2011-07-21

「原発安全未来(古川和男)」-未来の眺望に誘われる件

 極東ブログの原発関連の二つのエントリー、「福島原発が世界に残すかもしれないひどい遺産」(参照)と「空想未来小説「サンフラワーサンクチュアリー」」(参照)から、トリウム原発に興味を持っていた。今までは名前は知っているという程度の認識だったが、ここで特に興味を持った理由は、「空想未来小説「サンフラワーサンクチュアリー」で、菅首相の孫の直子がつぶやいた言葉に何か、将来の展望のようなものが託されいるように感じ、その謎がトリウム原発にあるのではないかと薄々思っていたからだ。このような印象が残った部分は、「本当のパラダイムは」という直子のつぶやきに続いた下りだ。

50万人単位の行政区に原子炉と廃棄物処理所とデイケアを一体化させたトリニティ・システムを配備し、ネットワーク化して日本全土をカバーした。今では新清国への売り込みも始まっている。

 ここを読んだ時、日本の政治のあり方や、原発が市町村単位で管理されるような規模で実際、そのような都市が浮かび上がった。何故これほどまでに具体的な描写なのか。それはただの空想ではなく未来都市構想として画策されていて、まるでそれを予言しているような響きとして感じた。その可能性を思わずにはいられなかった。嬉しかった。そして、この部分に私の感想を次のように添えた(参照)。

 鉄腕アトム世代としては、科学技術の可能性に挑戦しないような時代って生きている気がしない、という感覚を呼び覚まされた感じがしたな。久しぶりに。この短編小説は、奇しくも筆者の夢がたっぷり潜んでいる。

 現実と空想がどこかでリンクしながら、ともすると実現性のある話だと期待感も持てるような、そんな不思議さの残る小説である。

 現実の菅首相は「脱原発依存」を先日から唱えているが、小説ではこの夏にブラックアウトを経験させている。その結果、「脱原発依存の」意向がトリウム原発に転換したと言う筋書きになっている。この小説には書いていないが、原発事故とブラックアウトの経験は、菅首相にとっては同列の恐怖としている背景がある。現実の菅首相は、原発事故に始めて遭遇して懲り懲りした結果「脱」を言い出したため、小説の中では、ブラックアウトの経験をさせてあげたかったという意図があったのだろうか。なんとなくそこが、菅さんを見抜いたところからの発想ではないかと苦笑した。
 これが、私がトリウム原発に関心を持った所以だ。
 トリウム原発がどんなものか、アウトラインだけでも知りたいと思い一昨日、ネットでトリウム原発の事を早速調べてみた。いろいろ出てきたが、トリウムの現物の画像に目を奪われた(参照)。

C98437bas       トリウム Credit: American Elements

 ざっと読んだところ、ウランとトリウムがかつて競合すした理由に核兵器利用の点があり、プルトニウムを精製できるウランに傾倒したとあった。ここでトリウム人気が失せたわけだ。そして、このページの下段へスクロールすると、二冊のトリウム関係の書籍の紹介があった。どちらを読もうか迷った。亀井敬史氏は「ガンダム世代」とある。実は私はちょっと引いてしまう世代で、どうせなら「「原発」革命」(古川和男)の方じゃないか?などなど迷った。何故か両方を読みたいとは思わなかった。

cover
原発安全革命
古川和男

 冷戦時代からの歴史があるのなら後者ではないだろうかと思いながら、finalvent氏がトリウム関連の書籍を読んでいないはずはないと思い尋ねると、近いうちに書評を書くつもりだとの回答をもらった。それがどうだろう。翌日に当たる昨日早速「[書評]原発安全革命(古川和男)」(参照)を書いてくれた。
 冒頭に、十年前に文藝春秋から出版されたとあるのは、「「原発」革命」のことだろうか。これが2001年に出版されている。先のブログで紹介されていて、私がどちらにしようか迷った書籍だ。タイトルは微妙に違うが、冒頭で言われている十年前の本は多分この書籍のことだろうと思った。
 紹介はこのように始まっている。

 山道を登っていてふっと木々の合間から、今来た道とこれから進む道が見えることがある。来し方行く末、こう辿り、こう進むのか。あるいはそう歩みたいものだと遠くを見る。書籍にもそう思わせるものが稀にある。「原発安全革命(古川和男)」(参照)はそうした一冊である。その描く未来を歩みたいものだと願わせる。

 山道に関してちょっと思うことがある。
 若い頃少し山歩きをしていた頃は、試練と言うか訓練のような歩き方をしていたものだった。それはそれでよかったとも言えるが、そういう歩き方をしている時は、引用のような景色や風景を見ないものだ。理由は、向かっている方向は登頂への歓びだからだ。向かう道は苦しい登りを経た先にある。ひたすらそれを目指して歩くのみだった。その途中で、まるで明暗を分けるような選択肢や、後ろを振り返る余裕はなかった。それが原発事業で言えば、今がその成れの果てというべきか、後は下るのみである。それは、ウランがダメだという意味ではなく、人の未来構想の如何によるものだと思う。政治家で言えば、首相が何を見据えて政策を画策するかが問われることと同じだ。
 本書がますます魅力的に思えたのは、「描く未来を歩みたいものだと願わせる」と、駆り立てられるような思いだ。今ならその意味が分かる。

cover
石橋を叩けば渡れない
西堀 栄三郎

 そしてもう一冊、「凡百の自己啓発書などよむ暇とカネがあるなら、西堀榮三郎「石橋を叩けば渡れない」(参照)をお読みなさい。」と言われている。この書籍も合わせて注文した。
 無粋なことかもしれないが、「百頁の自己啓発書など」と書かれているのをその文字通りに若い人達は読むのではないかと危惧するが、そのままで浮かぶ本もある。が、中味の薄い本の比喩だと解釈すると、どのような本を指しているかも分かると思うよ。

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