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2014年4月

2014-04-29

保育所が完備されれば少子化は改善するのか?

 タイトルのこの問題、子どもの預け先が充実していれば少子化問題は徐々に解消していくものだと、これまでものすごく当たり前に思ってきた。それでも本当はどうなのか、一度じっくり考えて見たくなったのは、先日のエントリー「私が魔女だった件」(参照)でも少しふれた、離婚率や結婚率にも少なからず関係があるのではないかと思えるからだ。
 補足的な意味でも、少し掘り下げてみたい。
 いきなりだが、厚生労働省から、平成25年4月1日年時点での保育所の定員や待機児童の状況が公表されたので(参照)、現状把握のために数字をみてみた。

 

○保育所定員は 229 万人
増加数:平成 24 年4月→平成 25 年4月:4万9千人
(平成6年の保育所入所待機児童数調査以降、過去最高の増加数)
【参考】平成20年4月→平成21年4月→平成22年4月→平成23年4月→平成24年4月→平成25年4月
    (1.1万人増) (2.6万人増) (4.6万人増) (3.6万人増) (4.9万人増)

○保育所を利用する児童の数は42,779 人増加
・保育所利用児童数は2,219,581人で、 前年から42,779人の増
【参考】平成20年4月→平成21年4月→平成22年4月→平成23年4月→平成24年4月→平成25年4月
    (1.9万人増) (3.9万人増) (4.3万人増) (5.4万人増) (4.3万人増)

・年齢区分別では、3歳未満が29,148人の増、3歳以上は13,631人の増となっている。

 リンク先にグラフが分かりやすいかもしれない。

Photo

 見た通り、保育所は確実に増えている。5年間で約17万人も増えている。そして、待機児童数は22471人で前年度比では2千人減少している。しかも、3年連続減少となっている。不思議なことに、入所者数が定員数を下回って余裕があるというのに、待機状態が発生するのはなぜだろう?娘の住む副都心の様子を見て気づく点がいくつかあった。
 まず、高層マンションや高層の都営住宅が駅付近に密集している割に、駅から2kmも離れると先住民の暮らす庭付きの大きなお屋敷が建ち並び、畑や果樹園が広がる地域になる。その落差から思うに、公営の保育園の立地条件と、人口あたりの保育園数の定数から、需要が偏在しているのではないだろうか。因みに私の住む長野県の諏訪の状況だと、保育園は定員を割っているため、統合したり閉鎖されている。その割に保育士不足などと聞く。
 首都圏に人口が集中しているのは言うまでもなく、地方では働き先が年々減ってきているため、若い世代がかなり減少傾向にある。
 首都圏の大規模な住宅群に子育て層が増えると、所定保育所では間に合わなくなり、その設置が急がれるが、実際の増設までにはにはタイムラグも生じる。しかも、出生数が単純に保育希望者に移行するかどうかも不確実で、保育希望者数の読みも難しい。
 また、娘の話から、待機児童問題解消への市の取り組みも顕著で、普通の会話で子どもを保育園に預けてみようかなどの話がポンと飛び出してくるほど、いざとなればいつでも預けられるという安心感はありそうだ。私の子育て時代は、保育園に預けるためにいろいろと算段をしたものだったが。
 要は保育所を増設すると需要も増えてしまうというか、これが、少子化解消の数字に現れてくるのかもしれない。また、保育所増設で問題となるのは、利用者が増えれば自治体の財政負担が重くなる点だ。
 保育料は保護者の所得で振り分けられていて、自己負担分は年間で30~50万円の中でランク付けされている。夫が働き、妻が子どもを保育園に預けて働きに出たとすると、仮に時給1000円で日に6時間、月20日間とすると年間で150万円を切る。税引き後の手取りから保育料を支払ったとしても家計にプラスにはなる。働いて保育園に子どもを預けるメリットの方が大きいので、私の子育て時代はパートが多く、それなりに楽に子育てが両立出来た。夫婦正社員の共働きが限定の保育所入所の規制が緩和されれば、30年ほど前のように、希望者が続出するのは当然とも言える。
 これを流通市場に置き換えてみると、需要やサービスの増大に比べて供給量が少ない時、価格は高騰する。これが保育園だと、需要に比べて供給が少ない場合でも、保育料は「公定価格」であるがために変動せず、延々と単一であり続ける。そのため、物不足が延々と続くことになる。これが常態化した理由はよくわからない。誰も疑問視しないのはどうしてだろうか?民主主義の国で社会主義国のような政策が国民に浸透しているのは確かだと思う。なんか不思議な国、日本。
 仮に保育料の価格統制を市民に委ねて自己負担にするとしたらいくら位になるだろうか。利用者が実際に支払っている保育料は平均で30~50万円としでも、公営保育所では、一人当たり年間150万円程度のコストと言われている。これが自己負担の全額とすると、保育料は月額8~10万円となる。さっきのパート計算にもどると、子どもを預けて働きに出ようというメリットはなくなるため、需要が減る。つまり、預ける希望者が減るので待機児童も減ることになる。やったー、これだ!と思いきや、考えてみると親の心理としては、だったら子どもは多くは育てられないや、ということになりそう。少子化にかなり貢献してしまいそうな危険な思考だったな。
 しかしながら、このまま「公定価格」を維持すれば、経常赤字は増える。その穴埋めの補助金がいつまで持ちこたえられるのか?結局、国と地方自治体の財政再建の話になってしまう。
 大都市の半数が単身世帯で、高齢者の単身世帯も増えている。それどころか、高齢者の比率は、日本人の4人に一人の割合になっている。子育て世帯を支援するにも、例えば、有権者の圧倒多数が高齢者のため、少子化問題や保育の公費支援にどれほどの理解が得られるかは疑問だ。医療費や介護費が圧倒的に多くかかり、そのために自民党を選んでいると、そういう支持者に応えるというのもわからなくはない。
 民主的に物事を進めようとしたり、進めてきた結果で問題を発見し、それを民主的にどう解決していくか、解決法はあるのか?
 とても難しい問題なのだと心した。

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2014-04-14

オイルサーディン缶の手軽さでトマトサラダ


 オイルサーディン缶て、誰でも知っているのかと思ったら先日、「知っているけどどういう料理に使ったらいいか考えちゃう」という娘の話を聞いて、あまりポピュラーとも言えないのかと思い直した。
 昔から日本に輸入されていた缶詰だけど、日本では戦後、米国の影響もあって、缶詰文化が盛んになり、日本独自の魚の水煮缶や味付け肉の缶詰などが人気を博していたと言えそう。昔のことを言えば、東京オリンピックの前後はかなりいろいろな種類があったのを思い出している。そういう懐かしさを一掃されたみたいでちょっと寂しいことに近年では、スーパーの棚のほんの一部でしか見なくなった。それでも「シーチキン」だけは各社、品ぞろえが良く、日本人の好きなマヨネーズとの相性も良いせいか、サラダなどに重宝されている。 

Cmanjp_20140414035953

 今日ここで使った缶詰は3月、増税前のKALDIの売り場に「特価¥158」と販売していたもの。紙の箱入りで、画像の手前の物がそれ。奥にあるのは日本の普通のスーパーで買ったもの。¥220くらいだったかな。どちらにしてもあまり高価ではない。

  さて、今日の料理だが、缶詰のまま使うのではなく、開けて中の油を少し抜き、にんにくと玉ねぎをのせてオーブンで加熱するというのがミソ。缶詰のままだとなんとなく油っこいままで、味も淡白な感じだ。だから、イワシ本体から油を抜き、さっぱりさせる。また、表面からゆっくり加熱しながらにんにくと玉ねぎのエキスを油に吸わせてしまおうと、こう考えたわけ。これを野菜にのせてレモン汁と塩コショウでもふれば、おしゃれなサラダになるというわけ。まあ、サラダがおしゃれになる必要はないけど、食卓に一品咲かせたという、私の心に花が咲いたような、おしゃれしたような気分になれるのが嬉しい。
 そうそう、画像のにんにくがやや緑色に変色しているのが気になる人もいるだろうと思って特記しておくと、これは、にんにくの成分であるアリインと呼ばれる物質。にんにくの香りや辛味の元と言われているが、これが時間が経って酸化することでアリシンという物質に変化して緑色になる。今のところ毒性もないし、人体に影響はないと言われている。にんにく効果に影響しないそうだ。ご安心あれ。

材料(一缶分)

  • ・オイルサーディン・・1缶
  • ・トマト・・中1個
  • ・玉ねぎ・・小2分の1
  • ・にんにく・・1片
  • ・レモン汁・・半個分
  • ・塩・コショウ・・適宜

作り方

  1. 玉ねぎとにんにくをみじん切りにする。
  2. オイルサーディンの蓋を静かに開け、中の油を半分ほど抜いて1をのせる。
  3. オーブントースターやグリルで油がくつくつしてくるまで約、5分加熱する。()電子レンジで加熱する時は器を耐熱に移し替えてから。
  4. あらみじん切りに刻んだトマトを皿に広げ、3が熱い内にのせてレモン汁、塩・コショウを振って出来上がり♬

 冷蔵庫で冷ましても美味しい。

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2014-04-12

私が魔女だった件

 今日これから書くことは、まとめていつか書きたいと思っていたことだ。中々そのきっかけがなく、自分でも恐ろしくて置いてきたテーマかもしれない。絞って書こうとすると文章構成を先に考えてしまい、書きにくくなることでもあったんだろうか。「魔女」と、私自身をそう呼ぶ理由が既に懺悔(ざんげ)のような、夫に申し訳ない気持ちも少しあるからだろうか。よくわからない。自分を悪者のようにしないと書けないからかもしれない。ただ妙に、「魔女」という自分に自信がある。以下、読まれる方が私を欺瞞に満ちた女だと判断されてもいい。私がどう批判的な目で見られようと、これまで送ってきた生涯は、今、または今後夫との離婚を一考するときに誰かの役に立つかもしれない。また、現時点で離婚を考えている人にとっては腹をくくる良いテーマとなるかもしれない。まとめずに、考えながら書くことにした。
 さて、私の人生はすでに下り坂に差し掛かっている。半分はとうに折り返した。子育てもそれなりに終わり、三人の子どもたちは自分の道を歩み始めている。子育てが終わったお母さんとしての役割がもう終わったのだと言い換えてもいいだろう。すると残る私は何者だろうか。「女」、「老女」、「人」と言えるかな。
 「女」としての私には離婚して一人か、または、再婚して二人で生きることも可能性としてある。また、「老女」だったら、孫の子守りをしながらお祖母ちゃんとしての生きる道。「人」としてなら、これまでの蓄積から何かできることを見つけて社会に参加する道などが挙がる。
 「女」として人生をやり直そうという時、今の夫に満足できず、離婚すればまた道が開け、人との出会いの中で再婚もあり得るという可能性の余白を少し置けることでもあるかもしれない。この離婚の場合、夫に問題があるというよりも、自分に受容できる器がないということだ。相手が悪いから私が不幸だ、という考えは大間違いだ。ここをよく履き違えてしまうと思う。だから何度も離婚を繰り返すのではないだろうか。どんな相手なら寄り添えるのか自問自答を繰り返しても、好き嫌いの判定は、その都度変わるものだ。思いというのはものすごく気まぐれで、大好きという感情は、大嫌いと反転する同じ要素を持っているからだ。「恋」というものがいつかは終わるのがその悲しさでもある。「女」として生きるのがいかに難しいか、どう考えても私には忍耐が足りないという結論に至ってしまう。だから、事あるごとに相手を許せる自分かどうか、究極はそこに向き合って自分を許すしか道がない。また、その相手も一定ではなく、人の価値観は変わるもので、いろいろな角度から見てみると、憎いと思ったその人物の真意を知りたくなったりもする。するとそこに対話が生まれる。話し合いたくもないと思った相手との対話のチャンスが巡ってくると、解決への道がそこに開けるものでもある。「急(せ)いては事を仕損じる」というのは格言でもあるかもしれない。結論が出せない時は少し置いてみるのも離婚防止になる。
 結婚してから「ああ、この人と結婚して失敗した」と思った時点で離婚できない理由はまだある。例えば、「一生添い遂げるのが結婚だ」という古いが、離婚の可能性に余地を与えない考えを持っていると離婚は間違った事、自分は過ちを犯しているのではないかという自責の念が働く。これは今の若い人には通じないことかもしれない。「結婚は墓場」といわれるが、離婚できないという考えが背景にありそう。
 また、子どもがいれば離婚は一番手強い。この子からお父さんを奪うことになるのではないかという罪の意識が自分を毎日責め立てる。が、これはちょっと違う。両親が一緒に住めなくなっても子どもの生みの親としては不変だ。離婚して運よく再婚できれば、子どもにはなんと伝えたらいいだろうか?果たして子どもは新しいお父さんを受け入れてくれるだろうか?そんな不安を持つくらいなら離婚しない方がマシだと、そういう打算も頭の中で働く。答えは簡単。新しいお父さんができて、あなたには二人もお父さんがいるんだよと、これだけじゃないかな。
 問題は、一人でとりあえず育てるという時、お父さんがいないとなれば自分がその役割をするしかない。働きながら時間を駆使して買い物をし、食事を作り、子どもを寝かせて洗濯をし、高校生ならお弁当も用意しなくてはならない。それをしながら子どもには難しい問題も出てくる。いじめや不登校、交友関係、スマホをいつ与えるか、ゲームはやらせるのかなど数えきれない問題と向き合って必要があれば子どもの話を聴いてやる時間も必要になる。色々なケースで父親なら何と言うだろうか?と、自分なら強く言わないことでも強く叱る必要に迫られることもある。また、それを後で宥めて元気づける役割も必要になる。全く忙しいことこの上ない。
 他に考えられるのは、経済的に自立できるか自身がないことが離婚を踏みとどませる。これはよくあると思う。ましてや子どもを連れて離婚するとなると安倍さんが今取り組んでいるらしいが、女性の社会進出の環境作りが全く進んでいない日本では、シングルマザーが働ける会社は少ない。幼い子供を預ける先も、その費用も女性一人の働きでは難しいなあ。と。
 以上が離婚したくてもできない理由(の一部)として考えた。さて、本題の魔女化だ。先に挙げたもろもろの理由から離婚を踏みとどまったとする。いや、私は踏みとどまった。でも、相手を気に入らないということを誤魔化すとまでは言わずとも、仕舞って置く必要はある。それでも何かあると時々出てくるが、子どもの前ではそれは良くない。その理由は、幼い子供の感情までは計り知れないが、親が大声で罵り合って喧嘩する姿は子どもにどう映るかだ。
 一言で言うと、子どもの、自分の居場所を失くすことになる。子どもは本来は親のことが好きなのだが、その親が喧嘩するとどっちにも付けなくなる。どちらかにつくと、それは、もう片方を失うことになるからだ。そんな選択は子どもにはできないのが普通だ。では仮に子どもが母親についたとする。それは母親が夫よりも自分が正しいとして子どもを味方につけている姿かもしれない。妻の夫への嫌悪や憎しみというフィルターを通して子どもにも父親を見せてしまうことになる。それは、男性に対するそういう価値観を持たせてしまうことになる。母親の怨念のようなものを子ども時代に背負わせてしまうのだ。話が飛躍するが、裁判で死刑判決が出た木嶋早苗の男への冷淡さは、私の直感から親子関係だろうと思うし、作家の林真理子の男性と張り合うような貪欲さは、彼女の母親の夫への怨念が乗り移っているとも思う。いや、もっと身近にもこんな人生を背負った女性はいると思うが、子育てでで後悔しても取り戻せないことだ。配慮しなければとんでもない苦しみを子どもに背負わせてしまうことになる。だが、配慮したからといって完璧にはできない。よく失敗もするが、そこで自分自身の夫への感情がどろどろになるか、さらっとその場で流せるかは大きな分かれ道だと思う。同時にそれは自我との苦しみとなるが、「母親」という事実を受け入れるしかない。逃げられないのだ。特に良い人を装う必要はないが、夫とうまくいかない理由がいろいろあり、価値観の乖離を埋める方法などむしろないと諦めたし、かといって逃げることもできず、自暴自棄になることだってあった。そこで私はどうしたか。
 だから私は魔女になる決心をした。とは言え、それは、母親という役者に徹する決心だった。今思えばこれは母親の自覚をもつという、多分、アタリマエのことだったに違いない。誤解があってはならないが、これは、自分をねじ曲げたりすることではなく、乖離した部分をしまい込み、表に出さないというだけのことだ。そして、夫に父親役を望まないこと。この課題は自分にある。夫を「父親」として子どもに入れるのは母親の役割だからだ。これとは別に、夫が「父親」として存在し、子どもと関わりを持っている時点で既に父親という「事実」として子どもにインプットされていることでもある。
 魔女化するのは、最低、争いは起きないし、子どもたちも自らの感性に従って母や父を感じ、大いに批判したり大好きになったり、反発したり。またそれができることが子どもの成長過程とも言える。親らしさと言えるかどうかは別にして、このような自由を与えることが一つにはあると思う。
 魔女化した私のエピソードをここでもっと語るべきかもしれないが、ふと書きながら、それは母親としての自覚から湧いてくる、個性とでも言うか、そういうテーマだと思うので書き控えようと思う。
 どんな魔女になりすまそうと、子どもは親を見ぬくもので、愛があり得ないと疑うこともない。それは、私が認めようと認めまいと、父親からも受け取っていると言える。

cover
「考える生き方」
by finalvent

 最後に、長くなったが、やっと書いた。と言ってもまだ書き足りないし、ものすごくすっ飛ばした感が残っている。離婚理由は沢山挙がっても離婚しない理由はなかなか書きづらいものでもあった。だが、「考える生き方」(参照)の読後、母親として生きた私の半生は、正に考える生き方だったとも言えるし、何か奮い立たされて書かずにいられなかった。発売されてから一年が過ぎてしまったが、書きたい気持ちが離れなかった。

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