「ACIM」を始めてみて、最近思っていることなど
このところしばらくここに書いていない。これにはちょっと理由があるが、しばらくそれは伏せておきたい。で、あえて書こうと思ったのは、ちょっとした気持ちの整理といったところ。それには、最近毎日行なっている「A Course in Miracles(奇跡の講座)」、通称「ACIM」のレッスンを始めたことで、今まであまり触れなかった心の領域に気づき始めたような気がして変化が見られるからだ。
このACIMは、私自身、キリスト教徒でもないし神の存在などはまったく信じていない無信教者でもあり、今までまったく縁がなかった書籍だ。この書籍がどんな内容か、例えば書評を読めば分かるかというと、それよりも、書かれているレッスンのとおりに毎日素直に続けてみればいいのじゃないかと最近、思うようになった。私には上手く説明はできないと思い、ネットを少し調べたこともあるが、Wikipediaのその部分を読むとなんとなくだが、いかに労を費やされて書かれた書籍かが窺える。イエスキリストから来たとされるインスピレーションを文章化したものであるなら、このレッスンを通して日々精進すれば私はどうなるのか?凄く素敵な人にでも転身出来るならそうありたいではないか。みたいな思いが正直、どこかに潜んでもいる。が、その対岸では、そんな邪神はエゴであり、自分のためにだけであってはならない、という叱咤するような心が同時に働いてしまう。これが今の私の姿。たったこれだけのことから私の生い立ちというか、育ちのすべてが見通せてしまう。そう、私は誰よりも何よりも、自分自身を許せないし愛せない。この否定的な視点からの思考は、もうひとりの私が嗜めることもなく、いつの間にか刷り込まれてしまっている。泣いても始まらないが、泣ける。なんてかわいそうな自分だろうか。自分自身のことをこれほどまでに端的に表現できたことはなかった。私の苦悩の全ては、自己愛の欠落であるとはっきり言える。実は、今まで自分自身のことをかわいそうなどと、思っても言えない私だった。
ここにも時々、苦悩した日々の徒然としてしたためたことが幾日もあった。どれほど書いても、どのように原因を探そうとしてもなかなかはっきりしなかった。
レッスン40の「I am blessed as a Son of God.」にたどり着いた時、愕然とした。
世の中には親に愛されず深い心の傷を負っている人や、親の愛の欺瞞にのたうちまわる人もいる。どうしたらいいかといえば、そこに神の愛があったのだと気がつくほかはない。そしてそれが確信できるまで、苦しみは続く。
人はこの世の愛を乗り越えるまで苦悩する。
英語の部分の意味は、神の御子として私は祝福されているという意味だろう。これに、パーンと反発する気持ちが見えた時、本当に私は愛に飢えてきたのだとつくづく思った。また、「そこに神の愛があったのだと気づくほはかない。」とは。いよいよここで観念するしかないと思えた。そして、気持ちが静まってからふと、この苦しみが夏のじりじりした暑さのように思えた。癒される瞬間とはどんな時だろうか、私は夏の暑さの中にいた。そよ風に当たって汗ばんだ額や背中が冷やされ、一瞬涼しいと感じるような、あの満ち足りた感覚のようなものを感じた時が神の愛だろうか。これが気づきと言えるか言えないか、それを誰かの判定に委ねることではなく、私が神の愛と気づけばそれが探している愛なのではないかな。であれば、至る所に神の愛を見つける事ができると、そんな風に思えたのだった。
悲しいことに、神は、そう意識している時にしか現れてはくれない。
私には、許せないことがまだまだ沢山ある。その一つ一つを挙げていくとうんざりしてくる。だから、それだけ私自身を愛せない私であり、その一つ一つを許して行くことなのだと思う。
レッスンはまだ41だ。始めた頃はやたらと自分の愚かしさが露呈したが、どうやら、それからは逃れられないのだということを思い知る段階だった。そして、これまでの私の人生で私が自分自身を救うこと無く、放置してきたツケのように返ってきた。
震災の一年後である今年、3月11日にこのレッスンが始まったことや、その理由を昨日少し知って私のこの一年はどうだっただろうかと、少し振り返った。すでに41のレッスンをクリヤーしてきたものの、"God goes with me wherever I go."とはまったく言えない私であった。冒頭に「変化がある」 と書いたが、この事に、この方法で気づいたことは大きな変化だと思う。
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コメント
私なんぞが、今回の内容にコメントするのもおこがましいのですが、このエントリを見て、昔、イタリア南部の若い女性との雑談中に、ふと「私は無神論者です」というようなことを言ったら、「あなたはエゴイストだ、それではダメだ」と憐れむかのように、真剣な形相で神の話を長々としてくれて、なんか落ち込んだことを思い出しました。
投稿: tekukami | 2012-04-21 08:22
tekukamiさん、それは熱心な教徒があなたを救わねばとおもったのでしょうね。すると、自分は如何に救いようのない人間なんだろう、と思い込むようになる経験はあります。
書物として昔、聖書を読んだことはあるし、友人にキリスト教徒もいて、全く珍しいことばかりでもないですが、とりあえず、自分を見つめなおす手助けにはなっていると、ここへ来てやっと感じられました。
投稿: godmother | 2012-04-21 09:20