べなかった事を隠蔽したと判断した。親に叱れれて嫌な思いから逃れるために子どもが働かせる知恵だと思っていた。が、何度かこのことを繰り返す息子に、別の理由を疑いはじめたのがアスペだった。でも、息子にしてみれば、隠したのではなく、仕舞ったと言うのである。嘘でもなさそうだった。罪の意識は、息子からはあまり感じられない。彼に何が起きたというのか、親としての悩みは深かった。が、そういう彼なのだと、時間の経過と供に受け止められるようになった。否定したり頭ごなしに叱ることは全く逆効果になるし、私の精神状態がおかしくなるので、一旦棚上げした。
現在、彼は、東京に長男と一緒にマンションで暮らしている。先日、長男からこんなことを聞いた。「〇〇は、ゴミの袋を押し入れに仕舞い込むんだよね。」私は、ああ、またあの変な癖が出たのか、と思って聞いた。そして、念のため、押し入れを開けてみるとゴミの袋が置いてあった。これがそうなのかと長男に聞くと、「あ、それ僕の。」だって。何故、押入れに仕舞い込んだのか聞くと、長男の理由は、部屋に置いておくとショウジョウバエが湧くからというのである。それって、小学生程度の言い訳でしょと言うと、苦笑いしていた。つまり、母親が帰るまで隠しておいただけの話だった。これはごく普通にわかることだ。
話が長くなったが、書きながら少し自分の過ちに気づいてきた。日常の一見オカシイと認定してしまう自分の尺度にも問題があり、物事を観て判断する時、常識観念に捕らわれていることに気付かず、他人の言動に問題があると思いがちなのではないかと思った。
アンとサリーの件でも、書いてある事を客観視すると、箱にビー玉が移されている事を認知した上で設問されているので、当然、箱を最初に疑うべきだと回答する。だが、絵の状況に入り込んで自分がサリーになってみると、留守中にアンがビー玉を箱に移したことは知らないわけだ。つまり、最初からアンが隠したとは疑わないはずだというのが常識的な見方だとすると、私は、「あなた、最悪ね」と言われるのは、人を直ぐに犯人扱いする疑い深い人という意味だろう。最初から、アンが隠したと疑ってかかることが最悪だと認定されてしまったのではないだろうか。猜疑心の強い人は、人をいつも疑ってかかるという常識観念でもあるのだろうか。または、「猜疑心の強い人」と認定されてしまっているのか。
「アンとサリーのテスト」では、この話に入り込めるかそうでないかで視点が違うし、その前提条件を共通理解しない上で意見交換すると誤解が生じる。話を客観視出来る人は、初めから箱に入っていると観ているので「箱を探す」と、答えるが、話に入っている人からは、人を疑ってかかる人という偏見で見られる。そういうことではないだろうか。そして、これがアスペ認定のある一定のラインのどの位置なのか、気にはなるが、そういう新たなラインから尺度を持つよりも、人は何らかの理由で自分とは異なるのだという点と、自分特有の癖として具体的に知っていおくことは、他人とのコミュニケーションを少しでも円滑にする要因になると思った。
このことが、息子を私がどう見守るかの「鍵」になった事は言うまでもない。テーマとしてあがったことに感謝したい。
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