広島の今日、今まで触れなかったことについて書いてみた
今日は、66年前、広島が原爆を受けた日である。菅さんのスピーチの草案が出来上がったとNHKニュースで昨日聞き、どうしてそんなことがニュースなんだろうと、不思議な気がした。何か、変な前触れというか。そしてぼんやりと、菅さんの脱原発依存志向と原爆・戦争反対の日本が、下手をすると絶妙な取り合わせに使われるのではないかという懸念が過ぎった。村上春樹氏と同じ世代だし、それはありうるなあ。村上春樹氏のイタリアでのスピーチでは堂々と、原発反対と被爆国日本を抱き合わせたもので、私は驚いた(参照)。あの時、この世代は、原爆の恐ろしさを原発事故に重ねて見てしまうのだと認識したのを思い出した。そして、昨日、もう一つ思いがけない情報を知り、これを書くきっかけとなった。今まで私は、原爆を受けた日に原爆について書くことは避けていたが、吉本隆明氏の言葉に勇気付けられた。
1950年代半ばにアメリカ政府は、日本に核配備を企てていたという公文書が米国立公文書館で見つかり、日米史研究家の新原昭治氏が関連文書を入手した事を報じていた(参照)。最初、戦争で負けた日本に対して勝利国であるアメリカが何を企ててもおかしくない話だと思った程度だったが、第五福竜丸事件のことが気になっていた。今日のこの日にまるでタイミングを合わせたようなニュースだが、アメリカの核実験の際に日本の漁船が受けたもう一つの被爆事故として記録的に書いておくことにした。
ニュースは短く、「米、日本への核配備狙う 50年代、公文書に明記」と題して伝えている。
米政府が、日本への原子力技術協力に乗り出した1950年代半ば、原子力の平和利用促進によって日本国民の反核感情を和らげた上で、最終的には日本本土への核兵器配備にこぎ着ける政策を立案していたことが4日、米公文書から分かった。
米公文書は、当面は核兵器配備に触れずに「平和利用」を強調することで、米核戦略に対する被爆国の「心理的な障壁」を打破できると指摘。米国の原子力協力は54年3月の第五福竜丸事件を機に本格化したが、米側に「日本への核配備」という隠れた思惑があった実態が浮かび上がった。
日米史研究家の新原昭治氏が米国立公文書館で関連文書を入手した。
アメリカが「日本への核配備」を企てた背景に、1949年、勝てると思った中国の内戦で国民党が破れ、中華人民協和国が成立した。続いて朝鮮戦争が勃発し、国連軍として介入したがやっとの思いで引き分けとなった。アメリカにしてみれば、多くの犠牲を払って日本と戦争した意味が問われ、おそらく日本に再軍備を願っていたからだと思う。
後に、戦犯として捕えていた戦士を獄中から引き出し、警察予備隊(参照)を作って後に自衛隊へと改組した。この警察予備隊の編成も1948年中に日本を反共の防波堤として冷戦体制に組み込む政策に転換し、軍事化と民主主義の制限という占領の第2期が始まった。NHKの朝の連続ドラマ「おひさま」で、丁度、敗戦後のこの時期を背景にして話しが展開している。GHQによって敗戦国日本が様変わりする中、国民学校での教育方針もどんどん変革されつつある時だった。
法学館憲法研究所というホームページで、当時のアメリカの計画を紹介している(参照)。
沖縄を基地として確保したアメリカは当初、非武装となった日本は連合国の後身である国連によって安全を保障されることが望ましいと考えていました。しかし、占領の長期化に伴うアメリカの負担軽減の声の増大と冷戦の激化の中、朝鮮戦争の勃発は第2期の政策を一気に具体化させました。朝鮮戦争勃発の翌月の50年7月、マッカーサーは日本政府に対して7万5000人の警察予備隊の結成を指令しました。憲法9条に違反する実質的な軍隊が、改憲を経ずにポツダム政令によって創設されたことは注目されます。
この状況の背景にある日本国憲法は、もともとアメリカの指導の下に制定され、アメリカにとって都合よく作られたというのもあるが、憲法9条によって非武装とした日本を戦力にするため、朝鮮戦争では警察予備隊という名目で実質軍隊を編成したのもアメリカであった。さらに軍事化するための根回しとして、自由や民主主義、平和主義を求める言論を公共空間から排除する政策と一体となって進めながら、核軍備体制を整えていった。さらにこう続く。
この年、地方公共団体では初めてそれまでは届出制だったデモを許可制とする東京都公安条例が公布・施行されました。朝鮮戦争の開始と前後して、新聞700紙が休刊させられ、公共部門、次いで民間部門の報道業界、映画業界などからおびただしい数の人々が魔女狩り的に解雇されました(レッド・パージ)。
![]() 核爆発災害―そのとき何が起こるのか 高田 純 |
そして、1954年(昭和29年)3月1日午前3時50分、静岡県焼津漁港の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」(乗組員23名)は、太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁付近で、米国の水爆実験による灰を浴び、被爆した。
この実験の背景は、米国が1945年世界初の原爆の実用化に成功し、二種類の原爆を日本に投下したことによって米国の核独占が数年続くことになったが、ソ連が1949年に原爆を開発し、その勢いで1953年には水爆を実用化した。ここでアメリカは、ソ連に遅れまいと広島原爆の千倍の威力を誇る水爆実験を行なった。この実験で危険地帯から離れていたにも関わらず、日本の漁船第五福竜丸も被爆した。
被爆後日本への帰港コースを取る際、船長の判断でSOSは発信しなかったそうだ。その理由は、米国の飛行機や艦艇により証拠隠滅の為に撃沈や射殺、又は拉致されるという判断があり、低速5ノット(時速9キロ)で3000キロ以上も離れた日本をめざした。
被爆後2日目から乗員達の顔色が変色し、髪が抜けたり頭痛や吐き気、目まい、下痢等の症状が出たが、それでも電波を発信せず航行を続け母港の焼津港についたのは3月14日だった。被爆後2週間を経過したことになる。(核爆発災害(高田純)より)
半年後、この時の被爆が原因で死亡したと当初言われていた久保山愛吉氏の死因についてが話題になった。当時、慌てた日本の病院医師らが治療に使った大量の輸血血液による肝炎が原因だという展開になった。ここで考え直すべきは被爆の人体に対する影響で、福島原発事故では内部被爆と子どもや妊産婦への影響が今後の経過観察として課題になっている。
時代と共にアメリカの考え方も変わってきたとは言え、私が育った土地にも当時、米軍基地があり、忘れがたい経験もある。近所には、米軍兵の住む家もあった。戦後生まれなのに、こういった環境で育ったせいか、戦争が割りと身近に感じられた。そして、アメリカ人は日本に勝った強い人達ということがインプットされた。が、高校へ通う頃には、基地内のアメリカンスクールとバスケットの試合を交えるほどの交流もあった。当時、日本の自衛隊が米軍と一緒に基地内にいることが不思議でならなかったが、かつては米軍によって作られた従属的な組織だということが分かってから、戦争から抜け出せていない日本なのだと思っていた。その基地が返還された今、当時は出入りが禁断されていただけに、あの道を車で走る自分がタイムスリップしたような不思議な気持ちを味わったことがある。
ざっと書いてみたが、全く書き足りない。もっと丁寧に書きたいものだという気持ちが残ってしまったが、書くことに虚無感もある。福島原発事故後について言及するにも、それと同じような虚無感がある。そして、今日、数時間後には、広島のあの広場での式を迎えることになる。
昨日、吉本隆明氏の言葉に癒され、目頭が熱くなった。自分を癒すことはしないで来た私だったことに、はっとした。こんなに素敵な言葉がぽろっとこぼれて、Twitterのタイムラインで流れてしまうのがもったいないと思い、慌てて拾った。
「科学に後戻りはない 「全体状況が暗くても、それと自分を分けて考えることも必要だ。僕も自分なりに満足できるものを書くとか、飼い猫に好かれるといった小さな満足感で、押し寄せる絶望感をやり過ごしている」……猫。」
追記: これは、日経に寄稿された吉本氏のこのエッセイで、「finalventの日記」の8月6日、朝日新聞社説にコメント共に全文が画像としてリンク先にあった(参照)。ここでも読みたいと思い、画像だけ借りてきが(参照)、日経の有料購読記事のため、このような方法となった。
【参考文献】第五福龍丸に関して:「核爆発災害(高田純)」(参照)
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