対岸の火事にはできないオスロの一人テロ事件
はてな時代から数えて、今日までで2145件のブログをほぼ毎日書き続けてきた。Yahooブログをこれに加算すると、2400件くらいのエントリーになる。途中、何度か止めようと考えたことがあった。書くことの苦しさというのも何度か味わった。きっと、これかも味わうのではないかと思うが、だからと言って、続けることに美徳を感じているわけでも苦行とも思っていない。書きたい事をこつこつ書いて継続させてきただけである。子どもなら親が褒めて、そこに馬鹿がつくと、将来この子は大成するかもと思いそうなことかもしれない。他にも何か続けてきていることはないかと思いを巡らすと、あるある。いっぱいあるじゃないか。
まず、LongSlowDistance(LSD)という走法によるジョギングから始まった今のウォーキングだが、2008年5月から始めた。マイナス10℃以下を記録する冬の諏訪の明け方、つま先や指先に痺れを覚えるような寒さに負けず、毎朝、時に夕方、約8kmの道のりを一人走り続けてきた。おー、それを言ったら、何年間お弁当をつくり続けてきたことか。「継続は力なり」、「石の上にも三年」などという言葉をどこか、胸の隅に置いてひたむきにやってきた。
友人は、godmotherは凄いね。一つのことをこつこつと続ける力ってなかなかあるものじゃない。尊敬するとまで言われている。また、息子も、お母さんの凄さって僕はできないけど見習いたいところだ」とブログを見て驚いている。
言われている自分はというと、そんなに凄いこととは感じていないし、ただ、やりたいことを諦めないで続けてきているだけのことである。そこに他の何か違う要素などを考え入れる必要も余地もない。これは私の持つ力であり、私の側から見れば、他が持っていることが私にはないこともある、というのと同じである。あまり他人との比較を思ったこともない。だが、どうだろう、ある一言に冷や汗が出て、これらの賛美されるような継続力が狂気ともなるという考察を知った。ちゃぶ台返しのように、全てひっくり返った。他者の価値観とは裏腹な継続力への自分の評価の違いが、オスロ事件後の人の見方にもつながることが分かった。
極東ブログ「オスロ事件の印象」(参照)を読んで、私、ヤバイかもと思った。自分のことを話す前に、あの事件を起こした容疑者の事を思い起こしてみたい。
この容疑者は、最初から、精神障害を持つ人物に違いないと思っていた。それよりも当初、なんじゃこれは、と気味の悪さもあった。が、ネットのニュースで垣間見るに、政治がらみの犯行などと報じ始めたときは、このような異常行動を起こす人物を政治犯という知能犯の部類に入れるのか、という疑問があった。それこそが異常な感覚だと気味悪さを感じた。世の中は狂っている。何故、このような事件を引き起こす人格が形成されるのか、考えつかなかった。そんな今、今頃になって極東ブログではこの犯人像をこんな風に浮き上がらせている。
本人談では、数世紀にわたるイスラム教徒によるヨーロッパへの植民地化を終わらせるための革命を準備した先制攻撃だというのだが、一歩一歩念入りに作り上げちゃった幻想なのではないのか。
なんというのか、地味に着実にポジティブに事業計画を遂行していくことで、せっせと自己幻想がきちんと成長していって、どっかで引き返せなくなっていったのではないかという印象が私にはある。方向性が違っていたら、鳥かなんかを神風特攻隊に模したスマートフォン向けゲーム会社でも作って成功していたかもしれない、といったような。
BBCには容疑者の学生時代の知人の談話があった(参照)。学生時代の友人は、容疑者の写真を見てご当人だと認めつつも、そんなやつではなかったんだがなあという話になっている。
長きに渡って自己幻想を構築してきたことが、「数世紀にわたるイスラム教徒によるヨーロッパへの植民地化を終わらせるための革命を準備した先制攻撃」につながって犯行に及んだということだが、事情聴取では確か、正義の騎士を感じさせるような内容だった。彼にしてみれば、社会の悪を撲滅するための救世主気取りである。
また、「どっかで引き返せなくなっていった」という精神状態の時、自分の幻想空間にいるときと実社会での自分を上手く使い分けているかに思われるが、それが周囲がこのような凶悪な行動を起こす人物という疑いを持たなかった理由だとすると、コントロールできた彼は、正常ではないかとも思った。二つの世界間での彼を想像したところで、現実には理解しがたい類の人間性だ。そして、言われているように、鳥をパチンコで飛ばして様々な対象物を破壊して遊ぶiPhoneアプリの「AngryBirds」(参照)の発想とテロ事件に、どこか紙一重的なものを感じる。彼にいたずら心があって、遊びに夢中になる童心のようなものがあれば、その集中力と攻撃し続ける継続力が、弾に模した鳥を勇ましく飛ばすゲームを発案する人物にも成りえたと思う。とても納得できる。
そして、こう続く。
容疑者の個人史などもいろいろ研究もされるのだろうが、なんとなくの印象だが、大事件を説明する、詰めの決定的な要素というのは出てこないのではないか。
「継続は力なり」、赤尾の豆単に載っていた言葉ではなかったと思うが、凡庸な人間でも継続していけば力がつくといった意味だった。今回の容疑者を見ていると、凡庸な人間が、小さな継続していくと大きな狂気になるのではないかとも思える。
むしろ狂気というのを見るなら、地味にこつこつ1500ページのコピペ集を作ってしまうという律儀さにあるかもしれない。それをいうなら、きちんとブログを何年も書き続けている人間なんていうのも、ご同輩。
ここで、ハッと鳥肌が立った。冒頭部分のブログに関する私の振り返りも、ここを読んでから直ぐだった。私ももしかすると、ブログを継続してきた者として、何かの夢に酔った状態だから続けてこられたのかも知れないと疑ってみた。見ようによっては偉業ではなく「狂気」ともいえる。以前、そう思っていたことを思い出した。
ブログは先にも書いたとおり、2145件に至っている。この犯人の1500ページ(参照)の比ではない。つまり、あの容疑者以上に継続力のある私であり、「同輩」である。きゃー。でも、疑ってみる価値はあると思い、冷静に少し考えてみた。
継続力くらいが取り得のような凡人と、世界を恐怖に陥れるような殺人行動をする人格との境目は何だろう。どういった心理状態なのだろうか。例えば、分裂症というのもある。心の何かがカチッと引っ掛かって外れなくなったような状態というか。そんな経験はないが、分裂症が発症する前の状態で、知人がいた。
融通の利かない性格で、こうと決めたらそうならないと許せない潔癖さがあった。仕事は真面目だが要領は悪く、つまらないことに挫けてしまう。気持ちが落ち込みやすく、劣等感が常に強く、有名大学出身者にコンプレックスを持つが、表面的には崇拝的な態度で接する。仕事でミスを犯したことが自分で許せず、職を転々と変わるが、同じ理由で長続きしない。ある時、彼が一番心を許せる人物に一言言われた。彼はすっかり馬鹿にされたと思い込み数日、飲まず食わずのような状態となり、それは丁度、鬱のような状態だった。真っ暗な部屋の隅に丸まって座る姿は、何者かに襲われないように防備していたらしい。そして、安全な場所に避難すると、嘘をついて彼を精神科の医者に見てもらったところ、強いショックから自分の人格を否定し、それから逃避する結果、精神分裂症を発症していると診断された。
彼は現在50歳近い年齢だが、その時以来母親とべったりになり、幼児返りしたようだ。買い物へ行く母親を助けるということが彼を救っているらしい。育った環境から社会環境に漕ぎ出した時、ギャップをうまく受け止められなかったようで、順応できないまま心が壊れてしまったのだと思った。精神分裂症という病気は、外因性というよりは、遺伝的な要素が大きく発症に影響するらしいと聞いたが、1000人に7~8例という数字は、胃潰瘍にかかる率くらいだという。つまり、特に珍しい病気ではない。が、発症前の彼を知っているだけに、その変貌ぶりには驚いた。これも決して他人事とも思えない。
オスロの事件で心に深く残ったのは、7月27日の終風日報(参照)編集後記(参照)のメッセージだった。
▼ガーディアンの社説(参照)に、私たちはノルウェーの民主主義が抱える問題よりも、容疑者の精神異常性を考えたほうがいいという主張があった。今回の容疑者は裁判が不能なほどの精神疾患ではなさそうだが、事件を政治問題に還元して理解したことにするのも現代社会の精神の歪みであろう。
これは、現代社会を痛烈に言い当てていると思った。2145件もブログを難なく続けてきた私は、オスロ事件の犯人とどこが違うというのか、同じような精神障害にかかる可能性は充分あると思った。人から見ればある意味能力と評価されることが、実は、極普通の人がやってのけるような凡庸さからも疑ってみる要素がある事を知った。また、身近にそういう人物がいた時、私はその人物とどう接するのか、と、問われた。
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