「何という愛(コーリー・テン・ブーム)」 岸本みくに訳
「何という愛(コーリー・テン・ブーム)」 岸本みくに訳(参照)を知ったのは、昨日のことだった(参照)。本書について「贖罪について、コーリーのこれでもよいんじゃないかと思えた。」と添えられている感想がとても気になった。というか、気に入った。これだ!と、そう直感した。早速、Amazonから取り寄せ、さっき読み終わったばかりだ。
なるほど、感想に書いてあった通りの小冊子であった。で、いきなり文字が滲みますと始まったわけだが、私自身の一番の関心事でもあった「贖罪(しょくざい)」については、本書の割と最初の部分で一度出てきて、最後の部分でも出てきた。この部分の描写は何度か読みなおしてみたが、コーリー自身が姉を死に追いやった看護師への憎しみが赦しに転じた点で、実在した人物のしかも実話として、かなりインパクトが強かった。このあたりから先を読むにしたがって、じわじわと胸が締め付けられるような思いがあった。涙の元は、私がクリスチャンではないための無念な気持ちや、だから、私には人を赦すチャンスが訪れないという思い込みや、悔恨からの涙だったのだろうか。それもあるが、心の奥では、非常に心地の良い、優しいものが漂ってもいた。何とも複雑な思いの中であった。Acimのレッスンを始めたせいで、やや、信仰的なものが私にも入っているからなのか、よく分からない。
今年の3月からAcim(参照)のレッスンを進めてきてみて、心の逃げられない領域というものが確実になってきたせいもあると思う。以前の私なら、気付くや否やスッと何かと差し替えて自分自身を誤魔化しまいそうな痛い、嫌な思いをする部分だ。現在、それが大きな課題としてあることを自覚し、それに突き当たっている。その壁を打開できないだろうかと思ってもいた。おっと、打開という言葉はあまり相応しくないかな。壁を突き破るようなそんなに物騒でエネルギッシュなことではなく、多分、受容するというか、憎しむという薄汚い心を何とかしたかったからだ。憎しみを自覚している時は、心が穏やかではいられないし、何をやっても心ここにあらずとなる。もう自分の心に嘘や誤魔化しはやらないぞ!と決めたはいいけど、そのまま持っているのは、こんな風に辛くなるし疲れる。次第に早く楽になりたいと、そういう願いに転じたのは、自覚してから随分後のことだった。これだけ私のこのことに関する頑固観念が強いという意味だろうと思う。この前のイソップの寓話でミダス王がアポロンから学んだ「赦し」は、実に耳の痛い私だった(参照)。これをまたもや思い出してしまった。イソップにきちんとインプットされたそのメッセージを思い出すたびに、こうやって子どものころから人間の赦しあう姿を学ぶものだなと羨ましくもあった。これは、キリスト教徒としてという意味でだが、Acimを進めらながら、このことはよく感じていることだ。そして、先ほど読んだ「何という愛」を読みながらも、何度も何度もクリスチャンでない自分を悔やんだ。
実は、コーリーの出会った人物には、キリスト教徒ではないような人物やキリストを冒涜していたという人物との会話が出てくる。そ、それ私だ!(冒涜までは犯していないが、全く信仰に関心がない私である。)私にもチャンスがあるかもしれない!この部分をちょっと引用してみる。
ある時そこで重病の男性に出会った。その人は弁護士であったが、主イエスを知っているかと尋ねた。彼は言った。「いいえ。私は、自分の頭で十分理解できない限り信じることができません。」
私は、コリント人への手紙第一の一章と二章が教えている、この世の知者の賢さと神の愚かさについて語った。「聖書には神の愚かさについてとてもたくさんのことが書かれているんです。それは最も優れた知恵であり、私たちの知者の賢さよりはるかに重要なものです。これによってのみ、本当の洞察力が得られるのですから。」
何週間か経ってから、もう一度そこへ行ったので、その男性を訪ねた。彼の病は、重くなっていた。私は訊いてみた。「神の愚かさについてどう思いますか。」「私は今は主をほめたたえています。それが、もっとも偉大な知恵であると知ったからです。私は、自分のプライドを投げ捨てて、一人の罪人としてイエス様のところへ行き、赦しを請いました。
プライドの高い、高学歴の人物の落としどころを上手く射止めたコーリーの勝利と言いたいところだが、そうではない。技術や話法を使いこなすのではなく、彼女と聖書は一体というか、コーリーも聖書を学びながら、自分自身が神との信頼関係を持てるようになったからではないかと思った。また、神から赦しを得たのに、なぜ病気が重くなったのか?ここは少し考えてみたが、プライドの高さや、人からの攻撃にたいして肩を張っていた生き方が変わり、やっと病人らしくなれて楽になったと解釈した。私に置き換えると、きっと私が私らしくなれたら、もっと楽になることだけは分かった。どこかで何かがねじれているか、ひねくれているに違いない。(一つはわかっている。どうしたいか、素直に相手に言えばいいだけのことである。)
「信仰」とは、「信じ仰ぐ」と書くが、この解釈に間違えがあったのじゃないかとさえ思った。「信じる者は救われる」も同様。何かと取り違えてきた気がする。少なくともクリスチャンとは、神を信じる人ではなく、神との信頼関係にある人という感じに変わった。
まだまだ、私は信仰できそうもないが、信頼関係を問うなら、対人関係においてもう一度自分を問い直したくなった。実は、この収穫が大きい。とても。そして、嬉しい。
諦めかけて、つい先ほどもつぶやきながら気持ちはどんどん暗闇に向かっていた。一歩も前に進めなくなるのである。人の裏切りや私の他者への期待感、それらから見放されるという孤独感や疎外感。その中に入ってしまうと結局、人が信じられなくなるという不安に襲われる。何一つ確信が持てなくなってしまう。しかも、確認できる距離でもない。無限ループにのった距離とでも言っておこうか。その暗いところにいる私にも「聖霊」の存在があり、だからこそ実は、神の愛は注がれているという。そこまでなかなか思えない私ではあるけど、自責の念を持つ私だから救われるというのは道理だと思う。幸せで悩みのない人に神は、やって来ないのである。ね✌
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