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2012年2月

2012-02-22

元少年に示された「死刑」判決-光市母子殺害事件

2月20日、最高裁で死刑判決が確定した山口県光市母子殺害事件のことを再び思い出していた。13年前にこの事件が起きた頃は、少年犯罪が多発し、ニュースでは多くが報じられる度に憤りを覚えたものだった。かと言って、今回の「死刑」判決を喜ばしく思っているかといえばそうではない。むしろ、この判決に反発するような気持ちや疑問が湧いた。判決を知ったこの日からずっと悶々とした気持ちが滞り、一体何だというのか、この気持がまったく見えないでいた。まず、最初にこの判決を知ったNHKニュース(参照)で気になる部分を取り上げてみた。


平成11年、山口県光市で主婦の本村弥生さん(当時23)と生後11か月だった娘の夕夏ちゃんが殺害された事件では、当時18歳だった大月(旧姓福田)孝行被告(30)が殺人などの罪に問われました。
1審と2審の判決は無期懲役でしたが、最高裁判所が審理のやり直しを命じたのを受けて、4年前、広島高等裁判所が死刑を言い渡し、被告側が上告していました。
20日の判決で、最高裁判所第1小法廷の金築誠志裁判長は、「何ら落ち度のない被害者の命を奪った冷酷、残虐で非人間的な犯行で、遺族の処罰感情はしゅん烈を極めている」と指摘しました。
そのうえで、「被告が犯行当時少年で、更生の可能性もないとは言えないことなど酌むべき事情を十分考慮しても刑事責任はあまりにも重大で、死刑を是認せざるをえない」と述べ、被告側の上告を退けました。
これによって、死刑が確定することになりました。
中略

少年事件は厳罰化の傾向

少年の事件では、少年の立ち直りの可能性を考慮して成人とは異なる取り扱いをすることになっていますが、厳罰化の傾向が強まっています。

少年が事件を起こしても成人に比べて未熟だとされる少年の立ち直りの可能性を考慮して、18歳未満には死刑を言い渡すことができないなど法律上、成人とは異なる取り扱いをすることになっています。

20日の最高裁の判決は、少年であっても凶悪な事件を起こした責任や結果を重視するという姿勢を改めて示したもので、少年による重大事件の厳罰化の傾向がさらに強まりそうです。

私は何に反発しているのか。判決そのもだろうか、それとも、終身刑では不服とする遺族である夫の訴えや、それをごもっともだとする世論に対してだろうか。または、裁判官の意見が真っ二つに分かれていたにも関わらず、死刑判決を出した経緯に対して議論が不充分だったと言いたいのだろうか。近年の凶悪犯罪に対する量刑の厳しさに対する反発だろうか。いや、反発とも違う。気持ちが沈んでしまってそのやり場に困り、諦めざるを得ないような残念な気持ちだろうか。そんな中、極東ブログ「光市母子殺害事件元少年の死刑」(参照)でこの判決について考察されたエントリーを読み、疑問を感じていた核のような部分に触れてやっと思いが氷解し始めた。

20日の最高裁第一小法廷では「何ら落ち度のない被害者の命を奪った冷酷・残虐で非人間的な犯行。心からの反省もうかがえず、遺族の被害感情も厳しい」「刑事責任はあまりにも重大で、死刑を是認せざるをえない」とされたが、この言明に日本国民の支持が暗黙裡に織り込まれていると見てよい。残忍非道なら死刑を是認せざるを得ないとする現在の日本国民の意思に、最高裁が法を調節したものだろう。今後こうした刑事事件は裁判員裁判の対象となり、日本国民の死刑についての意思が露出してくるが、それに先回りして調節したものでもあるだろう。

この意味は、私が裁判員にいつか選出された時、そして、この様な事件に遭遇したとしたら、他の裁判員と激論を交わすということなのだと腹に落ちた。

私は、今回の判決には反対意見で、と言うよりも、裁判官の間で議論になったと報じられた元になった「被告の育った環境などを考えると精神的な成熟度が相当低い可能性があり、死刑を避ける必要があるかどうか、さらに審理が必要だ」という意見に賛成だ。と、断言できるだけの確固とした理屈が並べられたらどれほどすっきりするかと思うが、裁判の成り行きを理路整然と言い切るのは非常に難しい。

きっかけとなったのは、1審と2審の判決は無期懲役だったが、最高裁判所が審理のやり直しを命じたのを受けて、4年前、広島高等裁判所で死刑が言い渡された時だった。18歳1カ月の未成年者であろうと「死刑を例外とはしない」と踏み込んだ判決に驚きを隠せない感情もあったが、これは、後世の裁判に影響する極めて重い判断だったと思った。1968年の「永山基準」だけでなく、結果の重大性や遺族の被害感情を重視した司法の姿勢がうかがえたからだ。

また、当時の世論から、「自分の家族がこんな事件に巻き込まれたら」と被害者側の感情を想像し、その遺族に同情が寄せられたのも理解できる。が、死刑か否かの二者択一を迫るような「量刑判断」は、それ自体がカプセルのような狭い場所に社会の世論全体が封じ込められてしまったような状況だったとも感じた。無期懲役判決が出るやいなやメディアからは、被告や裁判所に対する激しい反論や異論がカプセルから飛び出した。今回の最高裁が出した死刑判決は、これら世論の影響を少なからず受けたのではないだろうか。率直に言うと、日本社会が応報感情に左右され、それが集団的圧力となって裁判に影響するのであれば、裁判が、「人民裁判」になるとも言えなくはない。

整理してみると、私の悶々とした感情の元は、どうやらこのことだったようだ。裁判員としての私が議論を交わす相手とは、とてつもなく「大きな集団的圧力」になるのだろう。そう覚悟したものだった。

この裁判の件から私事で二つ、悔やまれることがり、書き添えておきたい。

娘が中学三年になったばかりの春、8年間の山村暮から地元中学へ戻ってきた直後の事だった。別のクラスの女子に嫌がらせを言われ、イジメを受けていると言うのである。担任に状況を確認してみたところ、担任はその様子を知らないようだった。だが、家庭的な問題を抱えている生徒で、度々この様なことが起きている背景もあり、おそらく、娘には非のないことでイジメが存在しているのだと思う、と話していた。

この話を聞いて、何度となく繰り返されたこの生徒のイジメ行動は、今までの教師の指導が指導になっていないからだと感じた私は、同じように生徒を指導することに異論を話した。が、担任は、「どんな事情が家庭にあろうと、悪いことは悪いですからここは叱って正します」と、言い切った。ここで意見でもしようものなら越権行為ともなりうるるため口を噤んだが、気になっていたのは、同じ事を繰り返す生徒の行為の背景を学校が知っているにも関わらず、同じような指導して「生徒指導」として終わりにしている点だった。この生徒の悲しく寂しい気持ちが、他者へのイジメという歪んだ形となって表出していたのは、満たされない気持ちを何とかしたいというサインであり叫びではなかっただろうか。光市の事件の加害者である青年は、若妻に襲いかかったのではなく、赤ちゃんを抱いている母の姿に自分の親を重ねて抱いて欲しかったと供述したのを知り、自殺して戻ってこない母を慕って寂しかった気持ちを誰にも受け止めてもらえなかったことが窺える。これらは、子どもたちが未成年の内に傍らの大人が気づいてやるべきではなかったのかと悔やまれてならない。

もう一点は、息子が他校の中学生に暴行を受けた時だったが、被害届を出した後、警察をとおして生徒の親が謝罪したいと申し出てきた際、息子の学校長は、彼の家には家庭的な問題があり、「札付きの生徒」で問題ばかり起こしている。暴行という小さな事件程度で懲りさせる方が良い」という判断を私に知らせてきた。つまり、被害届を引っ込めないほうが良いのだと暗にほのめかしてきた。相手の親と面会もしない内に私は、校長の方針に沿ったが、ずっと後味の悪い思いが残っている。理由は、警察に突き出す前に、親として、相手の親にもっとお節介を焼いておけばよかったという後悔だ。思春期でもあり、家庭(夫婦)の不和の問題は、ひいては子どもが被る問題だと思うからだ。

親の抱える問題のしわ寄せを余儀なく受けている子どもらは、親には文句一つ訴えてくることはない。全て自分が受け身となるしか選択肢はない。その理由は、親の不和を心配し、その親に嫌われまいと生きてゆくしか無いからだ。子どもに親を選ぶ権利など無いからだ。その満たされない気持ちを押し殺して我慢しながら生きた挙句、「悪意」からの犯行だったと、私は言い切れない。

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2012-02-16

欧米諸国とイスラム諸国の自由と民主化の奇妙な共通点

「民主主義」ってどういうことだったのかなと、最近とても不思議な思いで考えている。Wikipediaによるとこうある(参照)。

民主制(みんしゅせい、デモクラシー、英語: democracy)とは、国家や集団の権力者が構成員の全員であり、その意思決定は構成員の合意により行う体制政体を指す。日本語では特に政体を指す場合は民主政(みんしゅせい)とも訳される。日本語の広義の「民主主義(みんしゅしゅぎ)」は上記を指すが、狭義ではこの民主制・民主政を他の制度より重んじる主義(思想・運動)を言う「=民主制主義」。

この「民主主義」の定義に、現在世界で起こっている様々な情勢が当てはまらず、私の脳内に混乱が起こっている。中東の「アラブの春」に見る市民の民主化運動が勃発してから早、一年を過ぎて、今頃ふとこんな疑問を持った。これを機に、少し整理しておこうと思う。

まず、この様なことに疑問を持ったきっかけは、核を保有するイランに対して、米を中心に各国が経済制裁を与えると決議してからだった。イランは、核拡散防止条約に違反するとして米を中心に、中国とロシアを除く先進各国から制裁を受けている。この制裁によってイランを報復させ、核保有を放棄させたいからだが、イランは、核保有を正当としてこれに強く抗議している。また同時に、イスラエルとは反目が続き、年内にイスラエルがイランに先制攻撃を仕掛ける可能性なども関係者などでは論じられているようだ。また先日のイランの核科学者殺害に関しては、イスラエルが加担し、アメリカがそれを知りながら黙認しているということなどについて極東ブログ「イランを巡る不明瞭な状況」(参照)で真相を知った。この様なひりひりした関係の根底には、1979年の「イラン・イスラム革命」から続く、アメリカを含めた激しい敵対関係があり、イランの核拡散が懸念されている。

革命後のイランは、イスラエルがイスラムの土地を占領しているとしてイスラエルを国家として認めていないと言うのが根底にあるからだと言える。また、この両者の戦争を腫れ物のように欧米諸国が扱う理由として、イランの国教はシーア派イスラームであり、中東各国にシーア派が散らばっていることがその主な理由である。イスラエルとイランが戦争を催せば、昨年2月から続いているバーレーンでの、シーア派住民による反政府運動は収るどころではなくなる。少数派でありながら実権を握り続けてきたスンニ派は、唯一皇太子が改革の必要性を認めたくらいで、具体策に乏しい。

また、サウジ王政がバーレーンの動きに神経を尖らす理由に、石油産出地帯である東部を中心にシーア派が多く居住しとている点があると思う。これが少し厄介で、サウジアラビア国内のスンニ派の運動は、王政の非民主的性格を批判しているだけなのに対し、シーア派とスンニ派という宗教面から見ると、シーア派は、厳格な宗派であるワッハーブ派がサウジアラビアを取り込んでいることに反発しているため、「分離・独立」に向けて動く可能性があることだ。サウジ王政が脅威を抱くとすれば、東部地域で起きている抗議行動が、バーレーンのシーア派と連動することではないだろうか。このことは以前にも書いたが、イランとイスラエルが戦争を起こすと、中東のいたるところに居住するシーア派とスンニ派の戦いの火種になることだ。

また、イランが盟友シリアに食料品の輸入代金の名目でに780億円拠出をするというのだ(参照)。

アッザーム氏が昨年12月8日、イラン代表団のシリア訪問に関してアサド大統領らに送付した報告メールによると、イラン側はシリアから食料品などを10億ドルで輸入すると表明。また、シリアから日量15万バレルの石油を1年間輸入することを検討するとも約束した。

同月14日付のメールには「シリアとイランの中央銀行は、両国間の資金移動を容易にするため、ロシアと中国の銀行を利用することで合意した」とも書かれていた。(共同)

欧米諸国がどれほどの制裁措置をとっても、反体制を取っている中露の支援が、湯水のよ如く注がれるようだ。シリアの市民は政府の弾圧にもめげずこの一年、「民主化」を訴えてきているが、中露のシリア政府支援は、市民の弾圧を強化するための資金援助とも言える。

宗教の違いは、戦争の火種としては充分な要素だが、中東の「アラブの春」と言われているこれらの運動は、非民主的な政府に対する抵抗運動で、政権転覆を果たせば、そこには「民主化」が期待できるとしたら、欧米の民主主義国家は、その価値観でこれら中東諸国の政権交代を「民主化」と言い切ることが出来るだろうか。この疑問は、「ウオール街占拠」運動でアメリカ市民らが、グルーバル化した社会による収入格差や一部の銀行が世界金融を動かすことによる私服を肥やすための方策への不公平などを訴えるものだった。これの意味するものは、目指してきた「自由」と「グローバル民主主義」は、果たして本当に万人にとって豊かな生活を齎したのだろうかという疑問だと思う。

中東諸国の独裁と圧政に対する市民の抗議と、ウオール街に集まった市民の抗議は共に、ある意味自由を訴えるものでもあったと思う。働いて相応の収入を得、人として生きることを希求することではなかっただろうか。これは、市場原理主義の間違いを見直すきっかけともなった。

欧米の「グローバル民主主義」が市民によって問われていることや、中東諸国の反政府運動が「民主化運動」だと言えるのなら、両者の政府は何だと言えるのだろうか。言い方を変えれば、欧米諸国が中東で振りかざしている「グローバル民主主義」は、何か勘違いのようなものがあるのではないだろうか。 これは、他人ごとではない。日本は、米に追随している国だからである。私自身は、非常に居心地の悪い所にいる感じがしている。

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2012-02-09

ボルシチ -「亡命ロシア料理(ピョートル・ワイリ/アレクサンドル・ゲニス)」より

亡命ロシア料理  もう四年も前に紹介記事(参照)を読んで買った本、「亡命ロシア料理(ピョートル・ワイリ/アレクサンドル・ゲニス)」(参照)は何度読んでも面白い一冊で、先日も、ロシアの食卓では欠かせないというスープ料理を参考にしたくてページを開いた途端、引きこまれて再読してしまった。こんなことはよくあることで、繰り返している内に内容のことは殆ど覚えてしまった。料理の話だけではなく、著者の知性の高さを思わせるような話題の豊富さや、物事の深淵に触れているにも関わらず、サラっとあくまでも軽くリズミカルに話題が移っていくのが魅力である。何とも一言では言い尽くせない。料理のレシピが本文にすっかり溶けこんでしまって、どこで止めてレシピを盗もうか迷ってしまう嫌いもある。
 さて、探しもののレシピだが、日本国民的料理でもある「ボルシチ」にした。と書いてみて、そうでもないかなあ。外食をしないので私がよく分かっていないかもしれないが、本文のあとがきにも日本では、ボルシチとピロシキ、ウォッカがロシアの代表料理とまでは書いてある。本書のカバーには、ロシア料理の写真が4枚あり、その内の一枚のピンク色のスープがボルシチだ。本書では、これも貴重だと思われる、料理作業中のモノクロ写真とレシピが掲載されている。が、この部分だけみてボルシチを作るなかれ!理由は本文を読めば分かることだが、肉抜きなのである。そんなボルシチあり?と、疑ってネットのレシピを探してみても、肉抜きというのはヒットしなかった。その代わりと言っては何だが、レシピは、ブイヨンには惜しみなく野菜を使えと言い、たっぷり時間をかけている。    
 ここで曰く、

古典的ユダヤ風ブイヨンのでき上がり。風にも効くし、大して手間をかけずに素朴なグルメの喜びを味わえる。ほんのり甘いラスクを添えれば言うことなし。正に、何世代ものユダヤ人が、世界中に散らばりながらも、このようなブイヨンを飲んで育ったのだ。

 筆者の生い立ちや本書のタイトルに、「亡命ロシア」とついている意味も興味深い。ロシアで生まれ育ったユダヤ系ロシア人である彼らが、アメリカに「亡命」ではなく「移住」した経緯から、自分たちの料理を懐かしんで作っていたようだ。この辺の感性は私の心を大いに擽ってくれる。現代は、料理は「速くて、安くて、簡単」な上に美味しい料理が人気のようだが、それとは別に、料理には郷愁もあり、懐かしい記憶と一緒にその頃の時代の香りがしてくるものだ。そして、時間や手間もたっぷりかかるが、私もこの年になって、和食に惚れ惚れしている。作っていても食べても、なんだかほっとする。昔ながらの手法による和食と似ていると思うのは、そこだ。   
 おっと、話をボルシチに戻して、今回、私が作ったボルシチには牛すじが入っている。これはブイヨンを取った残りかす。これが食卓にメインとして別料理で上がるというのが一石二鳥料理の裏技でもある。そうか、古いユダヤの料理もそうだったのかと思うと嬉しくなった。貧しさの中の贅沢というか、私の作る出しがらしの昆布と鰹節のふりかけとそっくりじゃないかな。    
 牛すじというのは、牛を解体する時に取り除かれる筋の部分で、この筋は肉と骨のジョイント部分や、内蔵を腹内で固定させるための重要な役割を果たしている。軟骨のような硬い部分もあるが、成分としての魅力はコラーゲンだろうか。ゼラチン質のため、煮凝りができる。こういった部位だからか、脂や赤身の肉も付随していてアクが沢山出る。必ず下茹で処理をして一度茹でこぼし、筋を水で洗い流して再度茹でる。この時の茹で汁がさっぱりして美味しいが、ここに本書で紹介しているブイヨンレシピ(野菜をふんだんに使用する)を展開してみた。    
 まず、下茹でで出るアクを掬うこと30分を含めて、水から茹で始めて約一時間で茹でこぼし、肉を適当な大きさに切ってから水から再び茹で始める。ここで、人参とセロリ、パセリの茎、玉ねぎ、ブラックペッパーホール、のブイヨンを加えて強火で茹で始める。これだけのことだが、美味しいブイヨンを作るコツは二つだけだと本書でも言及されている。

第一に、ごくごく弱火で煮ること。第二に、根菜をけちらないこと。

いや、これだけ?いや、ちょっと付け足してあるが、かなり重要ではないかと思われる。   
使用する鶏肉はオンドリの方が脂がたくさん出るからだと書いてある。つまり、脂が乗っていて美味しいと言う意味だろう。また、沸騰したらこまめにアクを掬いとること。出来れば鍋の淵についたのもキッチンペーパーなどで拭きとると良いとある。濁りのない澄んだ綺麗なスープとはそういうものである(`・ω・´)ゞビシッ!! で、今回は、鶏肉を牛すじに変更したというわけ。また、牛すじは柔らかくなるまで茹で上げ、たっぷり時間をかけた。理由は、ボルシチの色に染まりやすくするためで、他に理由はない。また、その効果の程があったか?と聞かれると、そうかもしれないと言う程度。どちらにしても、柔らかくなるまで煮こむのは同じ事だ。下準備の時間が、午前中になかったのでスロークッカーは使用しなかったが、二度目の「茹で」を任せれば6時間で「弱」の設定で良いと思う。

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 本書のボルシチとは若干材料の点で違うが、行程はほぼ忠実に作った。野菜の旨味をどのようにこのブイヨンとコラボさせるのか、それがとても重要な部分だと思った。    
行程は、大きく分けて4行程ある。

  まず、①、前段に挙げたような方法でブイヨンを取る。 

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②、ボルシチの色目になる野菜炒めを作る。

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③、ブイヨンにキャベツとジャガイモを加えたスープ下地を煮立てる。

④、③に②を加えて煮込む。

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 とあるが、ここで本書の写真にこんな注訳があるのを忘れずに付記しておきたい。 

注=スープストックはあらゆる料理に使用するが、採り方も多様で一口にレシピをというわけに行かない。家庭では市販の固形もしくは顆粒のブイヨンで事は足れりとしたい。

 さあ、この選択はご自由にということで、私のレシピは以下に添えておくとしましょう。   
 

材料(6リットル鍋    

  • 牛すじ・・二度茹で後300g
  • 下茹で後のビーツ(赤蕪)・・200g
  • 人参・・150g
  • 玉ねぎ・・中2個
  • ジャガイモ・・300g
  • カットトマト・・200g
  • にんにく・・3片
  • 塩・・大さじ1
  • 胡椒・・適宜
  • レモン・・半個
  • ブイヨン・・4リットル
  • サワークリーム・・一人分大さじ1(ない場合は、キッチンペーパーを小ザルに敷いてヨーグルトをのせ、一晩冷蔵庫で水抜きする。
  • バター・・大さじ1

下ごしらえ         
 牛すじ、にんじん、玉ねぎ、ビーツはそれぞれ細長く切りそろえ、ジャガイモは皮を剥いて1.5cmのサイコロに切る。キャベツは、筋を切り取りってジャガイモと同じ大きさに切り、葉は、重ねて荒目の千切りにし、にんにくは包丁で潰しておく。 

   
作り方      

  1. 大きなフライパンを中火にかけ、バターを溶かして玉ねぎ、にんじん、カットトマト、ビーツの順に炒め、しんなりしたところへ塩と胡椒をしてレモン汁とブイヨン1カップを加えるて赤い汁を作る。     大鍋に残りのブイヨンを入れてジャガイモとキャベツ、牛すじを加えて強火で煮る。注):カットトマトの汁気がなくなるまで炒めてトマトのカドを取る。    
  2.    
  3. 煮立ってきたらにんにくを加え、20分ほど煮る。注):本文では4~5時間とあるがキャベツがクタクタに煮上がったらよしとする。    
  4.    
  5. 3に1を加えて味を整え、温めたスープ皿についで中央にサワークリームを乗せてパセリを振る♪

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2012-02-04

「人としての一生をどう生きるべきなのか」について一考

 数日前、10年ほどご無沙汰していた昔の知人から突然電話があった。彼女は教育関係の会社を経営していると言う。何のことかと思ったら、ある著名な先生の講演会の企画を私の住む長野県で進めていて、その協力を頼まれた。この講演会が人にどれほど有意義なものかどうかまったく知らないが、本当に申し訳ないけど、まったく興味がないのでお断りした。私が40歳くらいならやっていたかもしれない。自分と同じような関心をもつ親と共に談笑したり、意見を交わしたりするのをきっと求めただろう。だが、お断りをしてみて、なぜ私はこういったことに関心を持たなくなったのだろうか、と自問自答をしている自分に気づいた。   
 率直に言うと、皆で考えあったり議論したりする場面からかなり遠ざかっているというのはある。さらに、ブログなどを書いている理由の一つでもあるが、リアルに人に自分をわかってもらおうとしたり、人の意見に共感を覚えるだけでは世の中は何も変わらないのが虚しい。また、私が口を開けばそれこそご意見番になってしまいそうな予感もあった。この様な私は孤独とも言えないが、人付き合いの悪い人と言われてしまうのかもしれない。    
 私は、子どもを持つ親同士だというしがらみだけで他の親とのお付き合いはもうしたくはないと思っている。私が一番今気になているのは、自分の立ち位置かと思う。言い換えると、どう生きたらいいのかということについてだろうか。    
 少し前に経済小説家と言われている橘玲(たちばなあきら)氏のコレム「日本は大家族制に戻っていく? 週刊プレイボーイ連載(33)」(参照)を読んでドキッとした。経済格差の広がりの要因を簡潔に3つ挙げた上で、これからの日本の生活形態は大家族に戻っていくのではないかと疑問符を投げかけている。氏の観方が現代社会をズバリ言い当てているのかどうかはわからないが、共感するものがあり、妙に納得した。    
 羅列してみると、    

 ①、社会全体の平均年齢の上昇    
 ②、家族が小さくなってきたこと    
 ③、仕事の二極化    

 これらの解消法について、最後に簡単にまとめている。   

 高齢化にともなう経済格差の拡大は一種の自然現象ですから、人為的に矯正する必要はありません(無理に平等にしようとすると共産主義になってしまいます)。クリエイティブクラスとマックジョブの二極化はこれからもつづくでしょうが、これは個人の問題で、だれもが経済的に成功できるユートピアはあり得ません。 
 それに対して、核家族化や単身化にともなう経済格差の拡大は簡単に解決できます。    
 成人しても実家で暮らす“パラサイト”が話題になりましたが、これはきわめて経済合理的な選択です。国家の提供する安全保障が不安定になれば、日本はまた大家族制の社会へと戻っていくのかもしれません。

 ①は、確かに人為的に矯正できる問題ではないと思った。その理由に中国では、1979年から一人っ子政策を導入している。少子化の面では成功していると言えそうだが、色々な問題を抱えてしまっているようだ(参照)   
 ②は、氏のコラムのタイトルにもなっているテーマで、具体例ではパラサイトが挙げられている。ちょうど昨日のNHKで、世代間同居の実態を取り上げていた。これは、パラサイトとはかけ離れている話題と思ったが、後で関連してくるので書いておきたい。   
 ほんの数分間の番組の一部での紹介だった。簡単に言うと、老人と若い学生たちがそれにぞれの生活形態を侵害しないように「契約」をかわして合意のもとに同居をし、その利点などを挙げていた。映像は、その食事風景だった。これは奇遇だと思ったのは、結婚した都内に住む娘と昨日の午後、ちょうどこんな話をしたからっだった。いや、私と同居する話ではなく、義母の母親や義母の独身の弟、娘の旦那さんの独身の弟達と皆で家を建てて一緒に住もうかという話が軽く浮上しているというのだ。この話が実現性のある話かどうかは知らないが、娘の義母の父親が、つまり義祖父が昨年他界し、義祖母が寂しくなったことから、都下の持ち家を売却して資金を作り、皆で住むための家を建てると言う話まで出ているそうだ。   
 そう言えばと、NHKで現在放映中の朝の連続ドラマ「カーネーション」の食事風景を思い出した。   
 ドラマでは、食事はいつも座敷で丸座卓を囲んでワイワイガヤガヤやっている。家族が一斉に集まる場であり、情報交換や兄弟喧嘩、親子喧嘩と、ドラマの展開に合わせていろいろな場面を展開している。カーネーションのあの風景は、ドラマの進行状態を知る場面でもあり大変面白く、心も和む。なんか、こういったことにほっとするのって何だろうか。あの風景を懐かしく、羨ましいような気持ちで見ている。   
 先日、娘の同級生の母上とばったり会った時もこんな話を聞いた。ご長男さんが結婚して10年にもなり、それまでは別居で、同居の予定は将来に渡ってもなかったそうだが、急に子どもを連れて一家4人が出戻り、同居を始めたというのである。その理由は、賃貸マンション暮らしでは新築の費用が貯金できないからだそうだ。つまり、家賃のいらない親の持ち家に転がり込んで同居しながら貯金をするというのである。呆れたように彼女は話していたが、まんざら嫌そうでもなく、むしろ同居を楽しんでいる風であった。   
 自分の周囲にこの様な話が湧いて来ると、橘氏の話も現実的だと思わざるをえない。政治がダメでも市民は市民で何とか暮らしが成り立つようにしていくものだなと感心する。これは、世界の他に類を見ない日本人気質かもしれない。震災で被災さた方や福島原発事故後、住み慣れた土地から追い出されて大変不満も溜まっていることと察する。それにもかかわらず、抗議運動や暴動も起きない。皆、自分で出来ることをし、多くは望まず、あるもので慎ましやかに生きながらえている。これは、世界から賞賛を浴びてもいる日本の姿だ。   
 ここで先ほど橘氏が表現していた「パラサイト」という言葉に戻して考えてみた。この意味は普通は、成人後も親と同居し、生活を親に依存している独身者の意味で使われているが、この現象をこんな風に観ている。    

 成人しても実家で暮らす“パラサイト”が話題になりましたが、これはきわめて経済合理的な選択です。国家の提供する安全保障が不安定になれば、日本はまた大家族制の社会へと戻っていくのかもしれません。

 講演会のお手伝いなどは私の柄ではないが、関心が向きもしないというのは、自分自身に人との関わりもなく、子どもたちが家を出て行くと老後の事を気にかけるくらいが関の山で、社会との接点がないからではないかと思う。普通に考えてもこれは当たり前で、常考でしょと思う。が、初めてこのように実感したという気がする。だから、なんとなく自分の立ち位置が怪しくなってきたのではないだろうか。かといって、橘氏の言う「③」に関しては自分にはもうチャンスはないと思う。これから手に職を付けるでもないだろう。   
 今まで中途半端なことばかりやってきて、社会的に自分が果たせる役割で役立つスキルなんてものは持ち合わせていない。が、対人関係があると、自分で自分を活かそうとしないまでも人が自分を使ってくれる。それが、その場の人になることであり、社会参加というものだ。これは、生きがいを実感できる事に通じる入り方だと思う。   
 さて、そのような場とは?自分次第だとよく言われることだが、いまひとつ、しっくりとこないな。   

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2012-02-02

私はなぜ急に男をフッたのか

   
       

In the morning waken to the sound of weeping       
Someone else should weep for me                   
Now it's over                                       
Lover, let me be                                               

Love is blind                                       
Love is your caress                                 
Love is tenderness and momentary pain             
Love is blind      

  

  ふー。いつ聴いてもジャニス・イアンの歌、すごいね。最近、Yooutubeから掘り出してきて時々感慨にふけりながら聴いている曲で、この曲を聞くといろいろなことを思い出す。かと言って痛くも痒くもない、どちらかと言うともう恋愛の話はどうでもいい。どうでもいいのに書こうと思ったのは、男を急にフッたのかについては今まで書いていなかったから。話が長くなるので、どういう付き合い方をしていたかは割愛するとして、別れた後、自分の気持ちがとても尾を引いて、実は、この人物と別れてから何年も人を好きにならなかった。そういうことを避けていたという方が正しいかな。後から誰かを好きになったかという話もここでは割愛して。で、フッた側は言うなれば自分で腹を決め、相手に別れを言い渡した側なので、もっとサバサバしていてもよさそうなものだと自分でも思うが、そうではなかった。   
  今日は、書こうと決めた折角の機会なので、魚を捌く時に使う壷抜きという方法を使って肛門からそっくり内蔵をえぐり出してみようかと思う。    
  事実上、フッたのは私なんだろうけど、相手よりも私の方が気持ちを長く引きずったのではないかと思った。これは、別れた後の彼の行動を知ったのも理由だった。だからフラれた男がいつまでもgzgzしている状態と大して変わらないと思う。    
  この時、相手を嫌いになったからではなかった。5年も付き合っていると、そうそう簡単に嫌いになるなんて逆に難しい。嫌だと思う性格や嫌な癖のようなものはあっても、それを含めて嫌いになったという事ではなかった。もっと長い目で見て、つまり結婚とかをある目標点に置いて見た時、彼には変えてもらいたい部分があった。結婚するからには諸々の条件が整わないとできないが、その一部に私の我慢の限界を超えると核心していたことがあり、当時の私は、これはお互いが子どもであるがゆえ折り合いがつかなくなっているだけで、封筒の合わせ目の糊代のような、時間と共に成長すればぴったりくっつき合うだろうくらいに思っていた。しばらく離れて、一人という条件でもう一度自分と相手を見直す時間が欲しいと提案した。だから、お互いを縛り合っている関係を真っさらな状態に戻すことに意味があった。これは、いつまでとか期限つきでは考えられないのではないかと思い、そういう意味での別れだった。    
  相手に考え直してもらいたい点を伝えて別れを告げたが、必ずいつか縒りが戻ると信じていたというのが私の場合いの「急にフッた」時の気持ちだった。この時の私は、「いつまでも待っているね」と、どれほど言いたかったしれない。この別れが本当の現実になるくらいなら、今別れを告げる必要はないのじゃないか。だったら、このまま結婚に不安や不満があることに蓋をしておけばよろしい。と、何度も同じような考えが去来して苦しかった。でも、これを全て吹っ切って彼に告げることができた理由は、真剣にダメ押しをお互いにした上で結婚したかった、というのが本音だった。だから、彼が私を選ぶかどうかの賭けでもあった。    
男はなぜ急に女にフラれるのか?(姫野友美)  彼に直して欲しい部分については、それが原因で、結婚しても長くは続かないだろうと直感していた。それが現実になるのが怖かった。その部分については、先日、極東ブログの紹介記事で知った「男はなぜ急に女にフラれるのか?(姫野友美)」(参照)にも書いてあった。ひとことで言うと、やっぱり自尊心のなせる技ということかな。ここまでズバリ言われちゃうと気持よく認めざるをえないけど、自己から発し自己に返るのが我執の苦しみと言うか。マイッタ。    
  私の、相手に対して直してもらいという要望は、フェアーだと思っていた。どう見ても相手の我儘ぶりの方が激しいからだ。独占欲が強く、私の自由を奪う人であった。彼の性格のせいで私の結婚は不幸になるんじゃないかと、そんな不安や怯えを私にもたらしたのは彼。と、ばっかり思っていた。問題はどちらが正しいかではなく、我執の問題。私に我執がなく、相手の意に反しない人物であれば、何の「我慢」も自分には存在しないはず(実際、こんな世界は知らないが、仏教の教えではそう。もちろん修行もしないといけない)。      
  この「我慢」は、一体何のためだったんだろうか。これがズシンときて、書きながら考えるのがしんどくなった。ここでもう少し抉ってみた。      
  一般的に使われている「我慢」とは、気持ちを抑制して耐えるという意味だが、夫婦が「性格の不一致で離婚する」時も恋愛の破局も、心情の質的には同じじゃないかな?「我慢」が心のある領域を超えると直感した時、それが別れを決意する動機につながることはあると思う。    
  結婚には離婚が、恋愛関係には別れがあるが、恋愛経験の数は離婚の回数よりも多い。これって普通でしょ。結婚は「契約」であるし、極端な話、愛情のない婚姻関係も「契約」の名のもとに存在している。恋愛関係には「契約」のような縛りはないが、関係を解消するとなると心情的にはかなりマイル(私の場合はマイッタ)。子どもをもうけて家族という単位であればなおのこと、離婚は本当にエネルギーを消耗する。結婚すれば、それを長く持続させるためには、お互いが「我慢」という抑制の領域を広げることが重要。そして、それが何かの拍子に恨み辛みに変わらず、自分自身の成長なのだと客観視出来ればきっと長く続くはず。「我慢」の領域を広げて相手に沿うというか、折れるような気持ちになれないと長くは続かない。    
  話を恋愛相手との別れに戻すと、結局、この「我慢領域」を広げる作業までに至らなかったということかな。この人とやっていきたいという気持ちがあっても、丸ごとオッケーじゃなく、私が許容できない性格の一部に難癖をつけ、自分の許容範囲内で収まって欲しいという欲望を剥き出しにしただけだった。私はこのままで良いという「自尊心」や「相手の性格が悪い」という考えを守る我執が強かったのだなと思う。    
  別れの後、私が長く落ち込んで引きずった理由まで言ってもいいだろうか。つでに言っちゃうと、相手は私と別れて悩むとか落ち込むとかの隙もなく直ぐに彼女を作っちゃったんだよね。私が時間を置こうと意図したものは何も伝わらなかったみたい。というか、彼は、寂しさを紛らわしたかったようだ。直ぐに結婚して子どももいたようだけど、漏れ聞き知るところによると、「性格の不一致」で離婚したそうだ。

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