米検閲システム「プリズム」の暴露問題-落とし所が見つからない問題
「アメリカ政府が米情報機関の国家安全保障局(NSA)を使ってネット上の個人情報にアクセスしている」ー先週、このような趣旨で、英ガーディアン紙と米ワシントン・ポスト紙が報じた時は、同社らのスクープかと思った。その時点で、米政府はとんでもない事をやっているものだと呆れた。その後、これは一人の青年の暴露情報だと知り、別の意味で驚いた。ここですでに私の思考には矛盾した二つの事柄が舞い込み、どのようにこの事態を受け止めたらいいのやら、考えこんでしまった。だが、すぐに結論めいたことが見いだせることではないし、事態を追って、米政府や暴露した本人のコメントなどから、少しずつ整理したいと思っていた。その矢先にタイミングよく、「落とし所がない」という現時点での結論(参照)に遭遇し、整理するのも無駄だなと、あっさり自分が観念してしまうのがわかった。ただ、心には引っ掛かりが残ってしまい、結局この件で私の居場所はどこなのか、それが見つからない事が不安につながった気もしている。少し、このことを整理しておきたい。
Newsweekが「米検閲システム「プリズム」を暴露した男」(参照)というタイトルを付けて報じた中で、この人物像と暴露の目的などが書かれている。私自身の問題として引きつけて考えたい部分だけ引用しておきたい。
両紙に情報をリークした人物が、自ら名乗り出たのだ。その人物とはエドワード・スノーデン(29)。コンサルティング会社の契約社員としてNSAのハワイ支部に4年間勤務したセキュリティー担当者で、CIA(米中央情報局)で働いていたこともある。
スノーデンはガーディアン紙の取材に対し、情報をリークしたのはNSAによる個人情報の極秘調査が「民主主義への脅威」だと確信しているからだと発言。リークする前にNSA内部で「職権乱用」に異議を唱えたが、無視されたという。
スノーデンによれば、NSAは「あらゆる人々の通信をターゲットにして」おり、彼自身にもすべてのアメリカ人の通信を盗み見るけ権利があったという。「私は席に座っているだけで、あらゆる人の情報を盗み見ることができた。あなたでも、あなたの会計士でも、連邦判事でも。そして、大統領であっても」
太線部分が彼が暴露した理由に当たる部分で、米政府機関が間違いを犯していると彼が主張する部分だ。これらを隠蔽するのは彼の「良心がとがめた」から暴露したと話している。
では彼は正しいことをしたのか?
いや、していないよ。間違いだよそれは。と私は思っている。理由は、国家の機密事項を暴露するというのは、反逆行為で、国家を陥れる犯罪だと思うからだ。ところが、他紙を見ると、彼はヒーロー扱いにもなっている。
では、米政府が市民を監視下に置いているという点はどうだろうか。スノーデン氏が良心が咎めると感じているような悪戯な行為はしていないだろうか?正しいことをしているだろうか?ふと、フィナンシャル・タイムズ紙でこの件について、Gideon Rachman氏のコラムを目にした(参照)。彼のスタンスは、国家が国民一人一人の個人情報を監視した所で、それを悪意の道具にするはずはないので、気にならないらしい。
個人情報をのぞき見した政府が無辜の市民を罠にかけたり恐喝したりしたという重大なニュースが報じられたという記憶もない。
もちろん、そうした事件は起こり得る。そして、もし起こり始めたら、その時は筆者もほかの多数の人たちと同様に、すぐに警戒態勢を取るだろう。今でも時折警告されているように、そのころには「もう手遅れだ」(何がどう「手遅れ」なのかは別として)。しかしそれに先んじて大慌てするにしても限度がある。
こういうことは誰もが普通に思っていることではないかと思う。現にアメリカ市民へのアンケートでは、NSAのしていることは米政府のテロ対策のためであり、それで身が守られるのであれば賛成という人が過半数以上を占めているようだ。が、これは少し問題をすり替えてしまっている気がする。
個人が気になるかならないかの問題ではなく、民主主義の破綻という観点では、国民の基本的な人権は守られなければならない。つまり、スノーデンの主張している通り、民主主義崩壊の危機感を私は思っていた。政府自らこれを、テロ防止という理由を盾に破綻させてしまっても良いとは思えない。
これと少し関連して、安倍晋三さんがひところ口舌していた改憲案にも「個人の権利」という表現部分が「国家」に置き換わっていた点で、ひどく落胆した私だった。昭和憲法が明治に逆戻りかよ!と、世の中にどんどん付いて行かれなくなるのを自覚した。これも、今は「まさか、ひとっ飛びに改憲などしない」と、高を括っている。が、この先どうなるか不安になった理由は、オバマ氏が日本よりも先に、この暴露問題で、「議会の承認も得ているし、違法ではない」と、演説してしまったからだ。もうだから国家主義に変わっていくのを覚悟しろと言われた気もした。そうなると、個人の権利(基本的人権)は認められず、国家権力に従って生きていくしかないのだ。つまり、スノーデンの暴露は、反逆行為として死刑に値することになる。
民主主義を表看板に掛け、内情は国家主義で、国民を国家が所有している。こんな馬鹿な事があってはたまらない。これは間違いだ。と何度も思った。
さて、その落とし所はどこだろう?国家主義では国家が最高権力者として居座る以上、これThe endじゃないか?では、私の個人の感情として、米政府や安倍政府への反感はどこで吸収され、落ち着くのだろうか。俗にいう国家の抑圧には市民は負けるということだ。ドイツナチスの権力に抑圧され、民族浄化を受けたというあの歴史に、人は学んだのではいなかった?などなど。色々な思いが出てきて、流石にいたたまれなくなった。
気安めでも言い訳でもないところに落ち着ける場所はないものか?昨日はその自分探しとでも言うか、自分の心は一体どこに収めたらいいのかacimからも探した。
そして、こんな言葉を拾った。
Acimを通して決定的に学んだことの一つは、罰することは間違いだということだ。裁くことは間違いだと言ってもよいかもしれない。
罰することに潜む間違いということもうっすらと気がついた。人は「罪」を誇ることができてしまう。それこそが間違いなのだ。神をもって罰する、裁くことが間違いなのだと。
Acimのイエスはヘレンとの対応のなかで、ヘレンが間違っていくとき、それを罰せず、根気強く、訂正するとした。あなたが間違うなら、私は訂正しよう、と。
訂正するという言葉しか見つからないのだが、これが言い訳でもなく、自分にもすっと落ちてくる言葉かもしれないと感じている。
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