極東ブログ紹介の「勝ち馬に乗る」を読んでみようかと思ったことについて
Twitterのフォロワーが発刊している「Paper.li」、という名前のネット新聞に最近目を通している。作っている人は大勢いると思うが、私が読むのは、フォローしている人の発刊時間が朝と夕方の部だけにしている。一日中ネットに張り付いているわけでもないし、自分自身が調べたい時事問題や、政治経済情勢もあるため、間欠して朝夕にしている。
Twitterにアカウントを持っていて、フォローしている人がいれば、誰でも簡単に作ることができそう。以前、私も自分用に作ってもいいかなと思ったことがあるが、他の人の関心時に自分が乗ってみるのもよいし、実際、自分では拾わないような記事に遭遇することが楽しくなってきている。Twitter活用もいろいろあるものだと感心している。
さて、先日、と言っても12日の「finalventの日記」で、「終風日報編集後記 「生き延びさせる力」」(参照)が気になった。このコーナーは、「finalventの日記」に新設された彼の「終風日報」(Paper.li)の編集後記を記録しているコーナーで、何故ここに毎日載せるのかと思ったら、Paper.liではこの部分は更新されてゆくようになっているため、日替わりランチ式にその日の分は、翌日には残らない仕組みらしい。だから、過去のものを見るときは、日記を当たるしかない。と言うわけで、「生き延びさせる力」について、じっくり考えてしまった。まあ、その部分を読んでみて欲しい。
トップニュースを開くとほとんど空っぽのページだった。それでもグロ写真が掲載されているよりはマシだと苦笑する。Paper.liの編集能力は低い。▼アルファブロガーでもありパールというコンピューター言語の推進者でもある小飼弾さんのエントリー「生き延びさせる力」がトップに並んでいたので読んでみた。残念ながら私には皆目わからない。引用されている内田樹先生のエントリーも同様。ブログの世界では話題のテーマだったのだろうかと妙な気がしていたら、2005年のエントリーであることに気がついた。▼お題である「生き延びさせる力」は結果的に生き延びてきた人にしてみるとひと言ふた言、言ってみたい気もする。私など説教を垂れそうである。だが、2005年の「生き延びさせる力」と2011年の「生き延びさせる力」は同じだろうか。▼垂れてみよう、私には同じとは思えないからだ。なによりそれは「力」といったものではないように思えるからだ。今のこの日本の状況で自分を結果的に生き延びさせているのは、小さな楽しみである。半径1メートルの生活と言ってもいい。それでよいのか、そこの圏内ですら苦しむ人をどうするのかと問われるなら、わからないとしか言えない。だが、私は私の小さい世界の楽しみをよすがに生きている。
「垂れてみよう」に続く部分は実によく分かる。問題は、前段の内田先生(参照)と小飼弾さんのリンク先のエントリー(参照)に書いてある話だ。これは、批判でも批難でもなく、私には書いてあることが理解できなかった。また、何の話しかもわからなった。
特に、小飼弾さんの、「支援を行なえるほどの「他者」は強者」とか「奪う」と言っているのは何が強い人で、何を奪う話なのかわからない。戦闘力が強く、国土を奪う話だとしたら、そんな事をしなくても生き延びられるし、とも思う。主観をいれずに努力して読んだが、全く理解できなかった。ただ、気になったのは、自分が受身で相手の事を判定することはできない。タイトルの「延びさせる」は、相手をどうするかと言う問題とも違うらしいが、自分の力量にかかっているようなニュアンスは受けた。でも、そういう位置でもない気がする。混乱してしまったのはこの辺り。ま、テーマが絞れる以前で引っ掛かっているので、この先をどう話すでもないなと諦めていた。
そして、finalvent氏がコメントしているように「力」によって人が生きるといったものもないように思うと言うあたりに大いに共感した。ところが、これで終わらなかった。
![]() 勝ち馬に乗る! やりたいことより稼げること アル ライズ/ジャック トラウト |
極東ブログ「勝ち馬に乗る」(参照)が2008年3月のエントリーで紹介されている。ひっそりと、だた楽しげに紹介されているではないか。なんとなく、「力」があればこそ勝ち抜けると叱咤されるような気配のする書籍だ。読んでみないとわからないが、紹介の一部にこうある。
邦題のサブタイトルはどうでもいい。問題は書題"Horse Sense"だが、サブタイトルからすると、馬のセンスということで、馬を見分ける感性という感じがするが、これは「常識」ということ。デカルトの良識とはぜんぜん違って、日本語の「常識」に近い。が、バカでもわかるんじゃねーのそんなことというニュアンスがあると思う。オリジナルが出版されたのは1990年。古い。本書は一応ビジネス書でかつ「成功願望者向け書籍」なので成功者の事例がこてこて出てくるのだが、あれから何年経ったでしょみたいに年月が経つとタイムマシンで結末を見るように見るわけで、クルル曹長の笑みのように巧まざる失笑が楽しめるというオツなところがある、ま、どうでもいいですが。成功本っていうのはあれだね、個別事例を書くと十年もすると痛いもんだな、と。
でも本書がいくら失笑で楽しめても、お楽しみはそこにあるのではない。どこにあるのかは読めよなんだが、ありげにハンガリー狂詩曲的に紹介してみよう。
とあるが、凡そ私には関係ねぇみたいな書籍だ。でも、「読めよ」と、勧めている。
小飼さんらの話がとんと理解できないがために、「成功願望者向け書籍」を読むとわかるのかもしれないというのは飛躍しすぎだろうか。しかも1990年と言ったら、バブルが弾けてもその自覚のない日本人がごろごろいる時代の頃と重なる。そのちょっと前の、ぎらぎらした人たちについて行けなかった頃の私を思い出す。だが、紹介されているのは2008年だ。政権交代する前の年のことか。あまり関係ないけど、ターニングポイントでもある。
そういえば、今頃思い出した。この本をスルーした理由は、今更感が邪魔したのだった。
うーむ、読んでみよう。
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