2012-06-12

道に迷わずに

この3月から、ある方の日記と並行してaicm(A COURSE IN MIRACLES)(Wikipedia)のレッスンを始めた。このことは、ここの過去のページに書いたことだけど、始めた当時からすると少しずつ、私のイエス・キリストに対する意識が変わってきているのを感じるようになった。神の存在を信じるようになったのかって?それはない。それはあり得ないこと。ここで断じてしまうのはキリスト教徒の方々に失礼申し上げるかもしれないのでいい改めると、少し理解が深まったという表現が一番近いかもしれない。そして、私は、ただの主婦。大昔に聖書を読書した程度の関わりしかなく、その私がacimを始めたのだって、単純に未知の分野に足を踏み込むというようなチャレンジ的な動機だった。

ところが、acimって私のような人向け?かと思うほど、よく組み立てられていると驚くこともある。途中何度も苦しい思いがあったけど、そういう時、イエスを信じる私であれば、心を強く持って自分の抱える苦悩に向き合い、正面からじっと見ていられたのだろうな。などと、信じない私の思いが出せるようにもなった。また、その苦難とは、その時その時の私のエゴであることだと気づかせ、そのエゴは現実のものではなく、私自身が過去の経験から創りだして幻想として再現しているものにすぎないのだと、そんな風に悟らせてくれるようだった。(この部分は、真実だと納得しているし。)そうこうしているうちに、キリスト教自体への関心が深まり始め、わからないことを調べ、理解していきたいと欲するようにもなった。

ところが、キリスト教理解を深めるには、ローマ帝国時代よりも前の2世紀くらいまでタイムスリップしないと、途中だけつまみ食いしてもダメ。学習不足の大きな穴は、継ぎ接ぎでは足りないと痛感していた。この歳で始められることは何か?と奔走し、それを考えれば考えるほど諦める気持ちが強くなってしまう。ああ、なんて浅墓だったのか。acimに足を踏み込んだことを後悔もした。が、なんとか自分に言い聞かせるようにして気持ちを切り替え、取り組みたい気持ちも嘘ではないのだからと、初心を思い出しながら焦らずにゆっくり進めている。

そんな中でも、いいこともある。例えば、先日、ギリシャ語の賛歌を引用したマーラーの「8番」について、彼が後の奥さんであるアルマへの自分の愛を告白した歌であるという解釈にたどり着いた時、acimを続けてきた自分を褒めてあげた。この曲が、ギリシャ語の賛歌であること。その賛歌をマーラーは何の目的で引用したのかなど推測を交えて調べていた時、自分が愛するアルマへの告白をイエスの愛に入れ替えて上手く曲の中に溶け込ませていることを実感した。マーラーは何とカッコウいいの!素敵!そんな風にコクられたらとろける。などと妄想し、当時の様子がどんどん浮かんできて、次を調べるのにワクワクした。いつもの癖で、自分の想像と推測を混同しないよう時々「落ち着け!」と、耳元でもう一人も私が囁いていた程楽しいひと時だった。

そうかと思うと、「瞑想」の失敗が相当私にはこたえていたせいか、「瞑想」によって邪心を追い払うなどはとてもできないと思っていた私が、「これかな」と思える瞬間に遭遇し、これかなと思う経験をしてしまったのだ。これができたのも、こちら(参照)で失敗した例を挙げていて、その原因の考察が実は、私もその手だったと共感できたからだった。かくして「瞑想の祈り」の失敗パターンに嵌る瞬間を自覚できるようになり、その瞬間にスッと無の境地というものが体感できるようになった。その嬉しさときたら、ああ、これだ!とつい飛び上がってしまったほどだった。

話しはガラッと変わるが、「瞑想の祈り」と関係しているので、このことも書いておきたいと思う。今現在エジプトでは、大統領選挙とムバラク時代の憲法改正について再び、市民が暫定政権のやり方に不満を持ち、デモなどで訴える姿を報じているようだ。まず、この選挙の争点になっているのは、ムバラク政権を支えてきた側かイスラム勢力か、エジプト国民は果たしてどちらを選択するかという点だ。国民による民主的な選挙はエジプト始まって以来で、前例もない事もあり、投開票してみない事には予想は困難のようだ。数字を読むとすれば、ムバラク政権派か軍部派、イスラム派のいずれかだが、大きな衝突を繰り返して勝ち取った昨年のムバラク打倒であったにもかかわらず、ムバラク政権側を支持する派がかなりいるらしい。

このところのエジプト情勢に関しては、また後日、触れるとして、ムバラク政権崩壊後、エジプトに10%を占めていると言われるコプト教はイスラム派のテロ攻撃に何度か遭遇している。コプト教は、ムバラクにうまく保護され、他とのバランスが取れている間は良かったが、コプト教襲撃は、ムバラクの世襲(息子の後継)を嫌う軍が仕組んだのではないかと思ったものだった。そもそも何故、エジプトにひっそりとコプト教徒が10%もいるのか?コプト教が何故、キリスト教とは呼ばれないのか?ローマ帝国がキリスト教帝国となったころ、ローマ主教座が独立・分離したまでは理解できたが、コプト教についてはその宗派は何を引き継いでいるのか、探しても皆目見つからなかった。最優的な気がかりは、今回の大統領選で政権がイスラム派に移ったとしたら、コプト教は保護されないのではないかという要らぬ心配だ。私が気にしたところでどうにもなるものではないのは百も承知だが、「砂漠の教父」達は、キリスト教の実の生みの親であるアナタシウスを師事し、のちにできたコプト教との関係から、この長い歴史がここで終わるのではないか。そんなことを思い始めてしまった。だからと言ってエジプト選挙の関心が偏るというものでもないが、私だけだろうか、こんなことを心配するのは。

そういえば、日本の政治もものすごいことになっていいる。今朝読んだ現代ビジネスの高橋洋一さんの「社会保障は「1勝1敗1分け」、では「景気条項」「歳入庁創設」「軽減税率」は?民主・自民・公明3党修正協議という「消費税増税」八百長相撲の行方を読む」(参照)のコラムは興味深かった。表記について、具体的に考察を入れながら、どう決着がつくかと結んでいる。その議論はさて置きと言いたいが、置くどころか、本当は野田総理は「決める政治」なんてやってはならないと一喝している。これ読んで、あ、そうだったねって、すぐさま頷いた。考察や議論に夢中になるとつい忘れがちなことは、「そもそも」ってこと。選挙公約で増税などを盛り込んだら絶対に国民から支持を得られることはないのは、大平さんの時で学習済み。そして、「大型間接税をやらない」と公約して衆参ダブル選挙に大勝した後300議席を確保するや否や「売上税導入増税」をやったのは中曽根さんだった。

野田総理は、民意に反して「決める」のはおかしい、ノダ。野田総理がやってもいい事は、民主党がマニフェストに当初掲げた事だけなノダ。どうしてかというと、野田総理は民主党の代表選に勝利したというだけで、民意を得たものでないからだ。

この迷える羊を探し出して、こっちに誰かが連れて来てくれるだろうか。

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コメント

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

投稿: 履歴書バイブル | 2012-06-29 11:40

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