2012-10-03

情報の入手先としてのインターネットとの向き合い方について:日本の大手紙の劣化から思うこと

このところインターネット新聞(有料)や著名人の有料メールマガジンの購読の必要性として、それらに私は何を求めるかということについて考えていた。結論が出たわけではないが、情報の入手先やプラットフォームの開発に伴う変化の多様性にどう自分がアクセスすべきか、書き留めておきたいと思う。

日本の大手紙と言われる四大紙、日経、読売、毎日、朝日の社説が読むに値しないほど内容の劣化が激しいと感じてきていた。これが考えるきっかけとなり、いくつかの疑問や不満からであった。

新聞がインターネットに配信され始めてから久しいが、たとえ一社でも社説は読むべきだと、私の世代の人は、社会科の先生に言われたことがあるんじゃないだろうか。その重要性は言うまでもないが、社会人として社会に目を向け、関心をもつことの意味である。社説をまともに読んでいないと、社会常識が語れないし、教養を問われるようなレベルで比喩されたこともある。英語検定の上級では、Japan Timesの社説くらい理解できないと受からないと言われた程だった。私の祖母や両親は、新聞をとても大切に扱っていたのもその流れだと思う。床に置いてある新聞を跨いだり、踏んづけたりすると叱られたものだった。重要な情報源であったのも確かだ。それが、今や、パソコンを開いてニュースサイトにアクセスすれば、誰でもいつでも読みたい記事が手に入る時代だ。インターネットの無い時代を知る私にとって、PCは、情報の宝庫である。社説に関して言えば、どの新聞社のも読み放題だ。そして、手に入りにくい地方紙だって充実している。昔の話のついでて言うと、例えば、フランスやイタリアの新聞を調べたいと思ったら、大使館まで行ったこともある(その頃は東京在住)。電車に乗り継ぎ、小一時間もかけてやっと辿り着き、目当ての新聞があるかと言えば、ない時もある。本当に時間と労力を費やしたものだった。給料の安い社員が使いっ走りになるのが当然だったし、そうやって仕事を覚えたものだった。それには、それだけの価値があったからだが、長くなるので割愛。

昔はさほど疲れなかったが、最近は、劣化した記事を読むのにとても疲れるようになった。なぜかと、その理由を考えてみたら、文字のとおりに解釈できないからだと分かった。嘘も平気で書き連ねている時もあるが、こちらが情報に疎いと、疑いもせずそれは間違ったまま理解してしまうことにもなる。迂闊でナイーブな私は、社説内容はずっと何年も信じてきた。まさかに嘘までは書かないだろう。そう思っていた。

信者なんてとんでもないことだと認識し始めたのは2005年、「finalventの日記(参照)」と出会ってからだった。

社説の信者だった私にとっては当初、この日記は胡散臭く、時には下品に新聞社を蹴散らすし、ろくでもない人物が書いていると思ったのだった。でも、まんざら馬鹿じゃないというのも一方にあって、時々書籍紹介などが入ったり、誰かの日記を引用しては丁寧なコメントを書いたり。そういう姿と社説に毒づく姿はまるでジキルとハイドのようであった。だが、このように感じていたのは本当に束の間で、2ヶ月くらい経ってからだろうか、妙な親近感を感じた。何の記事だったかは忘れたが、世代的にも同じだし同じ時代の空気で育ったからか、筆者に違和感がなくなった頃社説のコメントをきちんと読んで社説と照らして考えてみようと、やっと真面目な読者への願望に芽生えた。以来、私がそれまで思っていた日本の姿とまるで違う日本に住んでいるという実感が持て、毎日が一層楽しくなった。間違い探しの楽しさでもあったかもしれない。その理解を共有する楽しさでもあった。日本の本当の姿を間違った社説に問うことでバランスできていたのかもしれない。信者だった頃の私は、何者だったのだろうか?戦後の私の世代の悲しさかもしれない。何でも鵜呑みにしなければならないような教育に素直に従っただけだったが、いい年こいて、やっと自分の考えを持てと言われ、持つようになるとはどういうことか、それを考えなおすことができたのもあの大手紙社説への毎日の(殴りこみ)コメントだった。まあ、やっと目が覚めたかもと言ったところだった。もしかしたら、今からでも私のような訪問者がいて、誤認という事態から救われる人がいるかもしれない。

その新聞が最近、有料化になってきている。

先日、Twitterで「日経だけは有料でも読むかな」というつぶやきを目にして、必要性に応じてそれもありかなとは思ったが、有料なら別にどうでもいいや、と反対側では思っていた。その理由は、先に述べた、お金を払ってまで読むに値しない内容だからだ。ところで、「価値がない」と言っているのは私個人の価値観かもしれないが、社説で事実を歪曲したり、わざと書かなかったり、嘘を書くというのは誰にとっても価値を認めるものではないと思う。「finalventの日記」を一ヶ月もさかのぼって調べれば分かることだ。ところで、今日は意図して社説コメントは無し?(参照)タダでも読む価値がないものとは、そういう内容レベルのものを指している。いまさらだが、お断りを入れておく。

そして、新聞社説の話しとは少し前後して、「cakes(参照)」という、デジタルコンテンツのための配信プラットフォームができた(参照)。今までメールマガジンという登録制で、メールによって配信されてくるものとはちょっと違う。因みに、メールマガジンは、私もいくつか登録しているが、個人で運営しているものは一つも読んでいない。

「cakes」は、ジャンルにこだわらず、各方面の方が書かれたものにある程度編集を加え、ネット上で配信される。まだ日が浅いので私自身があまりよく理解できていないが、どういう人達が書いているかと言うと、ネット上で人気のある若いジャーナリストやTwitterで話題になる方などの顔ぶれが多い気がする。ここは新聞とは全く違う情報が並び、自分の関心事であることを誰かが取り上げて書いていないかな?とか、私のように、特定の関心のある「人」の書くものを目当てに登録する人も多いかもしれない。まだ、始まったばかりなので、今後が楽しみな新システムだと思う。読みたい人の書いたものがここにあるのなら、金銭に厭いはしない。むしろ、こんなに安価でいいんですかい?と、その内容の濃さにはお得感がたっぷりある。

また、見識者様が書くコラムなども、はっきり言って、ネット上でこんなに詳しい話が聴ける(読める)るなんて、と感激するほどいろいろな読み物に遭遇できる。特に取り出して分かりやすいのが、元財務官僚で経済学者さんや元NHK勤務の経済学者さん、福島原発の事故の真相を究明すべく、御用学者を論破してしまうジャーナリスト様。おお、私が運営するこのブログだって、日に2500Pvというから、それなりにレシピが広がっている気もするよ。

自分が作者としてこれらのような関わりを持たなくても、私の友人にもいるが、人の書いたものだけを読む専門の人もいる。とにかく、PCを開ければ何かしら見つかる。大昔、丸一日かけて足を使って奔走して一文献拾った時代とは雲泥の差である。そして、長く関わってみると、自分が必要とする情報を見つけるのも速くなってくる。

どうだろうか。ここまで書いてみて、自分の求める情報が簡単に手に入るようになった今、昔ほどの内容もなく、日本人の社会常識を向上させるような崇高な考え方もないような日本の大手紙の社説が今後、どれほど必要とされるだろうか。

「finalventの日記」の読者として、彼がもう少し歯切れよく斬り込める程度の内容、願わくば、本当の事を書く新聞になってもらえないだろうか。仮にそれができなくても、情報はいくらでも他にある今、新聞社の生き残りに期待したいのは、歴史の一部としてここで消滅して欲しくないという寂しさも未練もたっぷりでござる。

先日、以下のように「新聞社の終わり」についてTwitterに落とした。こちらもコピペしておくことにする。

 

2012年10月02日(火)

新聞社の衰退を惜しむわけではないけど、毎日各紙の社説に目を通すことができる今なのに、もう少しまともなことを書かないと読まれなくなる日は近いと思う。それでも新聞をまともに読む人も多少はいるのかもしれないけど、団塊世代がいなくなったら、その時が終わりの時になると思う。posted at 17:11:27

日銀白川総裁が無策で無能というのが日本経済の立て直しを期待する人からの批判だけど、メディアが日銀を批判しない理由もわかる。持ちつ持たれつで、生き残りが切実な問題だもんね。でも、だから新聞から国民は離れると思うんだけど。特にSNSで専門家の情報が湯水の如く湧き出てくるのだし。posted at 17:06:19

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コメント

この記事がいつものか、私はしらないし、知る必要もない。ただ、世のマスコミ信者に対する問題提起として一時期流行ったねたであろう。当時の流行に乗らずに考えてみた。
暇な人は社説をじっくり検証できる。しかし、忙しい人はできない。社説が常識として必要である程度なら、厳格に検証する必要もない。おしゃべり程度の常識として割り切れば、時間を割く必要もない。相手から間違いを指摘されたら修正すればいい。もっど、信頼に値する程度のものであったとしたら。
そして、社説をひとつの仮説として受け入れ、おかしいところを指摘されれば修正すればいい。
ときに、社説で論じられる常識が説得や論証の中で必要になったときに、社説から取り入れた仮説としての常識を見直せばいいのでは。
社説をひとつの仮説として考える指針としてはなお有効である。

投稿: | 2012-12-03 02:49

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