「愛と愛のメタファーにも差がない」という意味から気付かされたこと
「10年以内に消え去るもの」の中に、電子ブックリーダーがあるという話から、「愛と愛のメタファーには差がない」という興味深い視点での話を見つけた(参照)。
これによると、電子ブックリーダーという単体の「機能」は、スマートフォンなどに吸収され、機能として十徳ナイフのように組み込まれてしまうという説に対して、電子ブックリーダーへの愛着から、「本」というメタファーを表現しているものだと述べられている。電子ブックリーダーといえば、私は持っていないがKindleなど、一時購入を検討したことがある。今のころは、iPad2がその役割を持っていて、各情報のリーダーとして重宝している。私にとっては、このiPadが電子ブックリーダーそのものだ。
先の話をこれに例えてみると、単に字が大きいとかの理由ではないが、機能上とてもよく似ているiphoneも持っている。一見、大きさが違うだけで、同じようなものを何故買ったのかという疑問を持ってもおかしくはないと思うが、私がiPad2を買った動機に、「本」というメタファーがあった。買って手にとってみた最初の感覚は、正に「物」だったかに思うが、使いこなしてゆくうちに、これが書架から取り出す本の感覚に変わって行った。この質感は、同じようなと思っていたiPhoneには、物理的に望めないのは一目瞭然でもある。
現在は、電子ブックの数を充実させる段階であると思うが、読みたい本がなんでも読めるまでは至っていない。そうは言っても、著作権の切れた昔の本ならずらっとある。たとえば、そのお蔭で漱石を最近読むようになった。今や、手元に漱石の紙の本は一冊も置いていない私だが、青空文庫では漱石の本が選び放題だ。それが、全部自分の本であるという嬉しさでもある。今思うと、新たに紙の本として買ってまで読んだかどうか、そこは何とも言い難い。
自分の書架から本を取り出す動作は、ダウンロードという方法でリーダーに取り込むという動作に変わり、読む途中しおりなどを挟んだり、わからない語句を調べるための辞書もアプリケーションとして購入したものを組み込んだ。これが、読んでいる「本」と連動するため、小脇に抱えている感覚だ。ボタン操作で指先からの伝達で辞書のその語句のページが開く。このスピーディーな一連の機械的操作は、本を書架から取り出して読む感覚そのもので、大きな書架に本を山のように持っている安心感さえある。これらが「本」を表現するメタファーとも言える。
長々と、いかに私が電子ブックリーダーの愛用者かを語ってしまったが、この感覚が、実は「愛」と表裏一体の位置関係にあると思えばこそで、リンク先の最後のこの下りにつながった途端、泣けた。
そして人間にとってメタファーと実体とはあまり差違がないものだ。愛と愛のメタファーにも差がない。それは始まりにおいて、そして終わりにおいて。
今まで「愛」を、それと似た何か同じようなものに置き換えたことも、そう仮定して考えたこともなかった。が、愛(め)でるとか愛着といった言葉に潜んでいる感覚的なものの存在を感受し、あえて言い換えれば、そこには差異がないことに気付いた。その対象が人であったり、草花であろうと、それを愛する自分の心の存在そのものに何ら変わりはない。そして、嬉しいことに、次から次に私が愛しているものが浮かび上がった。それをこっそりと温めていられることは豊かさであり、贅沢に尽きる。
ところが、この幸せな和やかで穏やかな心持ちも、実現性を少しでも持つと、そこには絶望感が現れる。この秘めた豊かさは、一瞬にして残酷な世界に変わってしまう。物の見方や捉え方によるこの変化や差異は、現実に生きる私には酷な現象である。これを上手くバランスするものは「物」ではない。始まっていしまった以上、これに終わりもないのだとやっと思えた。
自分の好き勝手な操作でそれを消して、存在しなかったことにはできないのだと思えたら、たとえそれがどんなに醜く見えようと、こっそりと温めて生きることなのだと思えた。
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