今日の掘り出し物は、極東ブログ「ニホン語、話せますか?」(マーク・ピーターセン)
エントリーに度々貼られているリンクは、辿っても辿らなくてもご自由にどうぞだと思うが、本書がどんな本であるかを知るために辿らざるを得なかった。同書評は、「「ローマの休日」でアン王女のベッドシーンが想定されている箇所について」(参照)を用いて、著者のマーク・ピーターセンの洞察力を絶賛している。その世界は、この映画が如何に奥深い大人の感性に満ち溢れているかを浮き彫りにし、映画の醍醐味をどこまでも味わうことができる。中途半端に解釈していても名作は名作なりの評価は受けるものだが、ペーターセンの紹介から、まるで読み手に対して挑戦でもしているのかというほど、その書き方に奥の深さを感じた。
![]() ニホン語、話せますか? マーク・ピーターセン |
「ローマの休日」の見所について、解釈が間違っているととんでもないよ、と言わんばかりにピーターセンの言葉を次のように紹介している。
まるでアイドルが出演するテレビドラマ程度の味気ないものになってしまう。ダルトン・トランボは、『いそしぎ』『ジョニーは戦場に行った』など、長いキャリアで数多くの傑作を書いたのだが、どれも洗練されたものばかりで、子供向けの作品は一つもないのである。
隠されたワンシーンの謎を知れば知るほど、それは何を隠しているのか、奥の深いところから人生の悲しさやはかなさ、物寂しさが見えて来るようだ。その楽しみ方は、自分自身のこれまでの人生を透かして見ることにもある。ここで、「淀長」こと、淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年)4月10日 - 1998年(平成10年)11月11日)さんは、この映画をどう見ただろうかと感想を聞きたくなった。
日曜映画劇場のナビゲーターとして長く人気があった人だ。番組の最後に「さよなら、さよなら、さよなら」とさよならを三度繰り返した声が蘇ってきた。映画好きが講じて映画評論家になったような人だったが、番組の終わりに僅か1分ほど、映画の見所を振り返ってくれる。後に水野晴郎氏が引き継いだ形になったが、こう言っては水野氏に失礼は重々承知で、淀長さんの語りの面白さと言ったら水野氏の比ではない。この最後のところが何よりも楽しみだった。自分の映画の読みと淀長さんの読みを比べて、当たり外れ、見たいなわくわく感が楽しめた。ヒッチッコックなどの後の語りは思わせぶりだった。
昔話はこれくらいにして、本書「ニホン語、話せますか?」の著者、ピーターセン氏の文学的な資質の素晴らしさは、日本人の英語の訳に違和感を持つ辺りで、日本人以上に日本語を理解しようとしているのかもしれないと思った。特にヘミングウェイの「日はまた昇る」の引用が興味深い。
"You are all a lost generation."は、従来は、「君たちはみな、失われた世代なのだ」と訳されて来たが、これが誤訳だという話だ。では何と訳すのかについては、答えは言及されていない。例え話を並べてイメージ化できるように、最大限に表現者としての努力を払っている。こういう一面から、言葉を大切にしている人物だと分かる。言葉や表現に、確たる答えなど出ない、出せないというところが原点であることの理解者なのだと思う。漱石先生に見た文学的な風合いを感じたところでもある。
よって、答えは言及されていないが、ヘミングウェイの引用の前の憲法前文に使われている“the people”の誤訳の説明と共通していることが分かる。You are all(Which is)a lost generationというように、allが主格なので関係代名詞は省略されている。これを(which is)で補うと文脈が変わって、「途方にくれている」のように読み取れる。「途方にくれて彷徨っている世代」という感じだろうか。
そういうことかぁ、と目から鱗が剥がれ落ちる。
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