2012-07-13

国会事故調の最終報告書について(記録)

7月5日、福島原発事故調査委員会の最終報告書が国会に提出された。私は、この事故調査委員会をある意味、特別な意識で見ていた。東電や政府の事故当事者とは全く関係のない第三者による調査委員会であり、立法府に置かれた権威ある位置づけであると共に、日本では初めてである。また、第三者の目が、どこまで真実に近づくのかかという期待もあったからだ。それだけに、報告書がどのようにまとまるのか、またそれが、世界の原発開発の将来にいくらかでも役立つのだろうかと、ドキドキしながら待っていた。この期待感がどこから来たか正直に言うと、東電や政府のこれまでの事故報告の信憑性がとても曖昧で、半ば、信用できなくなっていたことが一番大きい。

さて、その事故調の報告書の一部に触れた当日から、次から次に各紙が、それぞれの解釈のもとに事故調の報告書に意見し始めた。何と言ったらいいのか、自分自身もやや混乱状態で、拾っても拾ってもはっきりしない。この状態は何だろう?なぜ一報告書にこれだけメディアが不一致な見解を示すのだろうか?言えることは、報告書の内容自体が曖昧な媒体となっているからではないかということだった。その時点では、私は報告書を読んでもいなかったが、日本の各紙が配信していた抜粋部分で多少感じ取ってはいた。抽象的な表現や、事実確認のできない歴史観からの日本像のような言い回しだったり、その年代を生きていないと通じない個人の主観的な内容という印象を受けた。そもそも、外国向けと国内向けで、記載内容が違うという点が疑問になった。TVで報じられた記者会見で、委員長の黒川氏は、「日本人には当たり前のことなので書く必要はないと思った。」と述べられたのは、報告書の発表後間もない時だった。そして、この言葉に全てが含まれていると直感した。

ちょっと野暮なツッコミをあえてしてみる。「日本人には当たり前」という言い方は、かなりな主観からであることは明白だと思う。人の観方や物の考え方は千差万別であるし、これだけ価値観が多様化している現在、全体観に立って日本人の認識を「当たり前」という一つの言葉では括ることは不可能だ。また、「書く必要がないと思った。」は、「日本人」と表現されている一つの認識を報告書に書くことが世界中の人と共有することでもある。それが事故調の委員一人一人に託されたのではなかったのか、と言いたい。ただし、これが報告書という性質上、必要かどうかも検討されたのだろうかという疑念も残った。海外向けにだけ書かれたことへの疑念ではなく、そもそも論として、どうなのだろうか?

だが、その疑問を払拭するどころか、翌日、海外紙から次から次にこの報告書への批判記事が配信された。このあたりから私は、事故調が提出した原本を自分の目で確かめたいと思い始めた。ほいで、これもまた早かった。英語版(参照)と国内向け(参照)のがそっくりダウンロードできた。関心のある部分だけざっと読んで一部はまだ読んでいないが、「日本人なら」と言われている理由もそれなりに理解することはできた。だが、これも日本人全体が理解できるとはやはり思えず、かなりの部分に疑問が残った。

大雑把だが、感想として書いておきたいことは、年代的に、黒川氏が見てきた昭和の日本は、仮に文字で表現されていたとしても現代の20代、30代、多分40代にも通じないのではないだろうか。そういう部分に、黒川氏独自の日本に対する観方が織り込まれていると思った部分がかなりい多い。高度成長期に差し掛かった東京オリンピックの頃に生まれても、終戦直後に生きていないと分からない昭和の風景もあり、東電という会社の体質や政府との関係は、今の人達には通じないものがあると思う。にも関わらず、外国用の報告書にズバリ書いてあっても、外国人にだって通じるとは思えない。これは、後できっと問題になるだろうと思っていた。それよりも、報告書の内容が正確に伝わりにくく、違ったインパクト与えてしまうのではないかと気になった。特に、「Made in Japan」という報告書に書かれている表現をそのまま引用して、日本に起こる特有の事故だったという印象を与えるような報じ方も、海外紙では目についた。これでは正確に原発事故報告が伝わるどころか、マズイことになっていると心底困惑した。そして心の中で、政府と企業が表裏一体となっている構造の改革に改善点を置くような論でも出てこないものだろうかとさえ願った。そして、この情報が錯綜する状態を分析して整理してくれる人はいないだろうか、と願った。

それが、ここにあった。

「国会事故調「日本文化論」についての一考察」(参照)では、外国メディアの批判記事から三つを「問題」として絞り出し、それらが実際の報告書を言い当てているものなのか否かが考察されている。

1)国会事故調が行った調査において、東京電力や規制当局の行為や行動がそれら今回の事故の当事者に特有のものではなく、普遍的な「日本の文化」であると言えるだけの根拠が確認されたのか。

2)国会事故調の調査において、そうした「日本の文化」が福島の事故の原因であると言えるだけの根拠が確認されたのか。

3)国会事故調が委員長の名のもとに、福島の事故は「日本の文化」が原因であると、立法府に設けられた第三者委員会の最終報告書に記すことは適切なのか。

これは、正に私が懸念した部分だった。この三点が問題点であるなら、事故調の報告書が報告書と言えるのかを直に問うことであり、今後の改善点が見えてくる建設的な考え方でもあると思った。まあ、関心のある方はじっくり読まれるといいと思う。

というサイト紹介みたいになってしまったが、もう一点、この考察の最後のところに、筆者が委員長の黒川氏に直にインタビューし、文字起こしされている部分の「私の意見として書いた」が興味深い。

長い長い報告書の随所に、原発事故の背景に「日本文化論」を忍ばせたかった黒川氏の本音の部分だろうと感じた。私の印象は率直に言って、黒川氏は私情を挟みたくなるお年というか、報告書作成には不向きな独断と偏見を大いに織り込んでしまった失敗作と評価した。

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