「人としての一生をどう生きるべきなのか」について一考
数日前、10年ほどご無沙汰していた昔の知人から突然電話があった。彼女は教育関係の会社を経営していると言う。何のことかと思ったら、ある著名な先生の講演会の企画を私の住む長野県で進めていて、その協力を頼まれた。この講演会が人にどれほど有意義なものかどうかまったく知らないが、本当に申し訳ないけど、まったく興味がないのでお断りした。私が40歳くらいならやっていたかもしれない。自分と同じような関心をもつ親と共に談笑したり、意見を交わしたりするのをきっと求めただろう。だが、お断りをしてみて、なぜ私はこういったことに関心を持たなくなったのだろうか、と自問自答をしている自分に気づいた。
率直に言うと、皆で考えあったり議論したりする場面からかなり遠ざかっているというのはある。さらに、ブログなどを書いている理由の一つでもあるが、リアルに人に自分をわかってもらおうとしたり、人の意見に共感を覚えるだけでは世の中は何も変わらないのが虚しい。また、私が口を開けばそれこそご意見番になってしまいそうな予感もあった。この様な私は孤独とも言えないが、人付き合いの悪い人と言われてしまうのかもしれない。
私は、子どもを持つ親同士だというしがらみだけで他の親とのお付き合いはもうしたくはないと思っている。私が一番今気になているのは、自分の立ち位置かと思う。言い換えると、どう生きたらいいのかということについてだろうか。
少し前に経済小説家と言われている橘玲(たちばなあきら)氏のコレム「日本は大家族制に戻っていく? 週刊プレイボーイ連載(33)」(参照)を読んでドキッとした。経済格差の広がりの要因を簡潔に3つ挙げた上で、これからの日本の生活形態は大家族に戻っていくのではないかと疑問符を投げかけている。氏の観方が現代社会をズバリ言い当てているのかどうかはわからないが、共感するものがあり、妙に納得した。
羅列してみると、
①、社会全体の平均年齢の上昇
②、家族が小さくなってきたこと
③、仕事の二極化
これらの解消法について、最後に簡単にまとめている。
高齢化にともなう経済格差の拡大は一種の自然現象ですから、人為的に矯正する必要はありません(無理に平等にしようとすると共産主義になってしまいます)。クリエイティブクラスとマックジョブの二極化はこれからもつづくでしょうが、これは個人の問題で、だれもが経済的に成功できるユートピアはあり得ません。
それに対して、核家族化や単身化にともなう経済格差の拡大は簡単に解決できます。
成人しても実家で暮らす“パラサイト”が話題になりましたが、これはきわめて経済合理的な選択です。国家の提供する安全保障が不安定になれば、日本はまた大家族制の社会へと戻っていくのかもしれません。
①は、確かに人為的に矯正できる問題ではないと思った。その理由に中国では、1979年から一人っ子政策を導入している。少子化の面では成功していると言えそうだが、色々な問題を抱えてしまっているようだ(参照)
②は、氏のコラムのタイトルにもなっているテーマで、具体例ではパラサイトが挙げられている。ちょうど昨日のNHKで、世代間同居の実態を取り上げていた。これは、パラサイトとはかけ離れている話題と思ったが、後で関連してくるので書いておきたい。
ほんの数分間の番組の一部での紹介だった。簡単に言うと、老人と若い学生たちがそれにぞれの生活形態を侵害しないように「契約」をかわして合意のもとに同居をし、その利点などを挙げていた。映像は、その食事風景だった。これは奇遇だと思ったのは、結婚した都内に住む娘と昨日の午後、ちょうどこんな話をしたからっだった。いや、私と同居する話ではなく、義母の母親や義母の独身の弟、娘の旦那さんの独身の弟達と皆で家を建てて一緒に住もうかという話が軽く浮上しているというのだ。この話が実現性のある話かどうかは知らないが、娘の義母の父親が、つまり義祖父が昨年他界し、義祖母が寂しくなったことから、都下の持ち家を売却して資金を作り、皆で住むための家を建てると言う話まで出ているそうだ。
そう言えばと、NHKで現在放映中の朝の連続ドラマ「カーネーション」の食事風景を思い出した。
ドラマでは、食事はいつも座敷で丸座卓を囲んでワイワイガヤガヤやっている。家族が一斉に集まる場であり、情報交換や兄弟喧嘩、親子喧嘩と、ドラマの展開に合わせていろいろな場面を展開している。カーネーションのあの風景は、ドラマの進行状態を知る場面でもあり大変面白く、心も和む。なんか、こういったことにほっとするのって何だろうか。あの風景を懐かしく、羨ましいような気持ちで見ている。
先日、娘の同級生の母上とばったり会った時もこんな話を聞いた。ご長男さんが結婚して10年にもなり、それまでは別居で、同居の予定は将来に渡ってもなかったそうだが、急に子どもを連れて一家4人が出戻り、同居を始めたというのである。その理由は、賃貸マンション暮らしでは新築の費用が貯金できないからだそうだ。つまり、家賃のいらない親の持ち家に転がり込んで同居しながら貯金をするというのである。呆れたように彼女は話していたが、まんざら嫌そうでもなく、むしろ同居を楽しんでいる風であった。
自分の周囲にこの様な話が湧いて来ると、橘氏の話も現実的だと思わざるをえない。政治がダメでも市民は市民で何とか暮らしが成り立つようにしていくものだなと感心する。これは、世界の他に類を見ない日本人気質かもしれない。震災で被災さた方や福島原発事故後、住み慣れた土地から追い出されて大変不満も溜まっていることと察する。それにもかかわらず、抗議運動や暴動も起きない。皆、自分で出来ることをし、多くは望まず、あるもので慎ましやかに生きながらえている。これは、世界から賞賛を浴びてもいる日本の姿だ。
ここで先ほど橘氏が表現していた「パラサイト」という言葉に戻して考えてみた。この意味は普通は、成人後も親と同居し、生活を親に依存している独身者の意味で使われているが、この現象をこんな風に観ている。
成人しても実家で暮らす“パラサイト”が話題になりましたが、これはきわめて経済合理的な選択です。国家の提供する安全保障が不安定になれば、日本はまた大家族制の社会へと戻っていくのかもしれません。
講演会のお手伝いなどは私の柄ではないが、関心が向きもしないというのは、自分自身に人との関わりもなく、子どもたちが家を出て行くと老後の事を気にかけるくらいが関の山で、社会との接点がないからではないかと思う。普通に考えてもこれは当たり前で、常考でしょと思う。が、初めてこのように実感したという気がする。だから、なんとなく自分の立ち位置が怪しくなってきたのではないだろうか。かといって、橘氏の言う「③」に関しては自分にはもうチャンスはないと思う。これから手に職を付けるでもないだろう。
今まで中途半端なことばかりやってきて、社会的に自分が果たせる役割で役立つスキルなんてものは持ち合わせていない。が、対人関係があると、自分で自分を活かそうとしないまでも人が自分を使ってくれる。それが、その場の人になることであり、社会参加というものだ。これは、生きがいを実感できる事に通じる入り方だと思う。
さて、そのような場とは?自分次第だとよく言われることだが、いまひとつ、しっくりとこないな。
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コメント
これを読んで、国債が破綻しようが、中国や韓国に領土を奪われようと、日本の生き方、行き方があることに気づかされます。明治、大正、までいかなくとも、敗戦時に戻ればいいのですね。もう一度、戦後をやり直せばいいのですから。一度経験しているのだから、もう少しましに戦後から復興できるかも。でも、そのためには、その失敗を知る、人付き合いの悪そうな、ご意見番、日本だけでなく世界の事情にぶれない軸をもって説明する、こうるさい人が必要でしょう。そのような人が、民衆芸術的な料理を伝える人であればなおさらでしょう。その人が次の世代のそのような人を地域で一人でもよいから育てていくことで、きっと、より良い戦後を作り直せると思うのですが。
投稿: kamiteku | 2012-02-05 00:11
kamitekuさん、戦後の日本のようには戻らないとは思いますが、料理を手作りする人は増えたかに思う部分はあります。察するところ、一緒に食べるという団欒が戻ってきているのかもしれません。核家族して忙しい親の傍で孤食化してしまった子どもたちも寂しかっただろうと感じます。そういう暮らしが戻ってくることは喜ばしいことだと思っています。
投稿: godmother | 2012-02-05 04:32