私の過失
何かが胸に支えていてすっきりしない。喉のあたりまでそれが出かかっているような。それは昨日食べた真カレイの骨じゃないの?まあ、そんな感じ。気持ちが悪くてしかたがないので少し書いてみようと思う。
この気持ちの悪さを自己分析してみた。確実に、年齢は世間で一般的に言われている「ババア」なんだけど、心はそうでもない。ある時期は年齢に相応しく心もあって、子育てに忙しかった時期は、自分がもっと成長出来るような糊代(のりしろ)があったのを覚えている。伸縮自在のような(現在と比較すれば)元気があった。つまり、自分の評点が60点位で、成長に余裕を残していた。が、どうだろうか。生活力や忍耐、いろいろな経験をそれなり積んできた今、だったら自分に100点をあげられるかといえばそれは無理。いつか思っていた60点のまま、あまり成長の軌跡が確認できない。そして、もっと悪いのは、残りの40点を稼ごうという欲も気力も体力もない。そして、もっともっと悪いのは、気持ちは若がえるような感覚があることだろうか。
一昨日も少し書いた通り、五感は、身体の衰退とは裏腹に鋭くなってきているように感じる。音楽や自然、木々や季節の変化の「今」を自分に存分に刷り込んでおきたいという欲深さのようでもある。これはなぜかと、立ち止まって考えてみたら、これは「死」に確実に近づいていることを否定出来ない年なったということだと思う。死をいつも意識しているのではないかと思う。残る人生が少ないなどという余裕のあるものではなく、次の瞬間に死ぬかもしれない自分を思っているのだと思う。
「長いスパンで物事を見なさい」と、成長期にはよく言われたものだった。目先のことしか考えず計画性がないなどと叱られている頃はよく失敗もした。そして、計画性を持って物事をこなせるようになったのは最近のことだが、それは点数で言えば60点だ。ところが、残る40点を何とかする事に労力を費やそうという気力が起こってこないし、私にはもうそんなに時間がないのではないかと思うと、自分の趣くままに心を満たすことで豊かでありたいと願う方が強くなってきた。一時期、これは現実逃避ではないかと悩んだこともあった。でも、なぜかあまりそれに縛られずに気持ちが和らいでいった。
そして、手に入れられるものと入れられないものがある時、手に入れられないものへの諦めはなく、いつまでもそれを欲しているだけで満たされるということもわかってきた。これは若かりし頃の私ではあり得ないことだった。
先程、「愛という試練(中島義道)」(参照)をふと思い出して開いてみた。久しぶりにこの本に触れ、簡潔な表現の中に鋭く本質を見ぬき、それを隠すどころか、全てを暴き出すという凄まじさも相俟って、読むのが止まらなくなった。そして、妙に爽快感さえ残った。重苦しい描写だという感想を持つ人も多いと聞いているが、とんでもない。これだけ自分の本質を書き出すということは、持っているものの重さが伺えることであるし、自己開放のためにもなるのではないかとさえ思った。そして、私は自分の大切に思っている人に図らずも大きな恐怖を与えてしまったことに気づいた。中島の書いている中でそのことを思った時、もうこの姿をどこへ持って行ったら良いのやら途方に暮れた。人生の後半の生き方というものをそれなりに、私も考え直すべき時なのだと痛感した。
私に愛を教えてくれなかった、あるいはその醜さを独自のかたちで教えてくれた両親は死んでしまった。いま、ふたりは白い骨となって墓の中に並んでいる。
私の体内には愛をめぐる母と父とのおぞましい関係が鉛のように埋め込まれいる。長いあいだ、これから解放されたかった。しかし、むしろこれを糧にして生きていこうと思うようになった。これこそ、バウロの身体に突き刺さった棘のように、私に苦しいけれど豊かな世界を開示してくれ、弱さや愚かさにまみれた人間の崇高さを教えてくれ、そして何よりも私を私自身にしてくれているものなのだから・・・・・・。
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コメント
死との背中合わせで、「五感は、身体の衰退とは裏腹に鋭くなってきている」ってすごいことですね。とんちんかんでしょうが、徒然草の93段が浮かびました。毎朝の写真からは、自然や人生の必然的な流れのなかに偶然の美を見出すことを楽しむ人、ですよね。ただ、タイトルが謎めいている。
投稿: tekukami | 2012-06-15 06:34
tekukamiさん、年齢とともにこれまで経験したいろいろなことは自分の中で一旦消化されてしまうのですよ。新たな出会いもあるけど、そういうことに期待するよりも、同じ事に出会っても引き出される自分の感性が変化し、改めてそれを味わうことがもっと楽しいという感じに変わってきているような気がします。
タイトルの変性は、中島義道の著書で表現する人物像がその対象にあります。内容は割愛しましたが、そっとしておいて欲しい部分にあえて棒を突っ込むようなことをしてしまったという悔恨の思いです。
投稿: godomther | 2012-06-16 05:53
すごい考察の内容の記事に、何度も頷きながら読みました。自分自身、振り返りながら、共感できる部分や、気づこうとしなかった、見ようとしなかったな…といった自分の甘さにも、気づかされました。「五感は、身体の衰退とは裏腹に鋭くなってきているように感じる。」本当に、そうだと実感します。
投稿: フランクリンプランナーに挑戦中 | 2012-11-12 23:38