菅さんの辞任発言後、噴出し始めた日本の将来設計について雑感
昨日、菅さんのシンクタンクの一人と言われている田坂広志氏(参照)のインタビュー記事を読んでいた(参照)。先日、テレビ番組に出ていて、同じような話を聞いたばかりだったが、文字になっているのを読むのとではやはり違う。
私の関心は当初、菅さんの「脱原発依存」の発言の根拠にあった。官僚に言わされているに違いとまで思っていただけに、では誰の入れ知恵か知りたいとも思っていた。原発エネルギー問題を首相一人の意見で易々と変えられるものではないとは言え、首相という立場でこの発言をしてから一番気になっていたのは、世界から日本が自ら撤退すると公言しているようなものであるということだった。これについては、菅さんが、広島の原爆記念の慰霊式典の場で発言する前日にエントリーで触れた(参照)。原爆と原発被害を同格としてまな板に乗せて「脱原発依存」としてしてしまったことに愕然とした私だった。その根拠と真相が、先のインタビュー記事でそれなりに理解できた。
世界の笑い者になったのは今に始まったことではないが、恥部をさらして恥ずかしいというよりは、核廃絶までをも宣言するということは、外交問題そのものである。当然、アメリカとの同盟を解消するのかという点が問われてしまう。つまり、日本の防衛問題に対して展望があるのかと、政策を知りたくなった。
ここで一つ、大きな点が分かった。アメリカはもう日本政府を信用していないということ。今更裏切られたと思うでもないだろうが、菅さんの発言後、特別な動きを見せなかった。説明を求められなかったのは、全く相手にされていないという意味ではないだろうか。それにもがっかりした。がっかりした話しばかりもなんなので、後で、展望のある話も含めたいと思っている。
その前に、菅さんのシンクタンクの話をまとめてみたい。
「脱原発依存」発言の根拠について
――もともと原子力を専門とされていて、いまや脱原発の中心にいるといわれているわけですが、脱原発のイメージをいつごろからおもちだったのですか。田坂 たしかに、メディアの記事では、まるで私が脱原発の急先鋒のように描かれていますが、そこには大きな誤解があります。じつは私自身は、原子力というエネルギー源は、まだ最終的な結論は出ていないと思っているのです。しかし、いずれ、最後の審判は、国民が下すことになるのでしょう。
ただ、福島での事故が起こったあとに原子力エネルギーをどう捉えるかについては、私はまず国民の素朴な気持ちを大切にするべきだと思っています。いまから申しあげる二つは、日本人のほとんどがもつ平均的な感覚でしょう。第一は、「原発は怖い。できることなら使わないでいい社会にしたい」ということ。第二は、「ただし、原発をやめることで経済や産業が打撃を受け、雇用が失われ、生活に甚だしい支障が起こるのも困る」ということです。政府は、この国民の気持ちを大切にするべきであり、それを政策として掲げるべきだというのが私の考えです。
それが、「計画的、段階的に原発に依存しない社会をめざす」というビジョンです。
ここで息を飲んだ。
これは、首相にインタビューしたのかと疑った。いや、相手は田坂氏だが、国民の気持ちを大切することを政策に掲げた結果が「脱原発依存」だということは、菅さんと同じである。つまり、田坂氏の言う誤解は、どこにもない。参与でありながら、まるっきり政治家気取りな発言といえる。おそらく、今までの姿勢がそのまま表に現れただけなんだろうと思った。
また、国民の気持ちを大切に思うから「脱原発依存」と片方で言いながら、本当は、「原子力というエネルギー源は、まだ最終的な結論は出ていないと思っている」と、思っている。であれば、議論はそこから始めるべき。前面に「脱原発依存」を出したのは、普通は、誤魔化しと解釈される。田坂氏の言う「大きな誤解」ではない。しかも、核分野に足を突っ込んだら途中で止めるわけには行かないことも承知の上の発言のようだ。
菅さんがあまりに酷いので表に出ざるを得なかったか、メディアの要望に応じた結果か知らないが、黒子は黒子に徹するべきで、菅さんの話は僕の考えですとわざわざ説明したことになる。本人はそのつもりではないと言っているが、ここまで説明してしまうともう遅い。そして、こんな裏側の話を言う時は辞任する時なら分かる。これも普通、「立つ鳥あとを濁さず」と言って、奥ゆかしさも日本の美徳というお行儀もある。これでは、今後菅さんが何を言っても、田坂の入れ知恵としか市民は思わない。菅さんがまともなら、身の程知らずといって首を切るところだと思う。もう少し頭の良い人かと期待して馬鹿を見たのは私だった。
さて、次の関心事は、塩爺の苦言「塩爺のもう一度よく聞いてください「脱原発」争点化は卑怯だ 元財務相・塩川正十郎」(参照)が痛快物。国民に正しいものの見方をして欲しいと願う気持ちと、自民党には菅首相が最後の切り札を「脱原発」路線できたら、堂々と受けて立てというメッセージを感じた。
「脱原発」発言に騙されるなという心あるメッセージと受け止めた部分に、先にも書いた点がある。
科学的な観点からも原発をやめるということは不可能なことで、稼動させないのなら安全に保存するしかない。それは、福島原発が事故で使えなくなったにもかかわらず、再臨界を起こさないように保存する難しさに取り組んでいる通りだ。その現実を見れば、「脱原発」が空論に近い言葉遊びでしかない。なにせ、止められないのだから。先の田坂氏も「結論は出せない」と言っている通りだ。それなのに、この言葉を国民の心に深く刻もうとすることは、「卑怯」極まりない選挙戦術としか思えない。
また、爺の懸念は外交問題だ。頭がまともな人物に変わればアメリカもまた対応を考え直すとは思うが、東シナ海海域で有事を起こさないことが必須であるが、北朝鮮に対して本来日本を含んだASEAN諸国と中国、米、韓国が一枚岩にならなければならないところだ。今の日本は、聾桟敷(つんぼさじき)の目に合っていて、相手にされていない。核廃絶なんぞ言う前の鳩山元首相の「Trust me」からだろうか、徐々に相手にされなくなってきている。
だから賢くなれ、と爺が言っている。
そして、昨日の大取りは、玄葉光一郎国家戦略担当相(民主党政調会長)は、ウオール・ストリート・ジャーナルのインタビューに応じて「小型炉など次世代原子炉がエネルギー戦略で一定の役割を果たすことになるかもしれないと示唆した」(参照)という情報をTwitterでもらった。
大きくは二点ある。
エネルギー政策を取りまとめる役割を担う玄葉担当相は、福島の事故を受けて国民には原発への反感があるものの、日本の産業を苦しめる電力不足解消の対策として、小型炉活用の可能性を排除すべきではないとの見解を示した。
玄葉氏は「(エネルギーシステムが)集権型から分散型になることに小型の新型炉が矛盾するかと言えば、そうでもない」と述べた。
これは画期的な提案になると思う。原発への新たな開発は科学への挑戦だ。今の原発を安全に使いながら次世代の電力供給を模索するのは、将来性のある話である。福島の事故を生かして、より安全な原発を構想する姿に若さも感じた。
そして、もう一つのメッセージは、集権型から分散型にすることだ。
管理構造が何らかの形で変わると思う。ぶっちゃけ、これを機会に東電を解体して地方自治体単位の原発管理が良いかもしれない。この話は、宇宙太陽光発電の話で書いた(参照)。そして、極東ブログで紹介されていたトリウム原発の話も魅力的だ(参照)。この話は今に始まったことではなく、さほど珍しいことでもないが、政治家の口から一番聞きたかったこの二点がまとめて昨日聞けたことは、私にとってはビッグニュースであった。ただし、一つ注文をつけさせてもらいたい部分がある。「公共料金が上昇し、ライフスタイルが変わるような結果になるとしても、国民はエネルギー政策の大幅な変更を受け入れるだろうと語った。」の部分で、「公共料金が上昇」は、そうならないないよう検討していただきたい。お願いします。
塩爺と玄葉氏がほぼ同時にこれらの話を出したわけだが、これは菅さんがはっきり辞任に言及するまで待っていたという印象を受けた。紳士的な姿勢が窺える。「若手に引きつぐ」と菅さんが発言した途端、はい僕でーすのタイミングで首相に立候補した政策のない人よりは、数倍も買う価値があると思う。ただし、言うだけなら誰でもできる。一言言わせてもらうと、それが伝統的になってしまった民主党でもある。
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