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2012年8月

2012-08-24

「何という愛(コーリー・テン・ブーム)」 岸本みくに訳

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読了。途中、何度も文字が涙で滲んで読めなくなった。ところが、その理由がはっきりしない。ただ溢れる。その感情に流される前に我に返り、目を拭ってその場所に戻ってもう一度読んでみる。でも、分からない。そして、感激したというほどの感情の高ぶりもない。このわけの分からない気持ちはなんだろうか?自分で自分がわからないまま、綺麗に整理しないで書いておくのもいいかと思いながら書いている。

 

「何という愛(コーリー・テン・ブーム)」 岸本みくに訳(参照)を知ったのは、昨日のことだった(参照)。本書について「贖罪について、コーリーのこれでもよいんじゃないかと思えた。」と添えられている感想がとても気になった。というか、気に入った。これだ!と、そう直感した。早速、Amazonから取り寄せ、さっき読み終わったばかりだ。

 

なるほど、感想に書いてあった通りの小冊子であった。で、いきなり文字が滲みますと始まったわけだが、私自身の一番の関心事でもあった「贖罪(しょくざい)」については、本書の割と最初の部分で一度出てきて、最後の部分でも出てきた。この部分の描写は何度か読みなおしてみたが、コーリー自身が姉を死に追いやった看護師への憎しみが赦しに転じた点で、実在した人物のしかも実話として、かなりインパクトが強かった。このあたりから先を読むにしたがって、じわじわと胸が締め付けられるような思いがあった。涙の元は、私がクリスチャンではないための無念な気持ちや、だから、私には人を赦すチャンスが訪れないという思い込みや、悔恨からの涙だったのだろうか。それもあるが、心の奥では、非常に心地の良い、優しいものが漂ってもいた。何とも複雑な思いの中であった。Acimのレッスンを始めたせいで、やや、信仰的なものが私にも入っているからなのか、よく分からない。

 

今年の3月からAcim(参照)のレッスンを進めてきてみて、心の逃げられない領域というものが確実になってきたせいもあると思う。以前の私なら、気付くや否やスッと何かと差し替えて自分自身を誤魔化しまいそうな痛い、嫌な思いをする部分だ。現在、それが大きな課題としてあることを自覚し、それに突き当たっている。その壁を打開できないだろうかと思ってもいた。おっと、打開という言葉はあまり相応しくないかな。壁を突き破るようなそんなに物騒でエネルギッシュなことではなく、多分、受容するというか、憎しむという薄汚い心を何とかしたかったからだ。憎しみを自覚している時は、心が穏やかではいられないし、何をやっても心ここにあらずとなる。もう自分の心に嘘や誤魔化しはやらないぞ!と決めたはいいけど、そのまま持っているのは、こんな風に辛くなるし疲れる。次第に早く楽になりたいと、そういう願いに転じたのは、自覚してから随分後のことだった。これだけ私のこのことに関する頑固観念が強いという意味だろうと思う。この前のイソップの寓話でミダス王がアポロンから学んだ「赦し」は、実に耳の痛い私だった(参照)。これをまたもや思い出してしまった。イソップにきちんとインプットされたそのメッセージを思い出すたびに、こうやって子どものころから人間の赦しあう姿を学ぶものだなと羨ましくもあった。これは、キリスト教徒としてという意味でだが、Acimを進めらながら、このことはよく感じていることだ。そして、先ほど読んだ「何という愛」を読みながらも、何度も何度もクリスチャンでない自分を悔やんだ。

 

実は、コーリーの出会った人物には、キリスト教徒ではないような人物やキリストを冒涜していたという人物との会話が出てくる。そ、それ私だ!(冒涜までは犯していないが、全く信仰に関心がない私である。)私にもチャンスがあるかもしれない!この部分をちょっと引用してみる。

 
   

ある時そこで重病の男性に出会った。その人は弁護士であったが、主イエスを知っているかと尋ねた。彼は言った。「いいえ。私は、自分の頭で十分理解できない限り信じることができません。」

   

私は、コリント人への手紙第一の一章と二章が教えている、この世の知者の賢さと神の愚かさについて語った。「聖書には神の愚かさについてとてもたくさんのことが書かれているんです。それは最も優れた知恵であり、私たちの知者の賢さよりはるかに重要なものです。これによってのみ、本当の洞察力が得られるのですから。」

   

何週間か経ってから、もう一度そこへ行ったので、その男性を訪ねた。彼の病は、重くなっていた。私は訊いてみた。「神の愚かさについてどう思いますか。」「私は今は主をほめたたえています。それが、もっとも偉大な知恵であると知ったからです。私は、自分のプライドを投げ捨てて、一人の罪人としてイエス様のところへ行き、赦しを請いました。

 

プライドの高い、高学歴の人物の落としどころを上手く射止めたコーリーの勝利と言いたいところだが、そうではない。技術や話法を使いこなすのではなく、彼女と聖書は一体というか、コーリーも聖書を学びながら、自分自身が神との信頼関係を持てるようになったからではないかと思った。また、神から赦しを得たのに、なぜ病気が重くなったのか?ここは少し考えてみたが、プライドの高さや、人からの攻撃にたいして肩を張っていた生き方が変わり、やっと病人らしくなれて楽になったと解釈した。私に置き換えると、きっと私が私らしくなれたら、もっと楽になることだけは分かった。どこかで何かがねじれているか、ひねくれているに違いない。(一つはわかっている。どうしたいか、素直に相手に言えばいいだけのことである。)

 

「信仰」とは、「信じ仰ぐ」と書くが、この解釈に間違えがあったのじゃないかとさえ思った。「信じる者は救われる」も同様。何かと取り違えてきた気がする。少なくともクリスチャンとは、神を信じる人ではなく、神との信頼関係にある人という感じに変わった。

 

まだまだ、私は信仰できそうもないが、信頼関係を問うなら、対人関係においてもう一度自分を問い直したくなった。実は、この収穫が大きい。とても。そして、嬉しい。

 

諦めかけて、つい先ほどもつぶやきながら気持ちはどんどん暗闇に向かっていた。一歩も前に進めなくなるのである。人の裏切りや私の他者への期待感、それらから見放されるという孤独感や疎外感。その中に入ってしまうと結局、人が信じられなくなるという不安に襲われる。何一つ確信が持てなくなってしまう。しかも、確認できる距離でもない。無限ループにのった距離とでも言っておこうか。その暗いところにいる私にも「聖霊」の存在があり、だからこそ実は、神の愛は注がれているという。そこまでなかなか思えない私ではあるけど、自責の念を持つ私だから救われるというのは道理だと思う。幸せで悩みのない人に神は、やって来ないのである。ね✌

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2012-08-13

パンの耳のおやつ

触れると何でも金になる力を持つミダス王は、その力を太陽の神アポロンからもらったという話は、ギリシャの神々が関わる話としてイソップ寓話に出てくる。このミダス王は、業突く張りで、アポロンに、太陽を率いるしか能がなく、黄金の光をそこら中に撒き散らすだけの浪費家だと詰った。そこでアポロンは、威厳を保つためにミダス王の望むとおりの力を授けた。が、食べるものも飲むものもみな金になってしまうことが不便になったミダス王は、アポロンに頼んで元に戻してもらった。この話はここで終わったかに思えるのだが、ミダス王の業突く張りはこんなことでは収まらなかった。

ある日、彼はシュリンクスと言う笛を上手に吹くパーンと言う神と友達になった。パーンは冗談で、自分の笛はアポロンの竪琴よりも素晴らしいと自慢げに言うと、ニンフ達が腕比べをすることにした。これが、「王様のロバの耳」の話のきっかけとなった。

ジャッジを務めた山の神はアポロンに軍配を上げ、負けたバーンもそれを讃えていた。ところが、ミダス王だけは、バーンのほうが上手だったとジャッジに文句を言った。これがアポロンを怒らせ、アポロンは、ミダス王を懲らしめるために彼の耳をロバの耳にしてしまった。その後、口止めしてあったにもかかわらず床屋は、ミダスの耳がロバの耳だということを結局、口外してしまったが、アポロンの慈悲によって許され、命を救われたことを急場で思い出したミダス王は、床屋を許したという話だ。人の寛大な気持ちに触れるというか、そう子供らが育つことを大人が願っているという含意が読み取れる。

いや、今の私にとっては耳の痛い話で、このところの政治家や代官様のすることを許せない庶民である。と書いても、懺悔の気持ちすら起こらないくらい当然で妥当だと思っているから救われないのだろうな。先日、参院で可決された消費税増税法案だが、あの時、政治史に残る一大事であり、これからの日本の風景がどう変化するのかを思っていた。政府の増税の目的は既に耳ダコではあるが、「社会保障と税の一体改革」である。ここでもう一度、この増税で改革が出来るものかどうなのか、試算してみた。その前に、財務省のデータを確認した。もちろん、増税がよい訳はないということが読み取れる。

一般会計税収、歳出総額及び公債発行額の推移

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そして、計算上はどうかと試算してみた。以下はTwitterでこっそり流したそのコピペ。

1) 現行より3%消費税が増税されると、約6兆円の税収が見込める。が、この実施にあたって、年金や生活保護手当の支給額を上げることが条件になる。また、政府の支出自体が消費税によって108/105だけ増えるため、従来通りの歳出のままでは支出が膨らんでしまう。 

2) 今の年金支給額、約34兆円に3/105(8%と5%の差3%)を掛けると約1兆円。サラリーマン家庭は、消費税が上がっても昇給するわけでもないのに、年金受給者の年金はこうして増える。という試算がたつけど、あくまでも税収が6兆円あったらの話(納税が見込めない原因は、増税によって消費生活自体が低迷する)。

3) 国家予算の80兆円の、仮に半分が消費税対象として3/105を掛けると、1兆円超える。政府はこの支出を削るのか、それともこのまま支出して、消費税増税分だけ歳出を増やすのだろうか。歳出が増えるなら増税の意味がない。

4) 消費税が上がって国民生活はますます苦しくなるが、国家予算も倹約に努めるのであれば6兆円が6兆円として生きるのかもしれないが、そうでないと、赤字になるのは目に見えている。しかも、計算上の6兆円なので、今のところ、絵に描いた餅状態だぜ。

5)望みのない社会になると言われている消費税増税が、本当にそうなのか?と疑ってみた上で大雑把な試算したけど、どうやってもいい法案とは言えない。国民が政府不信に陥るのは然り。今後の政治家選びは、日本の景気回復と社会保障や増税にどんな政策を持っているかじっくり見る必要がある。

試算してみて自分で納得したのでいいとして、野田さんのやっていることには国民のために非ずである。こんなマヤカシ、私にも見抜けるというのに、本当に政治の体をなしていないことが明らかになって、ふむ、返ってよかった。

日本のこれからの風景は、なんというか、昭和のあの感じになるのねと、自分で納得したした次第であった。

ところで、今日は、パンの耳を使って、昔ながらのおやつを作った。普通は、油で揚げてお砂糖をまぶすのだが、今日は、黒ゴマと黒大豆を生地に練りこんだパンと何も入っていないパンで、油で揚げない低カロリータイプのを作った。前者は、胡麻の風味を活かしてプレーン味。後者にはカルダモンとシナモンをそれぞれ、広げて冷ます時に好みの量を振りかけたら出来上がり。冒頭から話が外れっぱなしでごめんネ。インスピレーションで「王様の耳はロバの耳」に脱線し、そのまま昭和の風景まで描いてしまった。関係があるとしたら、質素な暮らしがこれから始まる点ではあると思う。

私が子供の頃の甘いおやつといえば、パンの耳の揚げたのにお砂糖をまぶしたかりんとう風のだったり、ドーナツやホットケーキといった、母の手作りだった。ドーナツは、型抜きしないため、ドーナツの穴のドーナツはなかった。おやつを作ってくれたのは、半日学校の土曜日が多かった。夏場の暑い日なのによく母は作ったものだと思う。縁側で食べていると蟻が足元に寄ってきて、お相伴にあずかっていたのを覚えている。そういう夏の風景が蘇ってきた。心は豊かにこの時代をやり過ごしたい気満々になってきた。

大して珍しいレシピじゃないかも知れないが、画像を見て食べてみたいと思ったが吉日。オーブンかオーブントースターがあれば誰でも簡単に、短時間で出来るのでお勧めよ。質素な中にも豊かさを感じさせる、なんだか味わいがあった。※画像では表面が濡れているようだが、かりっとした飴のような食感で乾燥している。上から順に、胡麻、シナモン、カルダモン。

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材料           

パンの耳(胡麻と黒大豆)・・6枚(約150g)         
砂糖・・50g         
バター・・50g         
はちみつ・・25g         
プレーンタイプは上記材料を同量とシナモンとカルダモンのパウダーを用意する。         
         

作り方            
1.
火の通りが均一になるようにパンを出来るだけ同じくらいの太さに包丁で切る。       
2. 天板にパンを並べてオーブンに入れ、150度になるまで(約15分)焼き、180度に設定しなおして軽く焼き色がつくまで約5分ほど焼く。       
3. 2と同時進行で、大きめのフライパンで砂糖とバター、はちみつを弱火で煮溶かし、ブツブツと泡が出て画像のように粘りが出てくるまで混ぜる。

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4. 3がドロドロになったら焼きあがった2のパンを一気に入れ、飴状のソースを絡める。       
5. オーブンシートの上に4を広げて冷ます♪

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2012-08-03

「I am a queue.」なんてこった、私が一番よ!

タイトルの通り、自分が並んでいる列にいきなり割り込んで来た人に一言、イギリスなら一喝して言う言葉はこれ❝I am a quere.(私が列よ。または、私が並んでいるのよ。)❞。読み方は、アイ エム エィ キュー。アクセントの一番強いのが「I」と「queue」の部分。しかも、「queue」という時、声のトーンを上げるとリアルにヒステリックな感じに聞こえる。その人の感情によって、このアクセントが微妙に違うが、同じアクセントで穏やかに言われると、なんとなくその場は和やかで、言われた方も、単に気づかなかったとか、勘違いした程度として済まされる。だから、「あんた!私が並んでいるのが見えない?後ろに並びなさい!」と、一喝という含意もあれば、「ち、ちょっとごめんなさい。私、並んでいるんですけど・・。」という控えめな印象を与えることもある。で、これを言われると、普通は、❝Oh,I'm sorry about that.❞とか軽く謝って後ろに回る。これで速やかに事は済む。かなり昔の話だが、この言い方は、今でも伝統的に守られているんじゃんないだろうか。そして、私の観察眼からだが、男性が言うことは滅多にないと思う。アレは、規律を守る派のイギリスの中年女性が多く口にしているように思う。風刺の意味も込めていると思うが、Mr.Beanの「The Bus Stop」が見事にその心理をついて表現している。

The Bus Stop

イギリスの習慣を知らなくても、単純にこの男性の心理が見え見えで面白い。また、Mr.Beanこと、ローワン・セバスチャン・アトキンソン(Rowan Sebastian Atkinson、1955年1月6日 -)氏のアクティングがずば抜けている。

女性は、自分が一番前だと思っているが、Mr. Beanが執拗に割り込みたがっていると思い込んだに違いない。が、赤ちゃんに危害が与えられても困ると思ったのか、逆らわずに後ろに並んで落ち着いたが、後からやってきた盲人に、「誤魔化されちゃダメよ」とでも入れ知恵をしたのだろうか、内緒話をしている。この時点で順番争いは2対1となっている。誰もが自分が一番と思い込んでいる点と、列を乱すことに非常に喧しく、規律を重んじる国民性という当たり前の意識が基本にあるから傑作な風刺にもなっている。

「The Bus Stop」を思い出したのは他でもない、「夕涼みにマクドに立ち寄る」(参照)で、お腹を抱えるほど笑ったからだ。読んでいる内に、あのローワン・セバスチャン・アトキンソン氏演じるMr.Beanと筆者の脳内劇場が重なって、無声の動きが私の脳内で展開され、無声映画のようだった。が、待てよ。笑っている場合じゃない、これは。私にも何度となく同じような経験がある。そして、勘違いとかではなく、明らかに意図的に割り込む人が大人で、しかも若くもない人にいるんだと知って驚くばかりだった。この経験からもだが、マクドナルドのカウンターで順番待ちをしているという明らかな状態で、人が自分の前に立ちはだかれば、それは割り込みとしか思えない。事態がどうだったかは読んでもらえば分かるが、問題は、マナー違反だとはっきりしている場合、割り込まれた私はどうしたらいいのか?これだ!

スーパーマーケットのレジで私が先頭で、後ろに3人ぐらいいた時、70歳くらいの男性がレジ越しに手を伸ばしてお金を渡そうとしている。反対側の手には何か品物を持っていて、それを見せている。彼は私の90°横にいる。はっはー、さては割り込み?ここで私が一言、「後ろに並んでください」と言うべきか、レジに並んでいるのだからレジの女性の管理下だとして、彼女が何か言うだろう的なオーラを送って黙っているべきか。なんだか胸の中がざわざわして嫌な感じがした。また、後ろに並んでいる人から、なんとなく空気が漂ってくる。その空気は、私に送られている。私が一番前なのだから私が何かを言えばいいんじゃない?って言われているような空気。これ以上は間が持てない、どうしようという瞬間、レジの女性が「こちらからお願いします。」と、その男性に列の存在を知らせた。と思いきや、男性は私の真横に来てお金を差し出している。あり、何この人。っと、呆気にとられた。順番を待っている人の一番後ろに並ぶ、という当たり前がない人なの?びっくりこいた。結局、レジ嬢は男性に「こちらのお客様の後でお願いします。」と後回しにして解決したかに思ったが、男性は、「急いでいる」とか、文句を言っていた。超自己中な人に遭遇したものだと、年末のくじの一等でも当てたかの確率だと思った。

世の中が変わったなと思った印象深い事がもう一つ。

銀行で、ATMが何台か並ぶコーナーにロープが張られ、先頭と列の一番後ろが分かる誘導路を作った時だった。えっ、ここに並ぶの?と察知したと同時に機転を利かせて後尾を探した時だった。無言で並ぶその時、目線をどこに持って行こうか迷ったり、ただ突っ立っているのが馬鹿みたいって感じた。そう言えば、ユニクロのレジカウンター前も同じようになっている。人がカウンターに居るならロープを貼る必要などどこにあるのか?とか、いろいろ感じたり思ったこともある。

なぜ、人は対話をしなくなったのだろうか?

子どもの頃は、何か悪いことがあると、近所の大人によく叱られた。やれ花壇に入るなとか、溝に物をすてるななど些細なことだったが、どこにも人目があって、それで社会性を身につけたというのもある。悪いことは悪いと教えてくれる大人がいて、それが当たり前で育った私にとっては、正義感などという大それたものじゃなく、普通に、声をかけてしまうこともあった。が、今は、注意すると逆切れされるし、相手が悪いと、何かされやしないかという恐怖心もあって言わなくなったのは確かだと思う。個人的にはそういう理由から、面倒を起こして返って人の迷惑になるという配慮の方が先に働く。注意されたことを気持ちよく受け止められない世の中に荒んでしまったと言えばそうだけど、子ども時代に、人に叱られていない若者が多くを占めているのも理由だろうか。マナーが悪くても放置するしかないのら、社会性を学ぶ場がなくなり、礼儀正しさを失うことになる。日本人の礼儀正しさと言えば、海外では結構鼻が高かったりしたものだった。というか、嬉しくもあった。

私が知るイギリスのように、個人的に注意したりされたりするのが日常的で、それで揉め事にならないのなら一番理想的じゃないかと思う(今のイギリスのことは知らないが)。一方日本では、最近、規制が多くなってきた。何か事が起こると直ぐに政府は、規制を敷く。規制で管理し、違反者には罰則規定を設けているが、こういう罪人認定は、どこか殺伐として穏やかな国ではなくなるという感じを受ける。その点、日本の昔の曖昧な法律の味わいもいいものだと思っていた。人同士が注意し合って済むことなら、その方がずっとマシな社会じゃないかな。

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