2011-08-03

中国高速鉄道事故について言葉を控えたい心情について

 今日は、富士山の噴火を予測している学者さんの話でもと思っていたが、止めて、極東ブログ「中国高速鉄道事故についてさらに気の向かない言及」(参照)についてに急遽変更した。と、言っても、このテーマで書かれたエントリーを通して発露したネット上の言論の話でもある。私がネット界隈で何を言っても、大した影響力があるわけでもないし、だからと言って意図的にもの申すわけでもない。ただ、対話原則が失われてしまった実態を目の当たりにして、書かずにいられない気持ちになった。
 何が起きたかは、リンク先のエントリーを読んでもらうと分かると思う。そのついでにというか、できればエントリーの趣旨として中国という国の複雑な仕組みと、中国中央政権が鉄道省に対して現在どのような視点を向けているかを掴み取ると良いと思う。
 まず、極東ブログに挙がったコメントについて思うことから。
 ブログを畑に例えると、野生の生き物である鹿やハクビシン、狸などに荒らされる畑もあればそうでない畑もある。山から人里に下りてくるこれらの動物は、食べ物欲しさで畑の作物を食い荒らすので、比較的山の上の方の畑から順に下の畑へと移動する。トマトやにんじん、枝豆など美味しそうに色づいて食べ頃になるとタッチの差で食べられてしまう。これを防御する方法といえば、畑をネットで囲むことだろうか。そればかりか、鳥まで飛んできてトマトなどは突いて食べてしまうので、畑をすっぽり覆うしかない。そうやって自分達の食べ物を守るしかなくなる。また、山の下の方の畑は、上の畑のそういった被害が防波堤のようになって、結果、守れているとも言える。気の毒なようだが、平地にまでこれらの動物が下りてくるまでもなく、上の畑で腹を満たして住処へ戻るようだ。
 丁度、極東ブログで今回挙がった人達は、畑を荒らすこれらの無法者と同じで、結論からいうと、どうにもならない。それでも今回は、内容を補足するためのエントリーを掲げられたため、まだ、丁寧な扱いを受けている方だと思う。他所ではそんな話はまず聞かない。ゴミとして掃いて捨てられ、そのゴミ箱からも捨てられる部類である。また、他の読者にとっては、その恩恵にあずかる事でもある。さらに詳しく中国について知る楽しみを味わえるだけ儲けたということかもしれない。だから、それだけでは黙っていられないというのが私の心情だ。
 ちょっと推論させてもらう。
 内容が多少書いてあるコメントを読んでみたところ、読解力と対話に対する原則意識の欠乏が根底にあって、他人の文章が自分の読解能力を超えた時点で、さらに読解力を伸ばそうなどの崇高本能はない。そのため、書き手の文章力を揶揄したり蔑むことで苛立ちをバランスしている、という状態だろうか。さらに、ここに人としての良心というか、節操があれば、対話の原則というものが意識として働き、攻撃的にはならないのではないだろうかと思う。
 根底に、人が書いたものを理解しようなどという意識はないのかもしれない。では、何故読むのかと聞いてみたい。不満や揶揄を個人的に向ける暇があったら、自分の読解力や理解力と同等レベルの文章なりを探して読めばよいことではないのか。自分がつまずいて転んだことを石のせいにしても始まらない。そういう簡単な理屈が理解できないようだ。そうやって傷ついているのは自分だということが分からないらしい。
 見方を変えて、転んだ側になって思えば、自分で起き上がらなくてはならないということを学習するしかない。だから、下手な手を出すことはその人のためにならない。それがせめてもの愛情であるが、そこまでの付き合いもない赤の他人である。通りすがりのチンピラか何かのために労を尽くしても、所詮は伝わるものではないと思う。スマートな道を選ぶなら、これらに動じずに、我が道を進む力に転化することだろうか。
 中国の高速鉄道事故について言及するのが気が向かない理由は、人の心情というものを持ち合わせていたら分かることだろうと思う。あれだけの痛ましい事故を起こして悲しみの中にいる人々を横目に、中国政府叩きを誰もがしたいかと言えば、したくないことだ。とは言え、その中国について毎日社説があまりにも阿呆な文脈で書き連ねていた(参照)ことから、中国に対して失礼極まりない事を苦に書き添えたものであったと思う。引用されたワシントンポストの表現も辛辣であるが、引用せざるを得ない理由は、中国鉄道省の海外売込みについて、該当地がどのように見ているかをそのまま伝える必要からである。他国の傍観的な感想を書いても意味がない事くらい分からないものだろうか。ましてや、日本の新聞社も同様に、日本社会で生き残るためには、政府を敵に回せないジレンマもあるため、書けないという理由もあって、おかしな記事を書くことも良くある。無理をして書くと変な文脈になるのもそのためであることも無きにしも非ずである。これについては、「中国の高速鉄道事故について雑感」(参照 )で、既に触れた。中国政府が、「新華社」を政府御用達にしている理由に近いものがあるのは分かるだろうと思う。それくらい分かって欲しい。
 先のエントリーは、そういった背景の中で、ブロガーとしての善意の表れであり、だから、しゃしゃり出て書くようなものではないことぐらい理解せよと言いたい。
 私も理解されないで昔は苦しんだ。今でも表現に関して、思い悩まない日はないくらいだ。自分の文章や言葉使いのせいにして、その原因を全て取り込み、苦しみ悩んだ。その努力は無駄でもなかったし、努力した分程度、自分なりに成長したとは思った。それで本来は終わりにすべきだが、昨今のネット上の対話は崩壊寸前だと思うし、まともに相手にして自分の修行をするととは別問題で、進まないこともある。もっと私が完璧なら、人の原因は一切考えないものだが、であるなら、そこまで関わるのもどうかと一部の人との関わりで思ったこともある。傷口は、ぱっくり開いたままである。
 どこかでぷっつり切られるのがオチという事を、30代のネット暦の長い人から感じた事もあった。いつもの語り口になるのだけど、私の世代以外にはどうも違和感を感じる。これはネット上の話だが、難しいものだと思う。

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