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2012年7月

2012-07-25

冷たい味噌汁レシピのつもりが、いつの間に教師の話になった

最近、テレビのコマーシャルで見た「冷たいパスタ」「冷たいお茶漬け」「冷たい○○」。世の中はなんでもアリになってきたのだね。夏は、なんでも冷たくして食べるのが今ごろの趣向らしい。団塊世代の上になると、暑い時こそ熱いお茶だというものあるみたいだ。節電ムードが昨年の夏以来漂っている結果として、何でもいいから涼しく過ごそうと知恵を絞るのは当然だろうと思う。大飯原発再起動にまつわる反対運動をよそに、政府は、再稼働に踏み切った。節電15%という話がつい先達てまで言われ、デフレ不況が続く日本の暑い夏に、業界は、どうやってしのぐのかが商戦となり、コマーシャリズムに踊らされているのを自覚しながらも、日本人て優しい。皆に優しい。どうしたら涼しく過ごせるか、叡智を寄せ合い、それを皆で共有するなどの結束力には優れている。これもみな、助け合いの精神が支えている現象なのだろうな、すごいな。

最近、イジメ問題がニュースを賑わしている。生徒が自殺に至るまで、いったい何が追い込んでしまうのか。いろいろな理由を聞く。行政が悪い。教師がイジメに気づかない。調査が徹底していない。生徒同士が見てみないふりをするのが良くない。教育委員会が生徒を守ることに徹しない。家庭環境が良くない。など、こんなところだろうか。極論して、例えば、これらの問題が全て改善されて準備万端整ったとしたらイジメはなくなるだろうか?そんなことはない。そもそも、イジメが起こらない子ども社会などあり得ない。言葉を変えると、自己主張を子どもに止めさせることはできない。なぜなら、それは形を変えた育つ力が源になっていることであり、人格形成の上で、他人と価値観をぶつけ合う姿であるとも言えるからだ。またそれは、幼い子供が砂場で小競り合いをするのと全く同じで、それを端から止めさせてきた結果、後から発露したとも言えると思う。育つ力が正常に働く子どもほど砂場の雪辱は後々まで残り、小学生くらいになると少しエスカレートしたものに変わる。ここで指導上教師が割って入り、周囲の友達までもが寄ってたかって阻止しようとし、当然ながら、やっと出てきた自己主張の芽をまたしても摘まれてしまう。そして、中学、高校へ進むと、子どももやや知能犯となり、隠れた場所でこっそり派手にイジメとしてその鬱積した鬱憤を弱い者にぶつけるようになる。

遠い昔の、あの砂場あそびでの喧嘩を止めさせた親から始まり、何十倍もの難関を突破したエリートと呼ばれる挫折なしの教師がそのアカデミックさを発揮して「イジメはいけません」バリで子どもの前に立ちはだかる。また、新人教師には上が(教頭や校長)、「問題だけは起こさないように」と、圧力をかけるのである。この話は実話だよ。息子の新人担任が子どもをハンドルできずにパニクっている時、泣いて愚痴をこぼされたのは母である私だ。だから、慰めたよ。と言っても「よくやっていると思うよ。私ならそんな職場なら、とっくの昔に逃げ出しているよ。」と、言っただけなんだけど、なんだか元気になっちゃっただけ。

「新人教師は子どもから洗礼を受けるんですよ。そこから這い上がる力こそが大切なんです。」って、既に学級崩壊したクラスの副担が他人ごとのように新人の指導にあたっていた。その新人さんは、通勤拒否になってしまったし。

皆、自分の正しさで、正しい行いをしているのだろうけど、じゃーどうして自殺する子どもを増やしてしまっているのか?

はっきり言って、イジメが始まるとそれまでの仲良しは離れてしまうのだよ。まきぞいにならないための自衛本能だから冷たい奴らだといくら恨んでも、自分がその矛先なったらどうだろうかと仮定すると、仕方がないなと思う。むしろ、自分に関わったために一緒にイジメられる側になどなって欲しくない。遠くで「ごめんね」と言えず、目を背けているのがその証拠でしょう。だから、イジメの対象に一度なったら避ける事はできない。蛇に睨まれたカエルにしかなれないのである。こんな時、教育委員会が出てきてどうする?仮にその場でイジメを止めさせても、その子どもに鬱積した思いは払拭できないで残ってしまう。そういう子ども達がいい大人になって、「誰でもいいから殺したかった」などいう理由で通り魔と化すのかもしれない。最近、そんな風に思うようになってきた。そう考えてみると、社会から跳ね出された犠牲者とも言える。砂場あそびで自己主張を咎められたため、どこかにそのはけ口を求めて。自己主張という行動は、誰もが必ず通る道なのだと思う。

いささか話が飛んでしまったが、子どもに元気がない時、親ならどうしたのかな?とそっと理由を聞いてみようかと思ったり、ちょっと気をつけて様子を見てみようかなとなる。いや、最近の親は忙しい人が多くて、子どもの変化に気づかなかったり、関心が薄れてしまったということも聞く。教師なら、生徒の様子が違って見えるのは、給食時の食欲や目線、休み時間誰と一緒にいるか、下校時は誰と帰宅しているかなどで、生活の変化は測り知ることはできる。おかしいと思ったら、しっかりした子どもに様子を聞くなど、いくらでも察知する機会はあると思う。そこで、マニュアルの通りに指導するのではなく、子どもを励ますことってとても大切。私はそれで救われた。

私を見てくれている人がいる!そう思えただけで励まされたものだった。イジメが、たった一人の愛で救われるとしたら、イジメの起こっている現場である学校という屋根の下で、自分を見ていてくれると教師に安心できればどれほど心を瘉すか、また、通学する勇気をもらえるかと思う。また、逆に、いじめる側の生徒にも、なぜ、虐めたくなるのかをとことん聞くと、寂しかったと、泣いて訴えるという子どもが多い。こんなことがなぜ私に言えるかというと、教師でも親でもない立場で中高生と関わった時の経験からだ。教師に相談できず、親にも言えない子どもの聞き役のようになってしまった時だった。時には、教師の愚痴聞きもした。その心に寄り添う人がいることが救いになるのであればと思ったものだった。

ついて出てくる気持ちのままに書いたが、昨日、「米国で一番優れた先生」(参照)にちょっと触発されたからかな。アメリカの試みは確かにすごいと思ったし、日本でも地方からノミネートされた、いわゆる人気先生を集めて一位を決めるというイベントに野田首相が先頭をきって楽しんでいるとしたら、そんな姿は夢のまた夢になりそうに思った。日本だったら、天皇から頂く勲章が関の山だろう。と、そんなことを思っていても前が塞がってしまう。教師叩きなどの趣味もない。これは、誤解なきように前置くけど、教師の資質はいかにアカデミックであるかよりも、子どもを愛して止まない気持ちと、子どもがいろいろなことを乗り越えて育っていくのを見届ける生き証人なのだという喜ばしい職に就いているという誇りのような気持ちを持ち合わせていることが大切だと、いつもより少し声のトーンを上げてここに記しておきたかった。

Photo

さて、頭が少し冷えたところで、冷たい夕顔の味噌汁なんていいよ!とちょっぴレシピっぽいことを書いて締めようと思う。どうしても夕顔じゃなければダメというものでもない。冬瓜でもいい。

3cm角くらいに切りそろえて、冷めた昆布と鰹の出汁でゆっくり火を入れて行くだけ。塩分は一日6gをキープすると癌予防になると最近知った手前、ちょっと言い難いけど、夏場は、汗をたくさんかくこともあり、少し塩分が多い方が旨いと感じる。しかも、キンキンに冷たくして頂く味噌汁なので、やや濃い目の味がいいかもしれない。でも、これも好みの問題なので、味見しながら好きな濃さでいいかも。

煮立ったら、中火以下で5分ほど煮て火を止め、味噌を加えて蓋をしてそのまま粗熱が取れるまで冷まし、冷蔵庫でさらに冷たくする。お椀に注ぎ分ける時、青みにみょうがや大葉をきざんで散らすとぐっと美味しくなるよ。今日の画像は、ほうれん草の刻んだのに切り胡麻を混ぜただけ。

冷たい夕顔が、お腹の中をスーッと降りて行くのが分かる。三つくらい食べると、体のほてりが収まるのが分かるよ。

材料(6人分)
昆布と鰹の出汁・・1㍑
夕顔・・300g
ほうれん草・・少々
切り胡麻・・大さじ2
信州味噌・・適宜

冬瓜の冷たいスープ実は、前に「きんきんに冷やした冬瓜ととうもろこしのスープ」(参照)で、洋風スープを紹介している。とうもろこしがたっぷり入った、まさしく夏のスープ!夕顔で代用しても美味しい。こちらもお薦めです。

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2012-07-19

末期癌、その本当の終末

今まで、何人の友人、知人の早生を見送っただろうか。ふと気づくと、いつも死に怯え、病気にならないよう健康に配慮していろいろな制約を自分に設け、なんとなく、それで健康なんだと思い込んでいるだけじゃないのか。どれほど健康に配慮して生活を摂生して年に一度のドック検診を受けていたって、死を予告するような疾病に苦しむ時は来る。と言いつつも、どこかでそれは自分にではなく、他人ごとにしているような、または、自分のこととして思わないようにしているのかもしれない。

先月の中頃、私は所用で東京の郊外に6日ほど滞在することがあった。その時、血縁ではないが、自分に近しい関係のある人物が突然入院したことを知らされた。

入院する少し前に彼は、職場で倒れ、担ぎ込まれた病院で検査した結果、胃に腫瘍があると告げられたが、組織検査で悪性か否か、はっきりするまで自宅で療養していたらしい。本来ならそのまま検査入院だったのだろうが、何かの経緯で、彼は一時的に退院していた。微熱が続く中、調子の良い日を一日だけ費やして彼の初孫の誕生を祝うのが楽しみだったようだった。そして、初孫の顔を見て早々に入院したと聞いた。おそらく彼の中で、この入院の意味が既に分かっていたのではないだろうか。病気が治癒して退院できるような病気ではないと、そう周囲にも漏らしていたそうだ。

組織検査に出していた彼の胃の腫瘍について医者から話があるというので、まずは奥さんが呼ばれた。胃癌で、余命三ヶ月という宣告を受けたのは、この日が最初であった。この時の説明では、もしも、癌が胃だけであれば、手術すれば二年半の延命は保証できるという話だった。手術すれば「余命二年半」、という言葉だけが頭に強くインプットされたことが後のちょっとした誤解につながり、手術自体が良かったのかどうだったのかを疑問に思わせる原因となったのも確かだった。

「癌」と聞いて気が動転して話半分だったのか、医者から、翌日にでも家族と一緒に話を聞きに来るように促され、翌日、二人の息子と一緒に医者の話を聞き直したそうだ。だが、この時、既に医者は癌の転移を疑って多臓器の検査に取り掛かっていた。その結果いかんでは治療方針も変わるという意味のことを告げられ、家族はさらに不安で気が重くなった。また、本人への告知もためらわず、その日に明かしたということだった。

数日後、癌は、膵臓、脾臓にも転移が認められたと医者から聞いた家族は、今後の治療について早々に決断しなくてはならない状況となった。本人は最初に癌を告げられた日に、癌の家系でもあるし、いろいろ今まで見てきて癌治療の凄まじさに遭遇してきたことから、「あの苦しい思いはしたくない。家に帰ってゆっくりしていたい。」そう話していたそうだ。が、ここで、胃癌の告知を受けた当初のインパクトがそのままあったため、手術すれば2年半の延命は保証してくれるという医者の言葉を思った家族は、皆、当然手術すするものとばかり思っていたそうだ。そして、改めて、手術をするというのは、胃から、ともすると大腸に至るまでのほとんどの臓器を切除するという意味ともなりうると知ったそうだ。直ぐに判断できないのは、人の冷静さを欠いている時というのか、その時点で家族は、彼の病状がそこまで進んでいたとは疑いもしなかったからか、決断を遅らせることにもなったようだ。そして、ここで今後の治療方針が定まらず、何をどうしたら良いのか、皆目検討がつかない状態に陥っていると、傍で見ている私には伝わってきた。

全くの他人事でもないが、私が彼の癌治療に関して口を挟むほどの関係もない。が、現状を聞いて自分なりにどうするのが良いか、考え始めたのはこの時だった。つい、先週のことだ。

従兄弟に医者が二人いることを思い出し、直ぐに相談してみた。この相談というのもおかしなもので、何を相談するというのか、自分でもあまりはっきりしていないこと気づいた。私の持っている情報は、末期癌で多臓器に転移し、手術によって癌細胞を切除しても三ヶ月の延命。その手術自体が無事に終わるかどうかも定かではないこと。その理由に、極度の貧血で健康者の血液量の半分しかない状態であること。これを元に何をどう相談するというのか?延命を図るのであれば手術後の生活はどうなるのか?どのような状態で療養するのか?それを本人が望んだとしたら、家族はどのような生活となるのか?また、当初、本人が望んだように、痛々しい闘病生活は送らずに出来るだけ安らかに死ぬには、どういう療養方法があるのか?

ここまで考えてきてはっとした。末期癌は、治療はできないということがごっそり抜けていた。これは、自分が死ぬことを疑いもしない日常の「当たり前」の感覚からくるものだと思う。「治療」は、末期癌患者にとってはあり得ないことであった。もう治す事はできない。つまり、療養の目標は、どのように幕引きしたいかである。その死という到達点を一番熟した「早生」として結実させ、どのようにその「早生」を迎えるのか、それを一緒に考えることが今を生きることなだとやっとはっきりした。

泌尿器科の医者で、入院患者も受け入れられる規模の開業医である友人にこのことを相談した。流石に察しが早かった。彼から最初に出た言葉は、「僕は、そういう患者さんに最初は家に帰って療養することを勧める。」だった。次に、ホスピスで過ごすことだった。長い経験から裏付けされた言葉として伝えられたその声は、優しかった。体に管を通して栄養補給していても、輸血や輸液を24時間離せない患者でも、在宅看護という方法を希望すれば医者が手配してくれる事や、24時間体制で家族が看病できない部分について、介護士のお世話になることができるなど、いろいろな情報を頂いた。

私が知りたかったことはこういう情報だった。担当医がこれらすべての可能性を提供してくれるものではないこともここで知った。つまり、自分の病気が何という病気でどういう治療ができるのかできないのか、また、できるとしたらどんな方法があるか。できないとしたら、どのように幕引きを迎えるのか。それらを選択するための全ての情報はどこで手に入れられるのか、全て、自分で探さなくてはならないということが分かったのだ。Twitterのやり取りで知ったことだが、一番早い情報網は、患者同士ということだった。なるほど、自分の病気を必死に治すためにありとあらゆる可能性を探し求めるのは、当事者であることは間違いないと思った。

やっと彼にとっていい方法が見つかったと思い、一昨日、連絡してみると、急に手術を承諾したのだと聞いた。彼が当初から拒んでいた方法なのになぜ?どうして?という思いが錯綜したが、そういう疑問を持つだけでも彼を否定することにもなる。落ち着いて、次の話を聞くと、それが今日だと言うのだ。つまり、昨日手術は行われたようだ。手術が無ければ、様態が落ち着いてからお見舞いに行くことを了解してくれてもいたのに。昨日は、もしかしたら長時間の手術に耐えられず、そのまま幕を閉じてしまうのかもしれないという不吉な思いがあった。

今朝方起きてメールが届いていた。昨夜、無事手術室から戻って麻酔も切れ、少し話もできたそうだ。よかった。今後のケアーについても書いてあった。放射線治療にとりかかるそうだ。彼が苦しみたくないと言っていたその治療が始まるそうだ。何と言ったらいいのか、先の言葉が見つからない。

彼は、癌が発覚してからそれを悔やむように「調子が悪いと感じた時に直ぐに病院に行ってればよかった。」と、話したそうだ。頗る健康で、それまで医者にかかったことがない事を自慢げにしていたが、かえってそういうことが仇となったのだろうか。ステージ4の末期癌で治療はできないと知った時の後悔があったせいか、それで今回の手術に踏み切る勇気を得たのだろうか。そうとしか思えない。

胃が全部なくなると知った彼が言い残した言葉は「プリンが食べられなくなる。」だったそうだが、命が残ってさえいたら、病院のベッドで寝たまま、沢山の管につながれて機械に管理されて生きる方がいいとでも思ったのだろうか。いや、私にそんなことを言う権利も資格もない。これは彼の人生であり、彼が選択した唯一の結実であった。

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

 

ついでになるが、以前、「極東ブログ「神様は、いじわる [文春新書](さかもと未明)」の書評について」(参照)で紹介した仙台の医者に診てもらいたいという方からメールをもらった。病名もはっきりしない病で、幾つか病院を渡り歩き、このブログ記事に遭遇したと聞いた。早速仙台の医者に診てもらった結果、病名もはっきりし、治療が始まったそうだ。

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また、「大往生したけりゃ医療とかかわるな(中村仁一)」(参照)も、一つの生き方として選択肢の一つに加えてもいいんじゃないかと思う。

著者は、自らも喉の近くに腫瘍を住まわせているが、それが悪性か良性かも調べもせずといのがまず意表をつく。医者として末期癌患者と日々向き合っているその姿勢から、いろいろな生き方を知ることができる著書だと思う。

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2012-07-13

国会事故調の最終報告書について(記録)

7月5日、福島原発事故調査委員会の最終報告書が国会に提出された。私は、この事故調査委員会をある意味、特別な意識で見ていた。東電や政府の事故当事者とは全く関係のない第三者による調査委員会であり、立法府に置かれた権威ある位置づけであると共に、日本では初めてである。また、第三者の目が、どこまで真実に近づくのかかという期待もあったからだ。それだけに、報告書がどのようにまとまるのか、またそれが、世界の原発開発の将来にいくらかでも役立つのだろうかと、ドキドキしながら待っていた。この期待感がどこから来たか正直に言うと、東電や政府のこれまでの事故報告の信憑性がとても曖昧で、半ば、信用できなくなっていたことが一番大きい。

さて、その事故調の報告書の一部に触れた当日から、次から次に各紙が、それぞれの解釈のもとに事故調の報告書に意見し始めた。何と言ったらいいのか、自分自身もやや混乱状態で、拾っても拾ってもはっきりしない。この状態は何だろう?なぜ一報告書にこれだけメディアが不一致な見解を示すのだろうか?言えることは、報告書の内容自体が曖昧な媒体となっているからではないかということだった。その時点では、私は報告書を読んでもいなかったが、日本の各紙が配信していた抜粋部分で多少感じ取ってはいた。抽象的な表現や、事実確認のできない歴史観からの日本像のような言い回しだったり、その年代を生きていないと通じない個人の主観的な内容という印象を受けた。そもそも、外国向けと国内向けで、記載内容が違うという点が疑問になった。TVで報じられた記者会見で、委員長の黒川氏は、「日本人には当たり前のことなので書く必要はないと思った。」と述べられたのは、報告書の発表後間もない時だった。そして、この言葉に全てが含まれていると直感した。

ちょっと野暮なツッコミをあえてしてみる。「日本人には当たり前」という言い方は、かなりな主観からであることは明白だと思う。人の観方や物の考え方は千差万別であるし、これだけ価値観が多様化している現在、全体観に立って日本人の認識を「当たり前」という一つの言葉では括ることは不可能だ。また、「書く必要がないと思った。」は、「日本人」と表現されている一つの認識を報告書に書くことが世界中の人と共有することでもある。それが事故調の委員一人一人に託されたのではなかったのか、と言いたい。ただし、これが報告書という性質上、必要かどうかも検討されたのだろうかという疑念も残った。海外向けにだけ書かれたことへの疑念ではなく、そもそも論として、どうなのだろうか?

だが、その疑問を払拭するどころか、翌日、海外紙から次から次にこの報告書への批判記事が配信された。このあたりから私は、事故調が提出した原本を自分の目で確かめたいと思い始めた。ほいで、これもまた早かった。英語版(参照)と国内向け(参照)のがそっくりダウンロードできた。関心のある部分だけざっと読んで一部はまだ読んでいないが、「日本人なら」と言われている理由もそれなりに理解することはできた。だが、これも日本人全体が理解できるとはやはり思えず、かなりの部分に疑問が残った。

大雑把だが、感想として書いておきたいことは、年代的に、黒川氏が見てきた昭和の日本は、仮に文字で表現されていたとしても現代の20代、30代、多分40代にも通じないのではないだろうか。そういう部分に、黒川氏独自の日本に対する観方が織り込まれていると思った部分がかなりい多い。高度成長期に差し掛かった東京オリンピックの頃に生まれても、終戦直後に生きていないと分からない昭和の風景もあり、東電という会社の体質や政府との関係は、今の人達には通じないものがあると思う。にも関わらず、外国用の報告書にズバリ書いてあっても、外国人にだって通じるとは思えない。これは、後できっと問題になるだろうと思っていた。それよりも、報告書の内容が正確に伝わりにくく、違ったインパクト与えてしまうのではないかと気になった。特に、「Made in Japan」という報告書に書かれている表現をそのまま引用して、日本に起こる特有の事故だったという印象を与えるような報じ方も、海外紙では目についた。これでは正確に原発事故報告が伝わるどころか、マズイことになっていると心底困惑した。そして心の中で、政府と企業が表裏一体となっている構造の改革に改善点を置くような論でも出てこないものだろうかとさえ願った。そして、この情報が錯綜する状態を分析して整理してくれる人はいないだろうか、と願った。

それが、ここにあった。

「国会事故調「日本文化論」についての一考察」(参照)では、外国メディアの批判記事から三つを「問題」として絞り出し、それらが実際の報告書を言い当てているものなのか否かが考察されている。

1)国会事故調が行った調査において、東京電力や規制当局の行為や行動がそれら今回の事故の当事者に特有のものではなく、普遍的な「日本の文化」であると言えるだけの根拠が確認されたのか。

2)国会事故調の調査において、そうした「日本の文化」が福島の事故の原因であると言えるだけの根拠が確認されたのか。

3)国会事故調が委員長の名のもとに、福島の事故は「日本の文化」が原因であると、立法府に設けられた第三者委員会の最終報告書に記すことは適切なのか。

これは、正に私が懸念した部分だった。この三点が問題点であるなら、事故調の報告書が報告書と言えるのかを直に問うことであり、今後の改善点が見えてくる建設的な考え方でもあると思った。まあ、関心のある方はじっくり読まれるといいと思う。

というサイト紹介みたいになってしまったが、もう一点、この考察の最後のところに、筆者が委員長の黒川氏に直にインタビューし、文字起こしされている部分の「私の意見として書いた」が興味深い。

長い長い報告書の随所に、原発事故の背景に「日本文化論」を忍ばせたかった黒川氏の本音の部分だろうと感じた。私の印象は率直に言って、黒川氏は私情を挟みたくなるお年というか、報告書作成には不向きな独断と偏見を大いに織り込んでしまった失敗作と評価した。

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2012-07-07

これがアメリカ?日本にオスプレイがやってくる

沖縄普天間飛行場に配備が決まっている新型輸送機MV22オスプレイが、ほぼ日本全域に渡って低空飛行訓練をすることになったことは周知のことだと思う。私がこれを知ったのは、先月下旬のNHKニュースだった。該当のソースは削除されているが、別の朝日の記事からその計画が確認できる(参照) 。

報告書によると、海兵隊はこれらのルートで最低高度約150メートルでの飛行・戦術訓練を計画。6ルートの合計で年間330回が見込まれ、約3割は夕刻から夜間に実施するとしている。

普天間に配備されたオスプレイは月に2、3日程度、2~6機ずつがキャンプ富士(静岡県)や岩国基地(山口県)に移動。その際に、これらのルートで訓練をするという。現在の輸送ヘリCH46に比べて航続距離が5倍以上になるため、こうした運用が可能になるという。

一方、沖縄では普天間飛行場で約6700回の飛行を予定。沖縄本島北部の訓練場には、ヘリが高度15~60メートルで訓練するルートが設けられており、オスプレイも年間25回程度使うとされている。

低空飛行訓練はレーダー網をくぐり抜け、地形に沿って敵地深くに侵入するためのもので、危険度も高いとされる。本土のルートでは過去に米軍機の墜落事故も起きている。

防衛省などによると、オスプレイは1991年以降に8件の重大事故を起こし、計36人が死亡。最近では4月に北アフリカのモロッコで訓練中に墜落し、今月も米フロリダ州で墜落事故が起きている。防衛省は「開発段階で不具合は修正されており、海兵隊が保有する航空機の中でも事故率は低い」としている。(其山史晃)

そして、想像に反することなく各地の住民から反対の声が上がっていると各メディアが数日前から報じ始めている。やっと我が事になったというこの本土の様子は、沖縄にはどのように写っているだろうか。そんな事がとても気になった。

そのオスプレイを積んだ輸送船が今月1日、サンディエゴを出港して24日には岩国に到着を予定している。受け入れ側の岩国市長は森本防衛相に、安全性が確認されるまで飛行はさせないと断言したことで陸揚げ自体を拒否すべきだと要請し、沖縄県の仲井真知事も当然、安全確認ができていないものは拒否する、と強硬に拒否の表明をした。

この一連の騒動の中で私は何を感じたかというと、民間から起用された森本防衛相であれ、鳩山由紀夫元首相がそれまで自民党との約束で落ち着いていたところへ「県外移設」を根拠もなく言い放ったため、沖縄県民の県外移設への期待が大きく膨らませてしまった。そのために、誰のいうことも信じられなくなった沖縄にしたのではないかということだった。加えて言うと、現政権は民主主義に法って運営されるべき国会までも冒涜した政権であるという私の認識から、既に何も信用できなくなってしまっている。沖縄県民に置かれては、長年の念願だっだけに、二転三転しながら現実にはアメリカの申し出を受ける国に従わざるを得なくなるのかもしれない。つまり、アメリカに守ってもらう以上、基地の使用に関して日本の都合ばかりが通ることではないのだけど、鳩山さんはこれを安易に考えたのか口が滑ったのか、とにかく、沖縄の人達をがっかりさせ、怒りともなった。

さて、話は変わるが、アメリカの同盟国であるパキスタンとアメリカの関係が非常に悪化している中、クリントン国務長官が謝罪の電話をしたというニュースに驚いた(参照)。

パキスタン政府は、隣国アフガニスタンに駐留するアメリカ軍への補給路を去年11月から閉鎖していましたが、5日、補給路を再開させ、これによってアメリカから経済援助が得られるという見通しを示しました。

パキスタン政府は、アフガニスタンに駐留するアメリカ軍から去年11月に国境を越えた攻撃を受け、自国の兵士24人が殺害されたため、報復措置としてアメリカ軍に物資や燃料を輸送する補給路を閉鎖しました。
しかし、今月3日、アメリカのクリントン国務長官が攻撃について初めて謝罪したのを受けて、パキスタン政府は5日、7か月ぶりに補給路を再開させ、第一陣のトラックが国境を越えてアフガニスタンに向けて物資の輸送を始めました。
これに関連して、パキスタン外務省の報道官は、記者会見で「アメリカが凍結しているかなりの金額の経済援助がまもなく解除されると期待している」と述べ、補給路再開によってアメリカからの援助が得られるという見通しを示しました。
ただ、パキスタンでは、国民の反発が強いアメリカの無人機による攻撃を巡って、パキスタン政府がアメリカに停止させるめどが立たないのに、補給路の再開を決めたことに批判が高まっているうえ、イスラム過激派組織はアメリカ軍の物資を運ぶトラックを攻撃すると宣言しており、緊張が高まっています。

パキスタン政府高官はカネに目が眩んだと揶揄したくなるような内容だが、それでは目糞鼻糞になってしまう。当の日本も「抑止」を盾にされればオスプレイだって嫌とはなかなか言えない政府であるし、国民もイザとなればアメリカの抑止力なくしてはどうにもならないと観念するだろう。これが本音のところで、沖縄に甘えられている束の間の戯言だと思う。そのパキスタンに関してだが、以前、他所で知ったパキスタンの国際的ジャーナリスト、アハメド・ラシッドによる米フォーリン・ポリシーへの寄稿文「No Country for Armed Men - By Ahmed Rashid | Foreign Policy (参照) 」には驚いた。パキスタンを破綻寸前まで陥れ、政界有力者や軍にたいして多大な影響をおよぼした米国の責任について赤裸々に告発している。以下は、その部分の抜粋で、訳してみた。

No Country for Armed Men - By Ahmed Rashid | Foreign Policy

LAHORE – It was a sign of the misguided times in Pakistan that on June 5 -- a day when the country faced massive rolling electricity blackouts, a crashing economy, civil war in two out of four provinces, violence from the Himalayas to the Arabian Gulf, and a cratering relationship with the United States -- the Pakistani army decided it was the best moment to test fire a cruise missile capable of carrying nuclear warheads. It was the fifth such test since April, supposedly a morale booster for a wildly depressed public, a signal to India that Pakistan would not put its guard down despite its problems, and a message to U.S. Defense Secretary Leon Panetta, who had arrived in Delhi that morning, that Pakistan could not be bullied.
全国に広がる停電や崩壊に向かっている経済、4州のうちの2州で広がる内戦、ヒマラヤからアラビア海まで広がる暴動、米国との関係が悪化する中で、パキスタン軍は、6月5日には4月以来5回目となる核弾頭を搭載できる巡航ミサイルの実験を行った。パキスタンは、国の困窮下でも国防を弱めていないという意思決定をインドに示し、その日の朝、デリーに着いたパネッタ米国防長官に、パキスタンを痛めつけることは不可能だというサインを送った。
Unfortunately, the Obama administration's misguided handling of Pakistan over the past year has only convinced Pakistani hardliners that they were right. In their eyes, Washington's provocative cozying up to New Delhi, the peace talks it started with the Taliban without including Pakistan, and the U.S. withdrawal from Afghanistan it planned without adequate consultations with Islamabad have all served notice that America's hostility toward Pakistan is unrelenting. They believe it's the Americans who have got it all wrong and now face a military debacle in Afghanistan. The irony is that Pakistan has always wanted a U.S. withdrawal from Afghanistan and a U.S.-Taliban dialogue it could dominate.
不幸にもオバマ政権はここ数年パキスタンへの対応を誤り、パキスタンのタカ派に彼らが正しかったという自信を持たせてしまった。彼らの目には、ワシントンはニューデリーに友好的に近づき、パキスタンを含めずにタリバンとの和平交渉に着手し、イスラマバード(パキスタン)との適切な協議なしにアフガニスタンからの撤退を計画した。これらすべてが、パキスタンに対するアメリカの敵意が容赦ないことを示している。 このような過ちによって、米国はアフガニスタンから軍を撤退することになったと彼らは考えている。皮肉なことに、パキスタンは常に米軍のアフガニスタンからの撤退と、パキスタンが影響を与えられる米・タリバンとの対話を望んでいた。

30年間アメリカに協力してきたがために政治が腐敗し、国が滅びようとする姿がたまらないという思いがじんと伝わってきた。そして、今朝、頭の中を整理しようと呟いたこともここに記録しておこうと思う。

米国とパキスタン政府の関係経過:対米協力と引き換えに年間10~20億ドル、またはそれ以上の軍事・経済援助を受けながら政財界や軍の腐敗、権力闘争で内省不安が絶えず、経済と国民生活は破綻寸前の状態にまで悪化した。posted at 04:19:41

パキスタンの主権を無視して、米軍CIAの無人機によるイスラム武装勢力に対する越境攻撃では、反米感情を増大させた。昨年11月の米軍による攻撃でパキスタン軍兵士24人を死亡させ、米国が謝罪を拒否し続けたことでさらに悪化した。posted at 04:23:45

パキスタン政府は米軍の補給ルートの閉鎖と空軍基地提供中止を決定し、両国関係は最悪になった。米軍は別ルートの中央アジア経由のルートに切り替えたところ、毎月1億ドルも補給経費が増大するため、パキスタンに再開を働きかけた。結局、7月3日、クリントン国務長官がカール外相に電話で謝罪した。posted at 04:27:29

パキスタンが米国からの支援と引換に補給ルートの使用を認めたように、日本は抑止(米海兵隊)が交換条件。沖縄へのオスプレイ配備にはやや強引さを感じているけど、どのみち配備を受け入れることにはなる。普天間以外で考えるしかないのかもしれない。とは言え、住民と現政権の信頼関係回復は難しいposted at 04:34:45

現政権のやることなすこと全てに信頼が置けないのは私も同じ。それを沖縄住民に丸呑みしろとは頼むことすらできない。気持ちを言えば、アメリカの世話などになりたいくないではあるけど、、。なんだか不甲斐ない。posted at 04:37:15

そして、クリントン氏から電話で、たったの電話一本でだ、次のように謝罪した。

We are sorry for the loss suffered by the Pakistani military.

その直後に、待ってましたとばかりにパキスタン政府はアメリカに譲歩してしまった。パキスタンは、これでまたアハメド・ラシッド氏の告発したような国に戻り、元の木阿弥へと落ちて行く。同時に、日本とアメリカの将来も、切っても切れない縁であると言える。嗚呼。

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2012-07-04

中小企業が生き抜く道-その2

とんだ政府が運営する日本社会に嫌気が差してきたわけじゃなかった。よく考えたら、こんな政府は真っ平御免だと思っている私の心から早く逃げたいと、そう思いながらも毎日我慢しているが、じっとしてもいられず、ネット上で書いてらっしゃる諸先生方の見識など、興味深く読ませてもらっている。ついさっきもDIAMOND ONLINEの「日銀当座預金は過去最高でもマネーが市中に流れないワケ」というタイトルをつけた東短リサーチ取締役 加藤 出氏のコラムに目が止まった(参照)。加藤氏のことはほとんど私は知らないので、ちょっと調べてみた所、経済評論家として現役で活躍されているようだ(参照)。この記事からきっかけを得たというのもあって、考えていることをまとめておきたいと思った。

まず、初っ端から先のコラムを腐すようになってしまうが、実は、コラムのタイトルと内容がイマイチピンと来ない。タイトルに引かれたのは、言うまでもない、日銀にお金が溜まっていては市中銀行に出回るわけもなく、当然、市民の借入窓口である銀行業務も停滞しているということだ。市民にお金を借りる理由がなければ消費も停滞してしまい、つまり今のデフレからいつまでも抜け出せない状態が続くということを意味するわけだ。この打開策として、先日ここで書いた「「社会保障と税の一体改革」で中小企業が生き抜く道」(参照)でも筋立てしたように、政治にお金が回る政策を託す問題でもあった。コラムに期待したのは、日銀からお金が出ない理由から、市民の私にこのデフレ不況を乗り切るために何が出来るか、それを考える道筋だった。あえてここから私の知りたい部分を抜き出すとすれば、この部分だろうか。

現代の銀行はさまざまなリスク管理の規制に縛られている。中央銀行に預けている準備預金が増大しても、銀行が企業や個人への貸し出しを増やせるわけではない。

本文は、なぜこのようなことが起こるのかという説明が続いている。うーむ。失礼のないよう何度も読んだが、タイトルにある私の知りたい「マネーが市中に流れないワケ」の見解は読み取れなかった。人の考えをあてにした私が馬鹿だった。反省。

そして今朝、Twitterで拾った「【片岡剛士氏インタビュー】円高・デフレは自然現象ではない! 無謬性の罠にはまらないための経済知識 『円のゆくえを問いなおす』著者 片岡剛士氏インタビュー:ソフトバンク ビジネス+IT 」(参照)にバッチリ書いてある。人の考えをあてにしてはならぬと言いながら片岡氏の指摘には同感で、これまでのもやっとした日銀像がはっきりしたというだけではある。

──デフレを脱却するために、金融緩和を実行して、通貨の流通量を増やす。いわゆる「リフレ政策」と言われるものですが、日本銀行はなぜリフレに舵を切らないのでしょうか?

片岡氏■大きく分けて、二つの理由があると考えています。一つ目は日本銀行が「自分たちの実行する金融政策では、物価をコントロールできないのだ」ということを固く信じ込んでいることが考えられます。

先進国のなかで「インフレとかデフレというのは、中央銀行が発行している通貨の問題、つまり貨幣的現象ではないのだ」ということを明言している通貨当局のトップは、私の知る限り白川総裁だけです。

二つ目の理由には日銀の組織的な問題が考えられます。彼らは超エリート集団ですから、もちろん優秀な人も多いのですが、そういった方に共通している性質は、間違いを認めたがらないということです。ましては、総裁の立場にもなると、失敗が怖くなるわけです。自分の在任中に政策転換して大失敗するよりも、前例を踏襲した方が、リスクが少なくて済みます。

実を言うと私は、白川総裁は間違ったことを信じているとは思っていません。事実、為替レートは、貨幣的な問題で動いていることを海外で学んで日本に伝えたのは、ほかならぬ白川総裁ご自身です。彼はマネタリーアプローチに基づく為替レートの実証分析についての論文を、留学して戻ってきた1970年代に発表しています。失敗を恐れるあまり、かつての自分の主張の正しさをブロックしてしまっているのではないでしょうか。

そして、先日のエントリーで経済の活性化という点で、中小企業のやりどころも理解できた。が、お金を借りる動機がなければやはり銀行へは足が遠のいてしまうことになる。政治家や日銀のやりどころは見えてきたが、国民には今、本当にお金を借りる動機はないのだろうか?

先日、2chネタでこんなのがあった。「若者の”マイホーム離れ”が深刻・・・ 業界悲鳴 「買い時なのに何故買わない」 なんか憑かれた速報」(参照) 。タイトルの通りでなんだか泣けてきそう。バブル期に家を新築した私などは、今必要なくても買っておこうかと衝動買いしたくなるような低価格で驚く。このコーナーに続いて、なぜ買わないのかというコメントがズラッと続いている。そこで気になるのは、ある程度お金はあって仕事もしているのにローンを組みたがっていない点だ。将来不安が拭えないうちは借金などできないということだろう。これは、バブル期の繁盛を夢見て設備投資した中小企業の事業が数ヶ月後、借金苦で倒産した1990年から2010年の頃の話とダブルのがなんとも。

もう一つ、知人の話を別の角度で書いておこうと思う。

30代半ばの夫婦で子どもはまだいない。ご主人は、フレンチとイタリアンのシェフで、幾つかのレストランや宿泊施設の厨房を任された経験がある。そろそろ自分のレストランをオープンさせようと、東京生まれの東京育ちでありながら信州の片田舎が好きで、出来れば古民家を安く借りるか買うかと物件を探していた。が、元手がない。今なら銀行も貸すだろうと踏んでいたのか、なんとかなるさと軽く思っていたのかそれはよく分からない。ある日、物件を探しているということを知って、信頼出来る私の古い友人で、不動産を扱う人物をこの二人に紹介した所、すごく気に入った土地が見つかった。今なら土地も安く、なんとか入手しようということになり、二人の両親に相談して借入の保証人になってくれるという所まで話をこぎつけた。それまで沈んで見えた二人の顔は満面の笑みに変わり、夢あふれる希望に満ちていた。ところが数日後、購入できそうもないのでこの話はひとまずお預けにするという連絡をもらった。詳しく聞くと、理由は、両親共に反対に転じ、深く考えると、自分には借りるだけの信用がないという結論に至ったと言うのである。それは百も承知で保証人になってくれるというのが当初の話と理解していた私は、彼の話が理解できなかった。

これがこの話の主な流れだが、彼は親に何故「保証人になるよ。」と言わせることができなかったか?別の言い方をすると、親が保証人になると言ってくれるまで頼み込めなかった彼の理由は何か、ということだ。この答えは人それぞれかもしれないが、人に物を頼む時は特にこの問題が大きいし、重要である。日本社会で何かをしようとする時、人との信用が大きな課題になる。未知の開拓には失敗もつきものだが、どこかで思い切らないとスタートが切れないで終わることも多い。後から後悔しても過ぎた年月は返ってこないのである。

さて、彼が親に対して信用がないと自分で反省した部分についてだが、この言葉は彼の性格上、自分自身の欠点のように取り込んでしまうところがあるからか、このような言い方になってしまうのだと私は理解した。意味は、返済できるかどうかの自信がないということに近いと思った。だが、彼のキャリアはお店のオーナーとして十分なものだし、勉強熱心で、常に料理を考え楽しんでさえいる人物だ。世の中にもそういう人が多いのではないだろうか。傍から見ているとものすごい腕前の職人さんや個人的なスキルを持ち合わせた人でも、ご本人は全く自信がないと言う、そういう人のことだ。で、彼の場合はどういう意味だろうか?と考えた。

彼に成りきって考えてみたら簡単に答えが出た。それは、店をオープンさせるために借金するまではいいとして、さて、オープンの日にはお祝いの花束が届いたり、これからお世話になるお客様を招待してお披露目のパーティーを催すとしたら、はたして呼べる人がいるだろうか。また、招待するような顧客はいるだろうか。こういう顧客に可愛がられながら繁盛するのが商売で、それがなかったら田舎でオーブンしてもお茶っぴきの毎日が訪れて仕込みは無駄になり、開店休業ということだってありうるんじゃないか?都会じゃやるまいし、一見客でペイできるような商売は田舎では難しい。そうか、不動産を紹介するより前に、なぜこのことに気づかなかったのか、私としたことが。そして、彼に確認したところ、図星だった。

話が長くなったが結論的に言えるのは、日銀に溜まっているお金がどんどん市中に出て経済が回りだすために日銀のやることはあるとしても、田舎の若者が借り渋っている理由は、一言で言えば商売に対する不安だと思う。その不安は、販促につながるような人間関係がネックになっているようである。昔のように、作れば売れるという時代ではなくなったのは製造業だけではなく、飲食業界にも言えそうだ。

30代半ばの若者達が起業をする背景に、やはり人間関係を考慮に入れないでは進まないと思った。

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