自分の事

2015-03-27

見切り発車はしたものの、田舎のパン屋から見た「地方創生」の可能性

 統一地方選挙が昨日、いよいよ幕を上げた。信任投票ということになるのだろうなという、なんとも気の抜けた意識ではイカン、遺憾。Twitterで選挙関連の記事やコラムを拾い読みしている内に、腹立たしさの元素はあるのだけど、それが沸騰してこないままどこかに抜けていくのを感じた。政権を応援して熱くなるでもなく、これからの日本を背負って立つ年齢でもない。私は社会の一員としていったいどの位置にいるんだろうかと、自分を探す始末だ。これが漠然としているのは仕方がないとしても、私個人はどう生きているのかということからあえて、社会を眺めてみようかと思った。
 昨年の8月、パン屋を自宅改装までして始めた。この地域はというと、先祖代々家を守っている住民がほとんどで、老人だけの家庭も多い住宅地に我が家はある。この家も代々、長男が家を継いで今がある。因みに、我が家の二人の息子はそれぞれ、東京と横浜で仕事をしているため、夫婦二人暮らしをしている。近くに小中高があり、家の前の道は通学路にもなっているが、普段の人通りは少ない。ここ数年は、「めっきり少なくなった」とも思う。道も狭くて、広い通りから車で入ってくるにはそれなりの勇気もいる。そんな一角でパン屋を営むのは無謀とも思われそうなところでだ、見切り発車した。
 見切り発車とはいえ、かなり悩んだ。正に、表題の通りのことを思っていた。この地方が創生する可能性はどこからどう見ても無いし、政治にそれを期待するなど滅相もないことだったからだ。
 この発想の原点は、「お店が繁盛する土地で営む」ということにある。例えば、駅前の人通りの多い通りに面した店などが上がる。で、現実問題、諏訪のどこがそれに当たるのか、よくよく考えるにいくらもない。駅前商店街はもう、「街」の体をなしていない。シャッター街である。郊外で大型店舗が立ち並ぶところが市内でも数カ所あり、集客数は凄いと思うが、そんなところにちっぽけな商店を出す意味が無い。というか、希少性として激安、または高級品などの特徴を持たせないと付加価値が上がらない。この見極めが困難で、こんな激戦区に見切り発車などとんでもない話になる。人に言わせると、当店のパンは既に特徴があり、どこにでもはないパンだと言われているが、だったらどこにお店を出してもいいのではないか、というのが、こんな僻地でパン屋を始めた理由だ。
 パンの味わいは人それぞれだと思うが、パンに特徴がありすぎると飽きが来る。では、噛めば噛むほど美味しいとは、どういうパンだ?これを常に試行錯誤しながらパンを焼いていれば、きっといつか、誰かが認めてパンを買いに来てくれると、そういう願いを込めて焼いているだけだ。
 さて、暇な時もあれば忙しくお客さんが来る時もある。かなり不安定な売上だと思うが、経費として一番ウエイトがある家賃がないのが良い。大型のオーブンやショーケースを動かすのは単相200vの動力だが、電気代は安い。水道水も驚くような金額でもない。では何が気がかりか?あるある。
 店先にパンを並べていないパン屋という、かなり変なお店である。基本は受注生産だ。冷蔵のショーケースには焼き菓子などが、ディスプレイみたいに並んでいる。つまり、売れ残りがないため、ロスを作らない。普通のパン屋さんは、閉店前に大袋に詰め込んで500円とかで売りさばいてしまうようだけど、原価だけでも回収したいというのがその金額だと思う。うちのパンは原価に上乗せが少ないし、第一、売れ残りを作るなどもったいない話。アレはできない。では何が気になるか。
 せっかくの腕がフルに使われていない寂しさがある点だ。パンを焼きたいんだよ~、もっと。もっと。
 「地方創生」というけど、長いデフレの末、日本の家電メーカーが次から次に姿を消していったため、製造に大きく関わった下請けは皆、倒産した。腕のある職人さんが不要となり、全て機械化されてしまった。今では、コンピューターシステムだけでモノ作りができるようになった。しかも、日本は先進国化してしまったため、第三次産業しか伸びシロがない。こうして、働く人が不要な社会作りを進めて来たため、「地方創生」にいまひとつピンと来ない。パン屋の私でさえなのか、パン屋だからなのだろうか。
 おそらくこのまま年を取りながら、近隣のお年寄り家庭が一軒二軒と空き家になり、次第に人口も減り、郊外の大型店も姿を消していくのだと思う。パンはもとより、野菜や肉、魚を買うお店も減り、長野県は元通り、海のない、山に囲まれた県に戻るのかもしれない。
 私がこの土地に来た頃は、魚屋さんに行っても新鮮な魚がなかった。あったのは、粕や塩に漬けた切り身の魚や干物だった。鮮魚店はあったが、日を決めて築地を往復していたため、非常に高価だった。例えば、鯖が一尾900円というほど。昔あった風景のような田舎にまた、逆戻りするんじゃないだろうか。というか、昔以上にインフラに維持費がかかるため地方では支えきれず、結局、夕張のような風景(参照)になるのかもしれない。
 老後はほそぼそとパン屋でも営んで・・・それも難しいのかもしれないと思うようになってしまった。

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2014-04-12

私が魔女だった件

 今日これから書くことは、まとめていつか書きたいと思っていたことだ。中々そのきっかけがなく、自分でも恐ろしくて置いてきたテーマかもしれない。絞って書こうとすると文章構成を先に考えてしまい、書きにくくなることでもあったんだろうか。「魔女」と、私自身をそう呼ぶ理由が既に懺悔(ざんげ)のような、夫に申し訳ない気持ちも少しあるからだろうか。よくわからない。自分を悪者のようにしないと書けないからかもしれない。ただ妙に、「魔女」という自分に自信がある。以下、読まれる方が私を欺瞞に満ちた女だと判断されてもいい。私がどう批判的な目で見られようと、これまで送ってきた生涯は、今、または今後夫との離婚を一考するときに誰かの役に立つかもしれない。また、現時点で離婚を考えている人にとっては腹をくくる良いテーマとなるかもしれない。まとめずに、考えながら書くことにした。
 さて、私の人生はすでに下り坂に差し掛かっている。半分はとうに折り返した。子育てもそれなりに終わり、三人の子どもたちは自分の道を歩み始めている。子育てが終わったお母さんとしての役割がもう終わったのだと言い換えてもいいだろう。すると残る私は何者だろうか。「女」、「老女」、「人」と言えるかな。
 「女」としての私には離婚して一人か、または、再婚して二人で生きることも可能性としてある。また、「老女」だったら、孫の子守りをしながらお祖母ちゃんとしての生きる道。「人」としてなら、これまでの蓄積から何かできることを見つけて社会に参加する道などが挙がる。
 「女」として人生をやり直そうという時、今の夫に満足できず、離婚すればまた道が開け、人との出会いの中で再婚もあり得るという可能性の余白を少し置けることでもあるかもしれない。この離婚の場合、夫に問題があるというよりも、自分に受容できる器がないということだ。相手が悪いから私が不幸だ、という考えは大間違いだ。ここをよく履き違えてしまうと思う。だから何度も離婚を繰り返すのではないだろうか。どんな相手なら寄り添えるのか自問自答を繰り返しても、好き嫌いの判定は、その都度変わるものだ。思いというのはものすごく気まぐれで、大好きという感情は、大嫌いと反転する同じ要素を持っているからだ。「恋」というものがいつかは終わるのがその悲しさでもある。「女」として生きるのがいかに難しいか、どう考えても私には忍耐が足りないという結論に至ってしまう。だから、事あるごとに相手を許せる自分かどうか、究極はそこに向き合って自分を許すしか道がない。また、その相手も一定ではなく、人の価値観は変わるもので、いろいろな角度から見てみると、憎いと思ったその人物の真意を知りたくなったりもする。するとそこに対話が生まれる。話し合いたくもないと思った相手との対話のチャンスが巡ってくると、解決への道がそこに開けるものでもある。「急(せ)いては事を仕損じる」というのは格言でもあるかもしれない。結論が出せない時は少し置いてみるのも離婚防止になる。
 結婚してから「ああ、この人と結婚して失敗した」と思った時点で離婚できない理由はまだある。例えば、「一生添い遂げるのが結婚だ」という古いが、離婚の可能性に余地を与えない考えを持っていると離婚は間違った事、自分は過ちを犯しているのではないかという自責の念が働く。これは今の若い人には通じないことかもしれない。「結婚は墓場」といわれるが、離婚できないという考えが背景にありそう。
 また、子どもがいれば離婚は一番手強い。この子からお父さんを奪うことになるのではないかという罪の意識が自分を毎日責め立てる。が、これはちょっと違う。両親が一緒に住めなくなっても子どもの生みの親としては不変だ。離婚して運よく再婚できれば、子どもにはなんと伝えたらいいだろうか?果たして子どもは新しいお父さんを受け入れてくれるだろうか?そんな不安を持つくらいなら離婚しない方がマシだと、そういう打算も頭の中で働く。答えは簡単。新しいお父さんができて、あなたには二人もお父さんがいるんだよと、これだけじゃないかな。
 問題は、一人でとりあえず育てるという時、お父さんがいないとなれば自分がその役割をするしかない。働きながら時間を駆使して買い物をし、食事を作り、子どもを寝かせて洗濯をし、高校生ならお弁当も用意しなくてはならない。それをしながら子どもには難しい問題も出てくる。いじめや不登校、交友関係、スマホをいつ与えるか、ゲームはやらせるのかなど数えきれない問題と向き合って必要があれば子どもの話を聴いてやる時間も必要になる。色々なケースで父親なら何と言うだろうか?と、自分なら強く言わないことでも強く叱る必要に迫られることもある。また、それを後で宥めて元気づける役割も必要になる。全く忙しいことこの上ない。
 他に考えられるのは、経済的に自立できるか自身がないことが離婚を踏みとどませる。これはよくあると思う。ましてや子どもを連れて離婚するとなると安倍さんが今取り組んでいるらしいが、女性の社会進出の環境作りが全く進んでいない日本では、シングルマザーが働ける会社は少ない。幼い子供を預ける先も、その費用も女性一人の働きでは難しいなあ。と。
 以上が離婚したくてもできない理由(の一部)として考えた。さて、本題の魔女化だ。先に挙げたもろもろの理由から離婚を踏みとどまったとする。いや、私は踏みとどまった。でも、相手を気に入らないということを誤魔化すとまでは言わずとも、仕舞って置く必要はある。それでも何かあると時々出てくるが、子どもの前ではそれは良くない。その理由は、幼い子供の感情までは計り知れないが、親が大声で罵り合って喧嘩する姿は子どもにどう映るかだ。
 一言で言うと、子どもの、自分の居場所を失くすことになる。子どもは本来は親のことが好きなのだが、その親が喧嘩するとどっちにも付けなくなる。どちらかにつくと、それは、もう片方を失うことになるからだ。そんな選択は子どもにはできないのが普通だ。では仮に子どもが母親についたとする。それは母親が夫よりも自分が正しいとして子どもを味方につけている姿かもしれない。妻の夫への嫌悪や憎しみというフィルターを通して子どもにも父親を見せてしまうことになる。それは、男性に対するそういう価値観を持たせてしまうことになる。母親の怨念のようなものを子ども時代に背負わせてしまうのだ。話が飛躍するが、裁判で死刑判決が出た木嶋早苗の男への冷淡さは、私の直感から親子関係だろうと思うし、作家の林真理子の男性と張り合うような貪欲さは、彼女の母親の夫への怨念が乗り移っているとも思う。いや、もっと身近にもこんな人生を背負った女性はいると思うが、子育てでで後悔しても取り戻せないことだ。配慮しなければとんでもない苦しみを子どもに背負わせてしまうことになる。だが、配慮したからといって完璧にはできない。よく失敗もするが、そこで自分自身の夫への感情がどろどろになるか、さらっとその場で流せるかは大きな分かれ道だと思う。同時にそれは自我との苦しみとなるが、「母親」という事実を受け入れるしかない。逃げられないのだ。特に良い人を装う必要はないが、夫とうまくいかない理由がいろいろあり、価値観の乖離を埋める方法などむしろないと諦めたし、かといって逃げることもできず、自暴自棄になることだってあった。そこで私はどうしたか。
 だから私は魔女になる決心をした。とは言え、それは、母親という役者に徹する決心だった。今思えばこれは母親の自覚をもつという、多分、アタリマエのことだったに違いない。誤解があってはならないが、これは、自分をねじ曲げたりすることではなく、乖離した部分をしまい込み、表に出さないというだけのことだ。そして、夫に父親役を望まないこと。この課題は自分にある。夫を「父親」として子どもに入れるのは母親の役割だからだ。これとは別に、夫が「父親」として存在し、子どもと関わりを持っている時点で既に父親という「事実」として子どもにインプットされていることでもある。
 魔女化するのは、最低、争いは起きないし、子どもたちも自らの感性に従って母や父を感じ、大いに批判したり大好きになったり、反発したり。またそれができることが子どもの成長過程とも言える。親らしさと言えるかどうかは別にして、このような自由を与えることが一つにはあると思う。
 魔女化した私のエピソードをここでもっと語るべきかもしれないが、ふと書きながら、それは母親としての自覚から湧いてくる、個性とでも言うか、そういうテーマだと思うので書き控えようと思う。
 どんな魔女になりすまそうと、子どもは親を見ぬくもので、愛があり得ないと疑うこともない。それは、私が認めようと認めまいと、父親からも受け取っていると言える。

cover
「考える生き方」
by finalvent

 最後に、長くなったが、やっと書いた。と言ってもまだ書き足りないし、ものすごくすっ飛ばした感が残っている。離婚理由は沢山挙がっても離婚しない理由はなかなか書きづらいものでもあった。だが、「考える生き方」(参照)の読後、母親として生きた私の半生は、正に考える生き方だったとも言えるし、何か奮い立たされて書かずにいられなかった。発売されてから一年が過ぎてしまったが、書きたい気持ちが離れなかった。

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2014-02-13

近況について

 まとめて書く機会が極めて少なくなった最近、Twitterで考え事をそのままメモ的に書いていたりしている。ある程度まとまった時点でここに記録するといいのではないかと思うことも儘あるが、時事問題や政治経済、世界情勢に至ると、どうしても政府批判的な傾向になってしまう。以前はそれにもお構いなく書いていたが、世間の価値観や政治志向が多様化するにつけ、自分一人の考えはそれはそれで良いとしても、ブログに書く意味が自分になくなってしまった。自分のために書くなら、Twiterの目立たないところで充分事足りるというか、わざわざブログに書くほどのこともないと思うようになった次第。
 さて、近況についてだが、それこそどうでもいいことだけど、私にとっては記録しておきたいことも有り、ついでに少し私的なことなども書いてしまおうと思う。
 今私がいるところは諏訪ではなく、都心から少し離れた、いわば副都心というか、「だいじょうぶだぁ」の志村けんの出身地と言われる東村山市内の娘家族が住むマンションに居る。今月末になるとちょうど二ヶ月になる。昨年の暮、いつもなら実家に大集合してお正月を迎えて諏訪に戻るところ、そのまま娘の二人目のお産に備えてここで待機することとなった。その時点では長くても一ヶ月と見ていたが、生まれた子どもの心臓に異常が有り、心臓内科のある杏林大学病院に緊急入院させたため、いろいろと予定が変わった。
 このあたりのことから書き始めようと思う。
 出産した翌日、生まれたばかりの赤ん坊見たさで産院を訪ねた時、見た目では何の異常もなく、元気におっぱいも飲むと聞いて安心していたが、その夕方、娘がチアノーゼが少し強いのではないかと保健師に相談したところ、血中酸素がやや少ないという所見があり、安全を見て専門医に診てもらうことになった。そして、その夜、救急車で杏林大学病院に搬送され、新生児特定集中治療室(NICU)に入院となった。その直後から色々な検査が始まり、日をまたいだ夜中の3時頃、子どもの心臓には、「心内膜床欠損症(房室中隔欠損症)」という病名がついた。早い話が、心臓の内部に穴が開いたまま生まれたわけである。このような障害を持って生まれる確立は「100人に一人」で、割りと多いのだと知った。そう言えば、娘や息子たちの同級生に何人かいたことを思い出した。小学校の時に二度目の心臓手術を受けたという同級生のあの子、今頃どうしているかしら?と、ぼんやり、私の孫がいつかそういう手術を受けることになるのを想像していた。
 ところで、この度そういうことが身内に起きて知ったことだが、心臓に穴が空いていると言っても、細胞分裂を繰り返して臨月まで人の姿らしくなる道程のどこでそうなるのか、編み物なら一目、見落としたまま完成させたセーターのようでもある。などと冗談も飛ばせるほどに心身にゆとりも出てきたというものだ。
 産科の診察で「心音」が聞こえると、一応、「おめでたです」ということになる。人として認められる瞬間がこの「心音」ということだろうか。人らしい姿になるころには、心臓が形成されてる。この時、既に穴が開いていたということになるが、「心音」で所見があったわけではない。また、その穴が心臓のどこに開いているのかがとても重要になる。生まれたばかりの赤ん坊の心臓の大きさはイチゴ位だという。その小さなイチゴの、表面に穴が見つかった場合、成長とともに筋肉が発達して偶然穴をふさぐこともあり、手術の必要もなくなるそうだ。不思議なもので、穴が空いているからと言って、心室や心房から血が流れ出すようなことはない。が、厄介なのは、内部に開いた穴だ。うちの子の場合がこれ。静脈から集まった血が酸素を含んで動脈から体内に循環するその入れ替わリ作業が行われる部分の壁に穴が見つかった。これは、「100人に一人」の確率からさらに3%位の確率で生まれるそうだ。蛇足だが、このような心臓疾患をもって生まれる時にダウン症や、脳の未発達を伴っていることが多いということらしい。染色体の異常や細胞分裂が上手く行われなかった事に起因しているので、そういうことが言えるのも納得できた。
 検査でここまで分かるのかと驚いた点でもあったが、見たこともない心臓の働きがどうれくらいなのか数字で示されると、現実に向き合うしかない。心臓の浄化能力は93%ほどだと聞いた。健常児で98%位だというからわずかではあるが、血中酸素が少ない。このイチゴの内部にいつか、成長の段階を見計らってメスを入れる必要がはっきり診断された。
 そう言えば、日本の保険制度や地域の福祉の点で感じたことがある。生まれたばかりの子どもが親の健康保険で治療しないではいられないほど、医療費は高額になる。
 先ず、健康保険で治療を開始したことにするには、出生届をして、つまり、命名するというのがある。生まれて顔を見てから名前を考えようと思っていたらしく、かなり慌てて名前を考えることになった。即座に市役所に出生届を提出し、続けて健康保険に加入する。国民健康保険なら同じ市役所でできるが、そうではない場合は、関係する保険事務所へ出向く。それから、市町村ごとで補助している子どもの医療や障害を持つ子どもの福祉など、親の負担が軽減されるよう、子どもにとって充分な治療が受けられるよう、なんやかやと手続きがあった。
 産後で入院中の母親はどうかというと、かなりい忙しい。生まれると直ぐにお乳が出るわけではなく、赤ん坊に吸われて、ホルモンの働きで次第に出が良くなる。が、その子どもがいないのである。つまり、手動で搾乳する。これが初産だと泣きたくなるくらい出ない。幸い二人目でもあり、なんとか搾乳は順調にできるようになった。冷凍保存された「初乳」のストックを作り、赤ん坊の入院先に届けるのは父親。この父親に限定されるのが便宜上、不都合でもあったかな。誰かが届けるのではなぜダメなの?これはよくわからない。病院のシステムだろうか。手の空いている人が届けられれば良かったが、よくよく考えてみると、父親が父親の自覚を持つためにはいいかも。子どもが育つ段階ではいろいろなことが起こり、それを乗り越えるために父親が関わって共有することから「親」となっていくことでもあると思う。
 さて、これらのことが約10日間続き、その間、長女の日々の世話で私の日課が過ぎた。退院後は、何かとその子に神経を注ぐ両親に気兼ねなく、ああだこうだと言う長女で良かった。親は忙しくなるのだよ。親にしかできないことがある。それを思い知った娘夫婦だったと思う。彼女に妹という自覚はまだないかもしれないが、赤ちゃんが家にやってきた~という喜びは、日々の仕草にも現れ、なかなか微笑ましい。
 私はというと、お豆腐屋さんのお婆様に「あなたの子どもさん?」とか言われてビビった。いやマジで、うっそーと言いたかった。この年で子どもが生まれる道理がないっ。が、見た目は若いし、そう言われるのかも。私の母と私、孫の三人で買い物した時も「お孫さんですか?」と、私の母、つまり曾祖母ちゃんが言われるのである。
 世の中の高齢者が若く見える分、私が感じる以上に、私などは若僧の類なのかもしれない。
 
 物哀しい歌い方ではあるけど、歌詞(フランス語)から何か小さな幸せを感じる「if」という、Zazの曲。

 私に一滴の水の潤いを与えてくれた。

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2013-08-11

バリ島産の「カヌーの上で釣をするネコ」のオブジェから思うこと

 もうかれこれ7年前になるんだろうか。つい最近の事のように思い出されるのは、春日部の「地下神殿」にTwitterで知り合った数名に案内されて行ったことや、そのメンバーの消息である。
 というのも、この二年ほど、Twitterの使い方を変えるために、最初に作ったアカウントを削除して別のアカウントに切り替えたため、当時のお仲間とは交信しない状態だった。個別に思い入れや意図があってそうしたのではなく、あくまでも自分の都合だった。が、最近、どこからともなく私を見つけてフォローされる。なので、自動的にフォローしてまた、交流がなんとなく再開したかに思う。とは言え、私のしていることは毎度おきまりのワンパターンで、時事関連ニュースのメモ置き場のようなもの。交流よりも情報ソースの取り込みが多い。それでも、しばらく音信不通だったため、久しぶりに懐かしい友に会ったような気もしている。そんな中、春日部の地下神殿に視察に参加されたお一人で、特に思い出すことがあった。

Photo 隣の画像を見るのが早いかもしれない。これは彼にお願いして見つけてもらった、バリ島の「カヌーの上で釣をするネコ」のオブジェだ。

 実は、春日部の神殿視察に行ったのよりも少し前のこと、彼のmixi日記で、これにとても似たネコの釣をする姿のオブジェを最初に見つけた。可愛い。そう感じて、なんとなく癒された。が、とても欲しいというほどではなく、いつか手に入るといいな程度だった。あれから7年。殆どその置物のことは忘れてしまっていたが、Twitterで再会した瞬間に、「あの置物」と、気になった。その彼が、見つけてくれるというので、すっかりその気になって楽しみにしていた。そして、ついに先日、届いた。

 なんとも可愛いではないか。
 しかし、なぜこれほどまでに愛おしく引かれるのか?例のごとく少し考えてみた。
 ネコが小首を傾げて、少し後ろに反り返るようにして釣竿を両手に持ち、カヌーに座って魚を釣っているだけなんだが、なんとも憂いがかっている。ないものねだりをして叶わない願いを持っているとしたら?そう、釣っている魚に秘密があった。そもそも、ネコは釣をしないし、魚は七輪から盗むものだ。そう、サザエさんの主題歌でも歌っているじゃないか。で、そういう超現実的な解釈は何の訳にも立たなかった。役立ったのは、有りそうもないネコの釣り姿は、私の仮想する現実を無にして現実的に生きろと私を励ます対話相手だったからだ。まあ、結構痛々しい様である。少しこれとは違うが、吉本隆明氏が「ネコに好かれる」と話した時のあの感覚でもあったかもしれない。それが7年前にはなかった感覚で、だからか、可愛いだけで置物を欲しがったリ飾ったりしない私が、今回はどうしても欲しかった。探して欲しいと頼んだ時点ではこの感情に気づいていなかった。
 「置物」と言うよりも、現実から逃げ出してあらぬことを切望せぬよう、「見守り役」かもしれない。
 その後ろ姿のネコの肩は、情けなくなるほど憂いをたっぷり含んでいるように見える。そういう思いを通してしか解釈できない今の私の姿なんだとしみじみ感じている。

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2013-06-21

身体が壊れて人が一生を終えることとは 「開店休業(吉本隆明・ハルノ宵子)」を読む前に

 素人のすることで、大したものが作れるでもないけど、家から数百メートル坂道を登った川沿いに、先祖が残した土手の土地で畑を作り始めて今年で五年目になる。若い人がめっきり減ってしまった近頃、私の年令での畑デビューは、近所のお婆様達から結果的に歓迎された。どこから突つかれても痛いほどの畑の知識もなく、するどい指摘や嫌味もスーッと吸収してしまう、格好の話し相手となったからだと思う。
 中でも、言うことが一々辛辣で棘はあるが、この辺では一番年長で物知りのお婆様の姿をしばらく見かけなかった。ふと気づいてから一ヶ月くらい経っていただろうか、上の畑のお婆様が「藤原のお婆様は、一週間ほど入院して帰ってきて、今は家で休んでいるらしいよ。」と教えてくれた。九〇才を越えていて、いつお迎えがきてもいいとご本人が話していたのを思い出した。それにしても一週間とは短い入院だ。何が原因だったのか聞くと、栄養失調で倒れたという。まさか。あの食べ物にうるさいお婆様がなぜ栄養失調で?さらに訊くと、入れ歯の噛み合わせが合わなくなったためろくに食べることができなくなってから長く、少しずつ栄養失調状態に陥っていたということだった。人間、歩けなくなったらお仕舞だとか、食べるものがろくに食べられなくなったら終わりだとか色々言われるが、正にそれが元だったとは。顎や顔の骨格が年令とともに変化する過程で、10年もすると入れ歯の噛み合わせが悪くなり、痛みを伴ったためだったのだろう、今思えば、外していることの方が多かった気がする。
 この時、色々なことを思いめぐらしていた。その中でもっとも私が混乱したのは、このお婆様の生き様を自分のこの先の老婆の姿に投影してみるに、その姿が見えにくいことだった。考えて、想像してみても鏡を見ても、自分の老婆の姿は見えにくいものだ。と言うよりも、見たくない、想像したくないという気持ちが先にあるからか、その姿を鏡の前に映し出さないようにベールをかけて覆っている感じかもしれない。それで打ち消してしまうのかもしれない。その言い訳に、今から想像してみたって仕方がないし、それで心配事をしても何もならないし、と。「考える生き方」(参照)を読んだ時も、その時その時で、何が自分にできるか考え、できることをして生きるのだと再確認したことでもある。が、何かがここで抜けている。それがこのお婆様の入院騒ぎで舞い降りてきたかに感じた、老いの姿とは、死に向かう自分だった。

「開店休業(吉本隆明・ハルノ宵子)」 吉本隆明氏の娘さんが、父親の最後の様子を鮮明にさせたと評されている「開店休業(吉本隆明・ハルノ宵子)」(参照)で、吉本翁の老衰したその姿を認めたくない私を見た。吉本氏が亡くなった時のショックは思ったほどではなかったが、生きて老衰して行く姿をみたくもなかった。

 福島原発事故後、これが亡くなる前の年に当たるが、それでも素晴らしく生き生きとした言葉を残しているし(参照)、年老いていない吉本さんとして私は嬉しかった。が、その気持の裏側は逆で、吉本翁がどんどん耄碌していく姿を認めていて、気持ちの何処かでいつもそれを打ち消していただけに過ぎなかった。
 2009年、糸井重里氏のお膳立てで、「吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~」(参照)がNHKの教育でETV特集が放映された。この時は、感動した。初めて肉声と翁が動く姿を確認できた感動もさることながら、これが最初で最後かと感慨もあった。亡くなったことでそれが現実になってしまった時、老いるというのは嫌なものだと、翁の晩年に書いたものから遠ざかってしまった。
 それは、つまり自分の老いを認めたくない気持ちや、死への道のりを確認すようなことは残酷で、そんなに辛いことを生きている今、何もわざわざ知ろうとする必要はないだろうという気持ちに他ならない。そう思っていたからだと思うが、「開店休業」も、すぐに飛びついて読もうと、積極的な気持ちがあったわけでもない。
 全く嫌な性分だが、これは、逃げは逃げで、すでにもう向き合い始めているということを認めざるをえない。この書評を読んでしまった以上、逃げたい自分を捕まえてしまった。観念するしかない。なんとなくこんなふうに思っていたら、昨日、これに追い打ちを掛けるかのごとく、「老いの、身体が壊れて死に至るという意味合い」(参照)で、次のように吉本翁の老いの自覚が書かれていた。

 吉本さんの老いの話は、続いて、歯が浮くことに移る。いわゆる身体の衰退でもあるが、娘ハルノの話では60代から入れ歯だったようでもある。 吉本さんは糖尿病でもあった。30代のころに発症している。そういえば、邱先生もそうだった。糖尿病は(糖尿病と限らないが)恐ろしい病気で、結局、吉本さんも晩年それに苦しむことになる。歩けなくなり、失明もする。 ハルノの話では1990年代末には、尿漏れもあったらしい。

 冒頭に書いた、畑のお婆様が入院したのは老衰ではなく、栄養失調だったという話につながる。だが、それも老化の一途であった。
 吉本さんの歯が浮いて60代で入れ歯になった話と、90歳で入れ歯のかみ合わせが悪いために栄養失調で入院した近所のお婆様のことは、私の中では同じ事なのだ。衝撃でもある。が、これが自分の老婆の姿とすっぽり重なり、なんだか悲しくなった。
 「開店休業」はまだ読んでいないが、この悲しさというか、虚しさをどうやったら「希望に変える」事ができるんだろうか。
 そればっかり考えている。

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2013-04-18

二十数年前、私はこんなふうに結婚しました

 ここ数年、日本では、結婚しない若い人たちが多いとささやかれている。いや、日本だけではない。欧米でもその傾向にあるそうで、その理由は様々。それらの統計を垣間見て、皆、いろいろと頭でっかちになって考えすぎなんじゃないかという私感を持った。そして、結婚を決める時の理由というか本質とも言える「感性」を重じない傾向にあると感じている。
 結婚の決断を難しくしている理由に、その条件が結構厳しいとも思う。それだけに、ジクソーパズルのようにピッタリその条件に当てはまる人に出会うまで妥協しない、という頑固なまでの決意もあるようだ。なんと忍耐強いことかと思う。まあ、それも結婚のことだからと、他人は、個人の価値観には立ち入れないので、結局、放置されるのかもしれない。冷たく言うと、自業自得で結婚できないのである。
 ところが、現実問題として、結婚願望という感情の行き場がなくなっている。これが浮いた存在になっていることは見逃したくない。将来の可能性として、唯一の希望だからとも言える。体と感情は正直にその願望を願望として浮き彫りにさせるのだと思う。子どもを生む準備は整うし、同時に一部の同性愛者を除いては、異性に引かれ合うものだ。が、結婚する相手と巡り会う機会がないとか、結婚を想定すると相手を気遣うあまり、自分に自信が持てずに決断できないなどという話が溢れ出す。男性側の理由では、相手を気遣う優しさでもあるが、その奥を詮索するに、欺瞞でしょう。結婚に踏み切れないのは、何よりも傷つきたくないのは自分だからではないかな?
 このように、挙げればきりがないのが「結婚できない理由」だが、結婚する理由というのはあまり挙がらないようだ。夢が持てないとか、メリットがないなどとつい、できない理由が浮かんでしまうのかもしれない。そして、さっきまでこれらの問題は自分の問題じゃないと思っていた。が、「考える生き方」(参照)のインパクトが私の脳裏に少し残っていて、「結婚のご報告。30年彼女がいなかった僕が、秒速で結婚できた理由」(参照)という話しを読んで、これから結婚する可能性のある人にとって、私に何かできることはないか?と、とんでもない事を思いついた。
 結婚を決断するその時の瞬間はこんなものよと、一例として昔の私事で恥ずかしいけど、ああ、そんな簡単に結婚できるのか!という話をこっそり教えたいと思えた。これは私の子ども達にも話したことはなかったかな。暴露を決心したのは、「考える生き方」を読んだ多くの人の感想からで、自分のことなど参考になるわけがないという決め付けが一番役に立たないと思ったからだ。これも本書の恩恵だった。あんがと。
 さて、結婚を決断するに当たってなにが決め手となるか?これがキモなので、単刀直入にこの話をぶつけたい。
 例えば、先の「彼女いない歴30年の竹内さんはこう話している。

恋に落ちました。

こんな素晴らしい提案書を貰い、僕は涙が出るほど嬉しかったのです。そして何より、僕のこんな一般的にはフザケているとも取られる企画に、ちゃんと真剣に向い合ってお返事をいただけた事が何よりも嬉しかったです。

この時、僕は恋に落ちました。

 そ、「恋に落ちる」いい言葉だ。これは男性のキーワードとしてトレンドになるんじゃないかな?そう思ったのは、「考える生き方」の著者が結婚を決めた時もそうだったと書いてあった。なんとなくこれ、何が言いたいか分かる。ただ、女の私が男性の感性を同じだと言い切れないだけである。
 私の例では、「恋に落ちる」とまでは言い難いが、あえて言葉にするとしたら、「この人ならずっと一緒にいたい」だろうか。その時の事をちょっと思い出して書いてみることにした。
 一言で言うと、決め手は「人間愛」だと思う。それをそうだと感じ取った時は、ちょっとした事件が起きた時だった。
 アメリカ人の友人、ポーレットが岡谷市で仕事をしている時、彼女の紹介で私はある会社社長と商談のため、諏訪市で合流した時だった。東京の赤坂のマンションで犬を飼いながら、そこを仮事務所として起業したばかりの私だったが、犬を置いていくわけにもいかず、犬を連れて友人を訪ねた。彼女とうまく合流し、紹介された会社社長の友人が経営するという飲食店で商談を済ませた。そして、その社長が予約してくれたホテルにその日は泊まり、翌日、彼女が自分のアパートに一泊して、ゆっくり遊んで帰ったらどうかというので、遠慮なく犬を連れて彼女のアパートへ転がり込んだ。その夜、前日に食事をした飲食店のオーナー社長の招待で彼女と一緒に三人で食事をして彼女のアパートへ戻ると、つないでいた私の犬がいなくなっていた。これが事件である。
 一晩中、そこらをぐるぐる探しまわって夜が明けてしまったけど、そのまま今度は、近所の「犬」のシールが張ってある家にピンポンして、犬の特徴を説明して尋ね歩いた。が、まったく足取りがつかめない。もしや車にひかれたのかもしれないと思い、道路も見て回ったが、事故を起こしたような形跡はなかった。土地勘がないため、全ての道路とも言えず、やっていることは誠に中途半端だったが、アチラコチラ探しまわったのも少し気安めでもあった。じっとしていられなかっただけだったかもしれない。
 土地の人である飲食店オーナー社長に頼んで、「迷子犬」の広告を出すのに最適な新聞社に連れて行ってもらい、記事をお願いした。広告を見て連絡をもらえるかもしれないと思い、ポーレットに一週間泊めてもらい、そこを電話の連絡先にしてもらった。
 約束の一週間もそろそろという時、ポーレットが「ねえ、悲しむと思ったから言えなかったけど、実はチーコ(犬の名前)はあの夜、車にひかれて死んでいた。それを見つけて、片付け、あなたには内緒にしておくように彼に言われていた。」というのである。彼というのは飲食店オーナーのこと。
 この時私は激怒した。あの日に話してくれていたら、無駄に一週間「生きて何処かにいる」という望みを持って悲しんでいなくても済んだのにと、腹立たしかった。が、だんだん冷静になってきて考えてみたら、チーコが死んだことを知りながら、私の気が済むまで、私のあの時の気持ちをすべて引き受けてくれたのは彼だった。そういう計画があったわけではなく、彼も、途中で死んだことを言ったほうがいいと思ったのじゃないか?とも思えた時もあった。が、チーコが死んだにしろ、チーコはどこへ行ってしまったと思いこむにしろ、チーコは戻ってこないという事実を私が受け止めることで事は済むのである。済まなくなって混乱をもたらしたのは、ポーレットが約束を守らない女だったからだ。
 冷静になってみると、こういう形をした「人間愛」もあるのだと思えた。これが、結果的に結婚を決断するに直結した。と言っても、私がこれをもって結婚したいと言ったのではなく、結果的にそうつながったというだけ。
 あーれから30年・・・綾小路きみまろじゃないけど、劣化するよ、そりゃあね。
 話はこれでお終いなんだけど、ちょっと蛇足ながら、加えておきたいこと。
 この人と結婚しようという時、何を決め手にするのかということがここでは言いたいことなんだけど、女は、自分に優しくしてくれる男性に弱いみたいなとこはあると思う。結婚前の女の気を引くための男の優しさは、結婚後は直ぐに消えてしまうというアレ。「アレはなんだったの!釣った魚には餌をやらないじゃない。」と、怒る人もいる。むしゃくしゃしている人が多いと聞いているけど、結婚後でもその人の人間としての「愛」は必ず見つけられると思う。なぜかというと、あなたを選んだ人だから。

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2012-09-22

日本語が崩壊しているのか?それとも、私がアスペルガー症候群なのか?

いきなりこのようなうタイトルをつけると、何か、病的なものを診断するのかと思わせてしまうかもしれない。大丈夫。誤解なきよう先に少し説明すると、実は、他所で昨日、日本語の会話がつらい時の話が取り上げられていて(参照)、私は、そこを読んで二つの事を思っていた。一つは、外国人の拙い日本語を理解するときに使う推察力のこと。現実に起きていることから推察して何が趣旨なのか判断して受け答えする、ある意味特殊技能的な会話術のこと。もう一つは、私の息子に以前疑ったアスペルガー症候群のことであった。後者については、息子の名誉にも関わることなのであまり詳しくは書くべきじゃないと思ったが、実は、息子にアスペを疑った私が、実は、常識観念的には問題があるのかもしれないと思っていることなので、軽く触れて書いておきたいと思った。但し、上手くまとまめられていないので、文章が散漫になるかもしれない。ただ、今回は、書き留めておく良いチャンスだと思ったので、とりあえず筆を走らせている。

まず、前段の一つ目に挙げた、特殊技能的な会話術について。外国人の日本語と言っても流暢なレベルとそうでない、単語を並べたようなレベルがある。ここで取り上げるのは後者の方。例えば、最近身近に起きた例を挙げると分かりやすいかもしれない。

私は、ご近所から沢山の茄子を頂いた。新鮮な内に食べようと思ったら我が家ではとても食べきれない量だし、そうだ、近所の日系ブラジル人のセシリア(因みにご主人はイラン人)に食べてもらおう。そう思って袋に茄子を詰めて届けに行った。彼女は不在で、代わりにご主人のアサヤさんが応対してくれた。その時の会話がこうだった。


私 「ご近所から沢山茄子を頂いたので、おすそ分けに来ました。茄子は、食べますか?」
アサヤ 「あ、うちももらったよ。ちょっと待って、出してくるから」

この時点で理解できたのは、茄子はもらったから彼の家にもたくさんある。だから、私のはいらないということ。でも、「ちょっと待って」って、何故だろうか。出してきて見せてくれなくてもいいからね、と思っていた。待っている間、彼の言葉の意味は何なのか、何を待っているのかさっぱり分からないまま待っていた。

彼は、自分の車から大きな袋を二つ抱えて戻ってきた。そして、こう言った。
アサヤ 「車に忘れていたから持ってきた。」
私 「茄子を食べてもらいたくて持ってきたんだけど、沢山あるからいらないよね?」
アサヤ 「一つあげる。」

私は、自分が持ってきた茄子を彼に渡し、彼からは、もっと大きな袋に入った茄子を渡された。現実に起きたことと、彼との会話はとても結びつかなかったが、彼が意図したことは、私の茄子と、彼がもらってきた茄子を交換しようということだった。最後に私が、「交換するの?」と聞いて初めてそれが分かった。彼にしたら、彼の意志を日本語で説明するのが難しかったようで、おそらく、行動で示した方が速いと判断したのだろうと思う。

さて、こちらのご夫婦とは最近お付き合いし始めたのだが、日系ブラジル人のセシリアとイラン人のご主人の二人の会話はと言うと、殆どが日本語なのである。でも、私にはそのやり取りが理解できないことが多々ある。隠語だらけで、何がなんだかさっぱり分からない。さっきの茄子の会話のように、茄子をもらって欲しい私への返事がなまずなかったように、こちらの意図が伝わったかどうかも怪しい内に次の茄子の交換という意志さえも読み取れなかった。そと同じようなパニックに陥ることは儘ある。でも、ご夫婦には、一緒に暮らしてきた年月から、慣用的な日本語がきっと脳内に培われているに違いない。不完全な文法の日本語でも、その不完全さに逆に一定のルールがあって、二人の間では通じ合えるのだと最近わかってきた。問題は、この会話を理解しようとする私は、会話中の主語を探し、意図としての動作を見て言葉の理解が適っているかどうかを確認する作業を課せられている。これを素早く脳内で行うのは、アスペに見られるような特定の事象への「拘り」なのだろうか?という疑問である。というのも、毎回の会話でへとへとになってしまうからだ。

英語も少し通じるので、英語で会話を始めると、セシリアは単語を拾って理解しようとしてくれるが、アサヤは英語は殆どできないので、セシリアが彼女の日本語で彼に説明するという変な現象が起こる。だったら、私が初めから日本語で喋ればいいのではないのか?うーむ。とても悩ましい。これは、彼女らともう少し交友が深まれば自然に会話に慣れてくるということなのか?それに多いに期待したいところだが、私は、会話を理解するのにどうしても主語を見つけ、何を意図しているのか目的を知ろうと、困憊してしまうのである。

アスペ判定は如何に?昨日のブログのエピソードを読んで悩んでしまった。

もう一つの気がかりは、息子の一種の癖に関してで、物をいろいろなところに押し込んで片付けるという癖のような行動に、どう理解を示したらいいのか分からなかったことだ。

息子が東京の大学に入学する春のこと、私は、この件で彼を精神科に連れて行った。勇気のいることだった。長時間の心理テストの果てに得た診断は、知能指数は普通よりも高く、思考に問題があるとは認められないということだった。この時は、診てもらった医者を間違えたのかと思った。何を心配したかと言うといろいろあるが、特徴的なのは先に挙げた、物をしまい込む癖だった。

例えば、毎日お弁当を作って持たせていたが、時たま、友人とコンビニでも行って何か別のものを買って食べたくなったとしよう。彼は、お弁当を持っている事を忘れるからか、無視して別のものを食べたいくなっただけなのか、とにかく、何かを買い食いする。そこでお弁当が残る。これを持ち帰って自室の押入れや物入れにとりあえず仕舞い込む。この日の処理はこれで終了。また別の日、同じようなことがお昼に起こり、手付かずのお弁当を持ち帰る。いつかのお弁当処理と同じように、どこかに仕舞い込む。このようなことが連続し、妙な匂いにある日私が気づいた時は、彼が固まって貝のように口を閉じてしまうまで私の怒りが飛ぶ。この時は、私は病気になるかと思うほど神経をすり減らして彼を理解しようとしたが、彼の行動の本当の意図は分からなかった。たまたま病院で測ったら、血圧が上が157、下が98だった。平常時では低血圧気味の私には辛かったあの日々を思い出すが、自分がアスペなのか、息子の変な癖がおかしいのか分からない。

初めは息子は、お弁当を食べなかった事を隠蔽するために仕舞いこんだのかと思い、日頃、叱りすぎているせいかと反省もした。が、こう何度も同じことが続くと、息子にはアスペのようなものがあってそれがこういう行動となるのかと疑った。もしもそうだとしたら、親の私がそのことを知って彼の理解者にまずなることだろう。そうでもなければ、東京生活で彼は周囲と揉め事を起こすのではないかと心配した。それが、彼を精神科に連れて行った理由だった。と言っても、彼を納得させて連れて行くのにかなり話をした。仮に騙して連れて行っても、それは受診の時にもう一波乱起こることになる。だからだった。私のためだからと言って、頼んだ。渋々だったが、受信することに何ら躊躇することもなく、行くとなったらその足取りは軽かった。

結果、何も新発見はなかったが、二人で心理テストを受けたことや、何よりも精神科医に診てもらうというハードルを二人で越えたということへの達成感のようなものが私にはあったが、息子は、面倒なことに付き合ってやれやれと、疲れていたようだった。私が頼んだのだから確かにそうだったと思う。

とてもまとまらない内容になってしまったが、もう少し頑張って書くことにする。

「アンとサリーのテスト」で、前述のような息子と格闘した日々が蘇ったのである。私が隠されたお弁当を探す点で、筆者と同じような論理を引いていた。

「不確かな状況で不可解なことが問われるというときは、その状況から起きるべき事態と関連人物の行動パターンの可能性の事例をいくつか推測するんだ。この場合だと、ビー玉を探せという不可解な問いかけに対しては、アンがビー玉を隠すというのが一番ありそうなことだと思うね」

私なりに解釈すると、息子の行動パターンから、押入れや物入れ、バッグ、布団の下など、彼がしまい込みそうなところを探すと、必ず一つや二つ出てくる腐ったお弁当。そのことで私は、彼の行動パターンを学習し、探すのに苦労はしなかった。である。

この結果は、結果であって当初は違っていた。

息子がお弁当を残し、それをどこかに仕舞い込んでいるとは疑いもしなかった当初、見つけた私は即座に、息子はお弁当を食べなかった事を隠蔽したと判断した。親に叱れれて嫌な思いから逃れるために子どもが働かせる知恵だと思っていた。が、何度かこのことを繰り返す息子に、別の理由を疑いはじめたのがアスペだった。でも、息子にしてみれば、隠したのではなく、仕舞ったと言うのである。嘘でもなさそうだった。罪の意識は、息子からはあまり感じられない。彼に何が起きたというのか、親としての悩みは深かった。が、そういう彼なのだと、時間の経過と供に受け止められるようになった。否定したり頭ごなしに叱ることは全く逆効果になるし、私の精神状態がおかしくなるので、一旦棚上げした。

現在、彼は、東京に長男と一緒にマンションで暮らしている。先日、長男からこんなことを聞いた。「〇〇は、ゴミの袋を押し入れに仕舞い込むんだよね。」私は、ああ、またあの変な癖が出たのか、と思って聞いた。そして、念のため、押し入れを開けてみるとゴミの袋が置いてあった。これがそうなのかと長男に聞くと、「あ、それ僕の。」だって。何故、押入れに仕舞い込んだのか聞くと、長男の理由は、部屋に置いておくとショウジョウバエが湧くからというのである。それって、小学生程度の言い訳でしょと言うと、苦笑いしていた。つまり、母親が帰るまで隠しておいただけの話だった。これはごく普通にわかることだ。

話が長くなったが、書きながら少し自分の過ちに気づいてきた。日常の一見オカシイと認定してしまう自分の尺度にも問題があり、物事を観て判断する時、常識観念に捕らわれていることに気付かず、他人の言動に問題があると思いがちなのではないかと思った。

アンとサリーの件でも、書いてある事を客観視すると、箱にビー玉が移されている事を認知した上で設問されているので、当然、箱を最初に疑うべきだと回答する。だが、絵の状況に入り込んで自分がサリーになってみると、留守中にアンがビー玉を箱に移したことは知らないわけだ。つまり、最初からアンが隠したとは疑わないはずだというのが常識的な見方だとすると、私は、「あなた、最悪ね」と言われるのは、人を直ぐに犯人扱いする疑い深い人という意味だろう。最初から、アンが隠したと疑ってかかることが最悪だと認定されてしまったのではないだろうか。猜疑心の強い人は、人をいつも疑ってかかるという常識観念でもあるのだろうか。または、「猜疑心の強い人」と認定されてしまっているのか。

「アンとサリーのテスト」では、この話に入り込めるかそうでないかで視点が違うし、その前提条件を共通理解しない上で意見交換すると誤解が生じる。話を客観視出来る人は、初めから箱に入っていると観ているので「箱を探す」と、答えるが、話に入っている人からは、人を疑ってかかる人という偏見で見られる。そういうことではないだろうか。そして、これがアスペ認定のある一定のラインのどの位置なのか、気にはなるが、そういう新たなラインから尺度を持つよりも、人は何らかの理由で自分とは異なるのだという点と、自分特有の癖として具体的に知っていおくことは、他人とのコミュニケーションを少しでも円滑にする要因になると思った。

このことが、息子を私がどう見守るかの「鍵」になった事は言うまでもない。テーマとしてあがったことに感謝したい。

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2012-09-15

宮脇淳子女史の生き方にふれて

運命の人との生き様に、「だからこそ私は幸せだ」と、言い切る宮脇淳子女史の話に羨ましさを覚えるような、とにかく胸を揺さぶられた。また、自分自身の今の生き様との比較をすまいといくら言い聞かせても心の隅で、それがどれ程の違いなのかと、その値をカウントしている悍ましさが醜さとしての欺瞞を証明しているのだとはっきり浮き彫りとなった。キツイな、これ。泣いて済ませたい誘惑とでも言うか、その程度の薄っぺらな自分でいたいとどこかで思っているからだろうか、右と左のどちらにするのかと問われているような強迫観念さえ起こった。

 

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宮脇淳子女史と岡田英弘氏は研究者という立場であるが、師弟関係でもあった。宮脇が東洋史、中でもとりわけモンゴル史を志した事で岡田教授との出会いがあったことは少し知っていた。年の差は25才で、二人は最初不倫関係だったが、長い年月の後、幸せな結婚をした。その事の馴れ初めから宮脇は、エッセイとして「THE SEIRON WOMAN―覚悟をもって生きる (日工ムック)」(参照)に赤裸々に書き綴っている(参照)。本書は、「凛として美しく、失敗を恐れないオンナたちからのメッセージ」として、他にも多くの女性のエッセーがまとめられている。その中の宮脇のエッセーを真っ先に読んだ理由は、彼女の人を愛するという姿勢に関心があったからだった。

 

結婚という形に捕らわれるなら、それは、子どもを産んで子孫を残す作業を選ばれた男女が成し遂げるということに尽きるだろう。でも、そういう形ではない男女の生き方があるとしたら、それは結婚である必要のないことだと思っていた。好き合った二人が、婚姻関係になることにどんな意味があるのかとさえ思っていた。だから、結婚は、それは自分の恋愛史の幕を下ろす時。そう思っていたのは私が結婚する前のことで、1970年代の頃読んだ書籍や著者の生き方からなんとなく影響された。

 

もっと言えば、婚姻関係は、愛がなくても成立する。お見合い結婚とはそういうもので、私の両親よりも上の世代では、恋愛結婚は珍しかった時代でもある。お見合い結婚で、良い人と結婚したと両方が思えばめでたし、めだたし。そう思えないで離婚というケースも多い。岡田氏の結婚はすでに崩壊していたそうだが、そういう結婚の始まり方だったのだろうか、そのへんはよく知らない。そこに現れた宮脇を弟子として可愛がる内に、宮脇も妻子ある岡田氏を好きになったと分かった時、神様に文句を言ったと書いている。分かる、分かる。この苦しさは何かに例えられるものではない。そういう人を好きになったところで、自分との結婚は考えられないし、仮に相手が離婚して再婚を考えてくれたとしても、その婚姻関係が成就するとは限らないし、ともすると泥沼にハマるかもしれないような賭けにもなる。そんな打算をしている余裕がある内は、本当の愛とも言えないだろうなどと小悪魔が耳元でささやき、略奪計画の恐ろしさに震える。

 

結局、最終的に残るのは、相手をどこまでも愛するという清らかな思いだけである。これが、なぜ「清らかな思い」なのか?

 

他人を傷つけるでもなく、裁判などと面倒なことに巻き込むことも巻き込まれることもないというだけである。だから、虚しいということでもある。

 

その清らかな愛というのは、相手との共有の時間も無ければ触れ合うこともなく、ただただその人を思うということのみ。一生、何も手に入らない。例えこれが清らかであったとしても、心にそれを抱えて生きることへの疑問はいつも降り掛かってくる。もしかすると、自分を最も醜く映し出しているのかもしれない。

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2012-08-24

「何という愛(コーリー・テン・ブーム)」 岸本みくに訳

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読了。途中、何度も文字が涙で滲んで読めなくなった。ところが、その理由がはっきりしない。ただ溢れる。その感情に流される前に我に返り、目を拭ってその場所に戻ってもう一度読んでみる。でも、分からない。そして、感激したというほどの感情の高ぶりもない。このわけの分からない気持ちはなんだろうか?自分で自分がわからないまま、綺麗に整理しないで書いておくのもいいかと思いながら書いている。

 

「何という愛(コーリー・テン・ブーム)」 岸本みくに訳(参照)を知ったのは、昨日のことだった(参照)。本書について「贖罪について、コーリーのこれでもよいんじゃないかと思えた。」と添えられている感想がとても気になった。というか、気に入った。これだ!と、そう直感した。早速、Amazonから取り寄せ、さっき読み終わったばかりだ。

 

なるほど、感想に書いてあった通りの小冊子であった。で、いきなり文字が滲みますと始まったわけだが、私自身の一番の関心事でもあった「贖罪(しょくざい)」については、本書の割と最初の部分で一度出てきて、最後の部分でも出てきた。この部分の描写は何度か読みなおしてみたが、コーリー自身が姉を死に追いやった看護師への憎しみが赦しに転じた点で、実在した人物のしかも実話として、かなりインパクトが強かった。このあたりから先を読むにしたがって、じわじわと胸が締め付けられるような思いがあった。涙の元は、私がクリスチャンではないための無念な気持ちや、だから、私には人を赦すチャンスが訪れないという思い込みや、悔恨からの涙だったのだろうか。それもあるが、心の奥では、非常に心地の良い、優しいものが漂ってもいた。何とも複雑な思いの中であった。Acimのレッスンを始めたせいで、やや、信仰的なものが私にも入っているからなのか、よく分からない。

 

今年の3月からAcim(参照)のレッスンを進めてきてみて、心の逃げられない領域というものが確実になってきたせいもあると思う。以前の私なら、気付くや否やスッと何かと差し替えて自分自身を誤魔化しまいそうな痛い、嫌な思いをする部分だ。現在、それが大きな課題としてあることを自覚し、それに突き当たっている。その壁を打開できないだろうかと思ってもいた。おっと、打開という言葉はあまり相応しくないかな。壁を突き破るようなそんなに物騒でエネルギッシュなことではなく、多分、受容するというか、憎しむという薄汚い心を何とかしたかったからだ。憎しみを自覚している時は、心が穏やかではいられないし、何をやっても心ここにあらずとなる。もう自分の心に嘘や誤魔化しはやらないぞ!と決めたはいいけど、そのまま持っているのは、こんな風に辛くなるし疲れる。次第に早く楽になりたいと、そういう願いに転じたのは、自覚してから随分後のことだった。これだけ私のこのことに関する頑固観念が強いという意味だろうと思う。この前のイソップの寓話でミダス王がアポロンから学んだ「赦し」は、実に耳の痛い私だった(参照)。これをまたもや思い出してしまった。イソップにきちんとインプットされたそのメッセージを思い出すたびに、こうやって子どものころから人間の赦しあう姿を学ぶものだなと羨ましくもあった。これは、キリスト教徒としてという意味でだが、Acimを進めらながら、このことはよく感じていることだ。そして、先ほど読んだ「何という愛」を読みながらも、何度も何度もクリスチャンでない自分を悔やんだ。

 

実は、コーリーの出会った人物には、キリスト教徒ではないような人物やキリストを冒涜していたという人物との会話が出てくる。そ、それ私だ!(冒涜までは犯していないが、全く信仰に関心がない私である。)私にもチャンスがあるかもしれない!この部分をちょっと引用してみる。

 
   

ある時そこで重病の男性に出会った。その人は弁護士であったが、主イエスを知っているかと尋ねた。彼は言った。「いいえ。私は、自分の頭で十分理解できない限り信じることができません。」

   

私は、コリント人への手紙第一の一章と二章が教えている、この世の知者の賢さと神の愚かさについて語った。「聖書には神の愚かさについてとてもたくさんのことが書かれているんです。それは最も優れた知恵であり、私たちの知者の賢さよりはるかに重要なものです。これによってのみ、本当の洞察力が得られるのですから。」

   

何週間か経ってから、もう一度そこへ行ったので、その男性を訪ねた。彼の病は、重くなっていた。私は訊いてみた。「神の愚かさについてどう思いますか。」「私は今は主をほめたたえています。それが、もっとも偉大な知恵であると知ったからです。私は、自分のプライドを投げ捨てて、一人の罪人としてイエス様のところへ行き、赦しを請いました。

 

プライドの高い、高学歴の人物の落としどころを上手く射止めたコーリーの勝利と言いたいところだが、そうではない。技術や話法を使いこなすのではなく、彼女と聖書は一体というか、コーリーも聖書を学びながら、自分自身が神との信頼関係を持てるようになったからではないかと思った。また、神から赦しを得たのに、なぜ病気が重くなったのか?ここは少し考えてみたが、プライドの高さや、人からの攻撃にたいして肩を張っていた生き方が変わり、やっと病人らしくなれて楽になったと解釈した。私に置き換えると、きっと私が私らしくなれたら、もっと楽になることだけは分かった。どこかで何かがねじれているか、ひねくれているに違いない。(一つはわかっている。どうしたいか、素直に相手に言えばいいだけのことである。)

 

「信仰」とは、「信じ仰ぐ」と書くが、この解釈に間違えがあったのじゃないかとさえ思った。「信じる者は救われる」も同様。何かと取り違えてきた気がする。少なくともクリスチャンとは、神を信じる人ではなく、神との信頼関係にある人という感じに変わった。

 

まだまだ、私は信仰できそうもないが、信頼関係を問うなら、対人関係においてもう一度自分を問い直したくなった。実は、この収穫が大きい。とても。そして、嬉しい。

 

諦めかけて、つい先ほどもつぶやきながら気持ちはどんどん暗闇に向かっていた。一歩も前に進めなくなるのである。人の裏切りや私の他者への期待感、それらから見放されるという孤独感や疎外感。その中に入ってしまうと結局、人が信じられなくなるという不安に襲われる。何一つ確信が持てなくなってしまう。しかも、確認できる距離でもない。無限ループにのった距離とでも言っておこうか。その暗いところにいる私にも「聖霊」の存在があり、だからこそ実は、神の愛は注がれているという。そこまでなかなか思えない私ではあるけど、自責の念を持つ私だから救われるというのは道理だと思う。幸せで悩みのない人に神は、やって来ないのである。ね✌

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2012-06-14

私の過失

何かが胸に支えていてすっきりしない。喉のあたりまでそれが出かかっているような。それは昨日食べた真カレイの骨じゃないの?まあ、そんな感じ。気持ちが悪くてしかたがないので少し書いてみようと思う。

この気持ちの悪さを自己分析してみた。確実に、年齢は世間で一般的に言われている「ババア」なんだけど、心はそうでもない。ある時期は年齢に相応しく心もあって、子育てに忙しかった時期は、自分がもっと成長出来るような糊代(のりしろ)があったのを覚えている。伸縮自在のような(現在と比較すれば)元気があった。つまり、自分の評点が60点位で、成長に余裕を残していた。が、どうだろうか。生活力や忍耐、いろいろな経験をそれなり積んできた今、だったら自分に100点をあげられるかといえばそれは無理。いつか思っていた60点のまま、あまり成長の軌跡が確認できない。そして、もっと悪いのは、残りの40点を稼ごうという欲も気力も体力もない。そして、もっともっと悪いのは、気持ちは若がえるような感覚があることだろうか。

一昨日も少し書いた通り、五感は、身体の衰退とは裏腹に鋭くなってきているように感じる。音楽や自然、木々や季節の変化の「今」を自分に存分に刷り込んでおきたいという欲深さのようでもある。これはなぜかと、立ち止まって考えてみたら、これは「死」に確実に近づいていることを否定出来ない年なったということだと思う。死をいつも意識しているのではないかと思う。残る人生が少ないなどという余裕のあるものではなく、次の瞬間に死ぬかもしれない自分を思っているのだと思う。

「長いスパンで物事を見なさい」と、成長期にはよく言われたものだった。目先のことしか考えず計画性がないなどと叱られている頃はよく失敗もした。そして、計画性を持って物事をこなせるようになったのは最近のことだが、それは点数で言えば60点だ。ところが、残る40点を何とかする事に労力を費やそうという気力が起こってこないし、私にはもうそんなに時間がないのではないかと思うと、自分の趣くままに心を満たすことで豊かでありたいと願う方が強くなってきた。一時期、これは現実逃避ではないかと悩んだこともあった。でも、なぜかあまりそれに縛られずに気持ちが和らいでいった。

そして、手に入れられるものと入れられないものがある時、手に入れられないものへの諦めはなく、いつまでもそれを欲しているだけで満たされるということもわかってきた。これは若かりし頃の私ではあり得ないことだった。

41gNw rNkSL._SL210_先程、「愛という試練(中島義道)」(参照)をふと思い出して開いてみた。久しぶりにこの本に触れ、簡潔な表現の中に鋭く本質を見ぬき、それを隠すどころか、全てを暴き出すという凄まじさも相俟って、読むのが止まらなくなった。そして、妙に爽快感さえ残った。重苦しい描写だという感想を持つ人も多いと聞いているが、とんでもない。これだけ自分の本質を書き出すということは、持っているものの重さが伺えることであるし、自己開放のためにもなるのではないかとさえ思った。そして、私は自分の大切に思っている人に図らずも大きな恐怖を与えてしまったことに気づいた。中島の書いている中でそのことを思った時、もうこの姿をどこへ持って行ったら良いのやら途方に暮れた。人生の後半の生き方というものをそれなりに、私も考え直すべき時なのだと痛感した。

私に愛を教えてくれなかった、あるいはその醜さを独自のかたちで教えてくれた両親は死んでしまった。いま、ふたりは白い骨となって墓の中に並んでいる。

私の体内には愛をめぐる母と父とのおぞましい関係が鉛のように埋め込まれいる。長いあいだ、これから解放されたかった。しかし、むしろこれを糧にして生きていこうと思うようになった。これこそ、バウロの身体に突き刺さった棘のように、私に苦しいけれど豊かな世界を開示してくれ、弱さや愚かさにまみれた人間の崇高さを教えてくれ、そして何よりも私を私自身にしてくれているものなのだから・・・・・・。

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