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2012年6月

2012-06-28

「社会保障と税の一体改革」で中小企業が生き抜く道

一昨日の衆院で、野田増税案が可決された。こんな馬鹿な採決が民主主義の日本で平然と行われた事にものすごい脱力した。それは、消費税増税が可決されたことへの怒りではない。その採決までのプロセスが認められない。そして、日本はこれからどん底まで落ちて行くことを思った。昨日この件で多くのブロガーも書いたようだった。ここでは、個人的にも関係することで、この法案が参院で可決されると仮定して、それがどう生活に影響するのか。また、どうしたら這い上がってこられるのか、荒削りにはなると思うが、簡略的に書いておくことにした。

2009年の総選挙で民主党が自民党に大きく水を開けて勝利し、ここで政権が交代した。それまで野党であった民主党の訴えや自民党批判は、そっくりそのまま与党というステージで大いに展開され、民主党の言う日本は明るく素晴らしい国に変わっていくのだと国民に期待をもたせた(画像は民主党のHPから)。

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ああ、こんなことを信じた私が馬鹿だったとしか言いようのない現実を前の前にして、がっかりしている人は少なくないはずだ。国民とのお約束を全てすっぽかしているのは事実であるし、約束になかった増税を見事に衆院で通してしまった。終盤の野田総理は、自らの「政治生命をかける」と何度も言いながら自己陶酔の中の、まるで泥酔者のようだった。だが、一連の姿はある意味ご立派でした。このブレない凛とした自信はどこから来るのだろうかと、呆れてもいたがそう思っていた。誤ちを以って自分の正しさをどこまでも疑わない、その姿勢のことだ。

一方、小沢氏のグループが反旗を翻し、野田増税は断固として阻止するという勢いから、57の反対票をまとめた。野田政権のやることが正しい道であるなら、小沢氏の行動は民主党にとっては「造反」であるに違いない。多くのメディアがそう報じていた。が、私は、これは違うと思う。選挙で有権者が認めてもいないことを勝手に持ちだし、しかも、野党である自民・公明と事前に影で談合した上で「投票」を行った。最初から数合わせをした上での投票だった。ただし、この無理押しをした採決の結果、民主党は、少数与党に転落したということも見逃せない。民主党288・国民新党3の連立与党291は、57名を差し引くと234となり、過半数の239を5下回った。民主党単独としての232は、過半数239を7下回り、離党しないと公言した鳩山ぽっぽを除いたとしても、小沢氏らが離党すれば、現民主党は少数与党になる。採決の後、小沢さんの顔に笑がこぼれたのは、離党の可能性に期待してほくそえんだのかと思った。かくして、民主主義国家である日本の議会政治が崩壊した記念すべき日として私の脳内にしっかりインプットされた。そして、そのショックから未だ立ち上がれないでいる今朝、昨夜報じられた産経ニュース「造反「理解できない」59% 小沢新党「期待せず」79% 共同通信世論調査」(参照)の結果にまた愕然とした。

共同通信社が消費税増税法案の衆院通過を受けて26、27両日に実施した全国電話世論調査によると、増税法案採決で民主党の小沢一郎元代表らが反対票を投じ造反したことに59.8%が「理解できない」と答え、「理解できる」は36.1%だった。小沢氏らの新党結成に関しても「期待しない」との回答が79.6%に上り、「期待する」は15.9%にとどまった。

小沢氏らの行動が国民の支持をつかみきれていない実態がうかがえ、今後の新党をめぐる動きにも影響を与えそうだ。

野田内閣支持率は29.9%で前回6月上旬の調査より2.1ポイント下落し、不支持率は54.3%に上昇。衆院解散・総選挙の時期でも「できるだけ早い時期」が40.8%と最も多かった。

小沢氏の行動が「理解できない59.8%」は、何を意味するのだろうか。民主主義に法った議会政治が理解できないということだろうか。前出で私がこの度の国会のプロセスについて述べた意見は、間違いだということになる?というか、国民60%に近い人には伝わらないということになるのだろう。ごめん。私自身がもうついていかれない。

では、角度を変えて、こういう現実めいた話しならどうかな?「年収500万円世帯で年12万円の負担増 さらに保険増額など家計圧迫」(参照

第一生命経済研究所の試算では、夫婦のどちらかが働く子ども2人の標準世帯で、年収が500万~550万円だと、消費税率が8%になった段階で年7万2948円、10%だと11万9369円も現在より負担が増える。

消費税を導入した平成元年を含め、過去の消費税増税では、同時に所得税の減税などを行い、「重税感の緩和につながった」(財務省)。ただ、今回はそうした減税を伴わない“純粋な増税”だ。政府は税率を10%にした場合の税収増を年13兆5千億円と見込むが、裏返せば、それだけの負担が国民にのしかかる。

また、東日本大震災の復興財源を賄う増税も控える。所得税は来年1月から現在の納税額に2.1%分上乗せされる。社会保険料の上昇も家計を圧迫。高齢化を受け、サラリーマンらが払う厚生年金保険料は16年から29年まで毎年引き上げが続く。今年6月には、子育て世帯の負担軽減策だった住民税の年少扶養控除も廃止された。

何もいいことない。増税で一体改革を行うと、暮らしが良くなってお年寄りは安心して病院に通え、老後の心配など必要なくなるのであればきちんと増税してくれと言ってもいい。でも、試算は、違う結果だ。逆に、今よりももっと緊縮を迫られることになりそうだ。そういえば、Twitterで早い反応では、飯を一食抜いて節約するという放言もあった。笑っている場合じゃないが、笑うしかない。あはは。

もう一つ、中小企業の実態としていい例になると思うので私の住む街の様子を書いてみたい。

「社会保障と税の一体改革」がどうもお題目になりがちで、身近に感じられないと思っていたので具体的に実態を当てはめてみた。また、女性が多く働く職場の例も、続けて最後に書くことと共に考えやすくなると思う。

バブル崩壊は、日本にデフレ不況をもたらした。金利も高く借入などもっての外という社会気風の中、それでももう一旗揚げようと、バブル期の盛況を幻想した会社経営者は、高利を承知で長期の借り入れを行い、設備投資した。他所よも少しでも性能の良い機械を導入すれば少しでも効率良く仕事が進み利益が望めるという下請けの性ではあるが、左右を見ながら背伸びをした。ところが、見込んだ仕事は増えず、どんどん減った。気づいたらデフレに突入していた。ここで、抱えた余分と思われる労働者への肩叩きが始まった。企業が真っ先にシェープアップするには、人件費削減である。ある時期は、外国人労働者を雇うほどだったのに。そして、歯車が狂い始めた。設備投資の借入返済は愚か、資産の償却をするだけの売上がないため、決算は赤字が続いた。借入の返済に困窮し始め、なんとか決済しようと、ギリギリまで金策に走る姿もあった。そして、銀行の厳しい条件をクリヤーできなかった会社は、端から消えていった。市中には、これら倒産会社の所有していた機械・備品が二束三文で引き取られていった。

雇用関係ではどうだっただろうか。女性は、働く時間をセーブして納税対象にならないように働き、社会保障の恩恵は、あくまでも夫の扶養を固持した。会社側は、社会保険加入の義務はあっても加入しない小会社が多い。これは社会保険料の会社負担を回避するためだったが、女性のパート社員の要望とも合致したし、緩い制度のお陰でなんとか福利厚生の負担を最小限に抑えた。これは節約とはいえない。誤魔化しだ。なぜこのような誤魔化しができたというと、中小企業の経営者なら誰でも知っていることだ。社会保険の加入は義務付けられているが、罰則規定などがないため、この緩い制度である意味負担軽減で救われただけの話だ。金額的には、10人雇っている会社なら11人分の給与を支払うのと同じくらいの負担額になるため、税金のかからないパート20名を雇って上手くシフト回転した方が合理的である。と、そっちへ抜け道を作る知恵も回る。

このような自転車操業の中でも、2000年くらいまでは銀行の営業はよく会社に顔を出していたが、ここ10年くらいになるだろうか、営業しなくなった。バブル崩壊後の数年で設備投資した会社がどんどん姿を消すのを見てきた他の事業主は、彼らから学習して、ほとんど元手のかからない仕事を選択し、在庫を長く置かないなどの努力もしてきた。つまり、借入をする余裕も必要性もないため、銀行とのご縁もとんと遠くなった。またいつか、賑やかで忙しさに溺れるようなあの幸せな日々は戻ってくるだろうかという遠い目で、このデフレ不況からどうやって抜けだしたらいいのか、このところずっと考えていた。

今年、日銀はやっと量的緩和に着手した。インフレ率の目標も、やっと1%に言及した。あまり期待感はなかったが、それでも踏み切ったことを評価しないでもなかった。が、どうだろう、その効果とは?一体いつになったら円高デフレ不況は解消されるのだろうか、とぼーっと、またしても考えていた。

これだけ仕事がなく、フル稼働できない会社も多くなる中、従業員に支払う給与は会社経営者の身を切っているような状況だ。仕事さえあればまた、どんどん意欲が湧いて、新しい仕事への着眼点も出てきそうな気持ちだけはある。ああ、でも、日銀がどれほどお金を市中銀行に貸しても、市中銀行の顧客が借り入れしないとなると、受け取り手数料としての収入もない。どこもかしこも冷えきっているんだった。

こんな事を呟きながらここ数日は気が重かった。が、日銀にはお金が有り余っているはずだ。折角の日銀の取り組みを無駄にはしたくない。どうすればいいのか?答えは簡単だった。こちらをご覧あれ「国会の壮絶な茶番の陰で繰り広げられている対決」。

前半は、一昨日のあのうんざりするような衆院の悪改の話であるが、英紙ファイナンシャル・タイムズの当然といえば当然の指摘が輝いて見えた。そこに、次のようなコメントがついている。

重要なのは、なんかよくわからない謎の「一体改革」よりも、女性の労働環境を整備し、企業投資ができる環境が必要だということ。消費税は消費低迷として打撃を与えることになるから、これを緩和するために、カネを貯め込んだ高齢層への富裕税を強化しないといけないということ。
ごくあたりまえの提言だけど、このあたりまえが、どんだけ日本の現状から乖離しているかというあたりで、くらくらしてくる
消費税はいずれ上げなくてはならないのはわかる。しかし、名目成長率が2%も越えないでやろうというのはむちゃくちゃだし、消費を活性化させる施策がなんらこの政府にはない。消費がなければ生産もない。

私が前段でうだうだ語った、女性の職場進出の話と企業投資が盛り込まれているではないか!これだ!!

そのくらくらから早急に脱却するにはどうしたらいいのか?答えは書いていないが、答えを自分が導き出す事はできる。また、FTが挙げている三点についてはどうだろうか。

女性が働きやすい場を作るとは、子持ちのヤンママには、子どもを預けて安心できる保育面の完備がまず上がる。設備投資のために借入を促すには(銀行から借入を起こして経済に活性を持たせるため)、もの造りや輸出入の規制緩和などに真剣に取り組む議員を選出すること。例えば、JAなどの利権に惑わされること無くTPP問題に取り組むなどだ。高齢層に媚を売って得票に走ったりしない利権の絡んでいない政治家を見抜く目を養うなど、自分自身のテーマでもある。そこに的を絞ればそれだけでは十分でないことも見えてくとは思う。が、二度と選択の誤ちだけは犯すまい。そうはっきり思えた。

イザッ!!

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2012-06-14

私の過失

何かが胸に支えていてすっきりしない。喉のあたりまでそれが出かかっているような。それは昨日食べた真カレイの骨じゃないの?まあ、そんな感じ。気持ちが悪くてしかたがないので少し書いてみようと思う。

この気持ちの悪さを自己分析してみた。確実に、年齢は世間で一般的に言われている「ババア」なんだけど、心はそうでもない。ある時期は年齢に相応しく心もあって、子育てに忙しかった時期は、自分がもっと成長出来るような糊代(のりしろ)があったのを覚えている。伸縮自在のような(現在と比較すれば)元気があった。つまり、自分の評点が60点位で、成長に余裕を残していた。が、どうだろうか。生活力や忍耐、いろいろな経験をそれなり積んできた今、だったら自分に100点をあげられるかといえばそれは無理。いつか思っていた60点のまま、あまり成長の軌跡が確認できない。そして、もっと悪いのは、残りの40点を稼ごうという欲も気力も体力もない。そして、もっともっと悪いのは、気持ちは若がえるような感覚があることだろうか。

一昨日も少し書いた通り、五感は、身体の衰退とは裏腹に鋭くなってきているように感じる。音楽や自然、木々や季節の変化の「今」を自分に存分に刷り込んでおきたいという欲深さのようでもある。これはなぜかと、立ち止まって考えてみたら、これは「死」に確実に近づいていることを否定出来ない年なったということだと思う。死をいつも意識しているのではないかと思う。残る人生が少ないなどという余裕のあるものではなく、次の瞬間に死ぬかもしれない自分を思っているのだと思う。

「長いスパンで物事を見なさい」と、成長期にはよく言われたものだった。目先のことしか考えず計画性がないなどと叱られている頃はよく失敗もした。そして、計画性を持って物事をこなせるようになったのは最近のことだが、それは点数で言えば60点だ。ところが、残る40点を何とかする事に労力を費やそうという気力が起こってこないし、私にはもうそんなに時間がないのではないかと思うと、自分の趣くままに心を満たすことで豊かでありたいと願う方が強くなってきた。一時期、これは現実逃避ではないかと悩んだこともあった。でも、なぜかあまりそれに縛られずに気持ちが和らいでいった。

そして、手に入れられるものと入れられないものがある時、手に入れられないものへの諦めはなく、いつまでもそれを欲しているだけで満たされるということもわかってきた。これは若かりし頃の私ではあり得ないことだった。

41gNw rNkSL._SL210_先程、「愛という試練(中島義道)」(参照)をふと思い出して開いてみた。久しぶりにこの本に触れ、簡潔な表現の中に鋭く本質を見ぬき、それを隠すどころか、全てを暴き出すという凄まじさも相俟って、読むのが止まらなくなった。そして、妙に爽快感さえ残った。重苦しい描写だという感想を持つ人も多いと聞いているが、とんでもない。これだけ自分の本質を書き出すということは、持っているものの重さが伺えることであるし、自己開放のためにもなるのではないかとさえ思った。そして、私は自分の大切に思っている人に図らずも大きな恐怖を与えてしまったことに気づいた。中島の書いている中でそのことを思った時、もうこの姿をどこへ持って行ったら良いのやら途方に暮れた。人生の後半の生き方というものをそれなりに、私も考え直すべき時なのだと痛感した。

私に愛を教えてくれなかった、あるいはその醜さを独自のかたちで教えてくれた両親は死んでしまった。いま、ふたりは白い骨となって墓の中に並んでいる。

私の体内には愛をめぐる母と父とのおぞましい関係が鉛のように埋め込まれいる。長いあいだ、これから解放されたかった。しかし、むしろこれを糧にして生きていこうと思うようになった。これこそ、バウロの身体に突き刺さった棘のように、私に苦しいけれど豊かな世界を開示してくれ、弱さや愚かさにまみれた人間の崇高さを教えてくれ、そして何よりも私を私自身にしてくれているものなのだから・・・・・・。

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2012-06-12

道に迷わずに

この3月から、ある方の日記と並行してaicm(A COURSE IN MIRACLES)(Wikipedia)のレッスンを始めた。このことは、ここの過去のページに書いたことだけど、始めた当時からすると少しずつ、私のイエス・キリストに対する意識が変わってきているのを感じるようになった。神の存在を信じるようになったのかって?それはない。それはあり得ないこと。ここで断じてしまうのはキリスト教徒の方々に失礼申し上げるかもしれないのでいい改めると、少し理解が深まったという表現が一番近いかもしれない。そして、私は、ただの主婦。大昔に聖書を読書した程度の関わりしかなく、その私がacimを始めたのだって、単純に未知の分野に足を踏み込むというようなチャレンジ的な動機だった。

ところが、acimって私のような人向け?かと思うほど、よく組み立てられていると驚くこともある。途中何度も苦しい思いがあったけど、そういう時、イエスを信じる私であれば、心を強く持って自分の抱える苦悩に向き合い、正面からじっと見ていられたのだろうな。などと、信じない私の思いが出せるようにもなった。また、その苦難とは、その時その時の私のエゴであることだと気づかせ、そのエゴは現実のものではなく、私自身が過去の経験から創りだして幻想として再現しているものにすぎないのだと、そんな風に悟らせてくれるようだった。(この部分は、真実だと納得しているし。)そうこうしているうちに、キリスト教自体への関心が深まり始め、わからないことを調べ、理解していきたいと欲するようにもなった。

ところが、キリスト教理解を深めるには、ローマ帝国時代よりも前の2世紀くらいまでタイムスリップしないと、途中だけつまみ食いしてもダメ。学習不足の大きな穴は、継ぎ接ぎでは足りないと痛感していた。この歳で始められることは何か?と奔走し、それを考えれば考えるほど諦める気持ちが強くなってしまう。ああ、なんて浅墓だったのか。acimに足を踏み込んだことを後悔もした。が、なんとか自分に言い聞かせるようにして気持ちを切り替え、取り組みたい気持ちも嘘ではないのだからと、初心を思い出しながら焦らずにゆっくり進めている。

そんな中でも、いいこともある。例えば、先日、ギリシャ語の賛歌を引用したマーラーの「8番」について、彼が後の奥さんであるアルマへの自分の愛を告白した歌であるという解釈にたどり着いた時、acimを続けてきた自分を褒めてあげた。この曲が、ギリシャ語の賛歌であること。その賛歌をマーラーは何の目的で引用したのかなど推測を交えて調べていた時、自分が愛するアルマへの告白をイエスの愛に入れ替えて上手く曲の中に溶け込ませていることを実感した。マーラーは何とカッコウいいの!素敵!そんな風にコクられたらとろける。などと妄想し、当時の様子がどんどん浮かんできて、次を調べるのにワクワクした。いつもの癖で、自分の想像と推測を混同しないよう時々「落ち着け!」と、耳元でもう一人も私が囁いていた程楽しいひと時だった。

そうかと思うと、「瞑想」の失敗が相当私にはこたえていたせいか、「瞑想」によって邪心を追い払うなどはとてもできないと思っていた私が、「これかな」と思える瞬間に遭遇し、これかなと思う経験をしてしまったのだ。これができたのも、こちら(参照)で失敗した例を挙げていて、その原因の考察が実は、私もその手だったと共感できたからだった。かくして「瞑想の祈り」の失敗パターンに嵌る瞬間を自覚できるようになり、その瞬間にスッと無の境地というものが体感できるようになった。その嬉しさときたら、ああ、これだ!とつい飛び上がってしまったほどだった。

話しはガラッと変わるが、「瞑想の祈り」と関係しているので、このことも書いておきたいと思う。今現在エジプトでは、大統領選挙とムバラク時代の憲法改正について再び、市民が暫定政権のやり方に不満を持ち、デモなどで訴える姿を報じているようだ。まず、この選挙の争点になっているのは、ムバラク政権を支えてきた側かイスラム勢力か、エジプト国民は果たしてどちらを選択するかという点だ。国民による民主的な選挙はエジプト始まって以来で、前例もない事もあり、投開票してみない事には予想は困難のようだ。数字を読むとすれば、ムバラク政権派か軍部派、イスラム派のいずれかだが、大きな衝突を繰り返して勝ち取った昨年のムバラク打倒であったにもかかわらず、ムバラク政権側を支持する派がかなりいるらしい。

このところのエジプト情勢に関しては、また後日、触れるとして、ムバラク政権崩壊後、エジプトに10%を占めていると言われるコプト教はイスラム派のテロ攻撃に何度か遭遇している。コプト教は、ムバラクにうまく保護され、他とのバランスが取れている間は良かったが、コプト教襲撃は、ムバラクの世襲(息子の後継)を嫌う軍が仕組んだのではないかと思ったものだった。そもそも何故、エジプトにひっそりとコプト教徒が10%もいるのか?コプト教が何故、キリスト教とは呼ばれないのか?ローマ帝国がキリスト教帝国となったころ、ローマ主教座が独立・分離したまでは理解できたが、コプト教についてはその宗派は何を引き継いでいるのか、探しても皆目見つからなかった。最優的な気がかりは、今回の大統領選で政権がイスラム派に移ったとしたら、コプト教は保護されないのではないかという要らぬ心配だ。私が気にしたところでどうにもなるものではないのは百も承知だが、「砂漠の教父」達は、キリスト教の実の生みの親であるアナタシウスを師事し、のちにできたコプト教との関係から、この長い歴史がここで終わるのではないか。そんなことを思い始めてしまった。だからと言ってエジプト選挙の関心が偏るというものでもないが、私だけだろうか、こんなことを心配するのは。

そういえば、日本の政治もものすごいことになっていいる。今朝読んだ現代ビジネスの高橋洋一さんの「社会保障は「1勝1敗1分け」、では「景気条項」「歳入庁創設」「軽減税率」は?民主・自民・公明3党修正協議という「消費税増税」八百長相撲の行方を読む」(参照)のコラムは興味深かった。表記について、具体的に考察を入れながら、どう決着がつくかと結んでいる。その議論はさて置きと言いたいが、置くどころか、本当は野田総理は「決める政治」なんてやってはならないと一喝している。これ読んで、あ、そうだったねって、すぐさま頷いた。考察や議論に夢中になるとつい忘れがちなことは、「そもそも」ってこと。選挙公約で増税などを盛り込んだら絶対に国民から支持を得られることはないのは、大平さんの時で学習済み。そして、「大型間接税をやらない」と公約して衆参ダブル選挙に大勝した後300議席を確保するや否や「売上税導入増税」をやったのは中曽根さんだった。

野田総理は、民意に反して「決める」のはおかしい、ノダ。野田総理がやってもいい事は、民主党がマニフェストに当初掲げた事だけなノダ。どうしてかというと、野田総理は民主党の代表選に勝利したというだけで、民意を得たものでないからだ。

この迷える羊を探し出して、こっちに誰かが連れて来てくれるだろうか。

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