今が適期な読み物として「正法眼蔵随聞記」
![]() 正法眼蔵随聞記 水野弥穂子・校訂 |
極東ブログで「正法眼蔵随聞記」の紹介があった(参照)。道元の弟子である懐奘によって書き残された道元の教えを綴った本で、歴史は古い。昨日は、この書評を読んでいろいろな思いにふけてしまった。そして、そろそろきちんと読むと良いのだろうなと思い、水野弥穂子・校訂の「正法眼蔵随聞記」(参照)をまず注文した。
私にとっては、同年代との付き合いが一番気が楽で、その勧めであれば何でも良いと言い切れるほど安心して手が伸ばせる。育った時代を共有している点が大きなその理由であるが、取り分け「正法眼蔵随聞記」は、特別に読んでみたいと思った理由がある。書評の最後で、道元の解釈が変わったという部分だった。
道元は厳しい師でもあったし、水野は、道元自身の母との死別、師・如浄の死別への共感の洞察を保ちながらも、人間的な共感として描き、その文脈で後の、懐奘による義介への配慮を読み取ってもいる。その解読は大きなドラマでもある。
しかし、私は「正法眼蔵随聞記」に秘められた道元の配慮は、少し違うのではないかと思うようになった。道元は本当に懐奘が苦悩から救われることはただ禅にしかないと確信していただけなのではないか。禅のみのが人の苦悩を救う、その一点にのみ立つ道元には懊悩する者への優しさがあり、「正法眼蔵随聞記」はそれを伝えている。
最近の極東ブログの書評で、昔の解釈が年齢と共に変わるという点に気づく。「私は「正法眼蔵随聞記」に秘められた道元の配慮は、少し違うのではないかと思うようになった」と言うあたりに非常に興味を持った。読書の醍醐味とでもいったらよいだろうか。
先日も目から鱗が落ちるとはこのことかと感心したのは、夏目漱石の「明暗」だった。特に自分自身の歳に近い年齢で書かれていることがその魅力の一つとも言える。なんと言うか、読破後に残る余韻として、ある意味著者よりも成長した自分を感じられる。あと十年もしたら、漱石の50歳代のこの本の「愛」への感じ方もきっと変わっているだろう、と思えてくる。これがちょっとした再読への誘いとして残り、その余韻の大きさだと思う。
![]() 『正法眼蔵随聞記』の世界 水野弥穂子・校訂 |
道元は1200年に生まれて1253年、54歳で寂滅した。これだけで、道元が残した言葉を今読むに相応しいという誘いを受けたかに感じた。実は、「随聞記」を読む導入として「 『正法眼蔵随聞記』の世界: 本: 水野 弥穂子」を昔に読んでいるが、その後、日常が酷く忙しい日々になってしまい、読書どころではなくなって途切れてしまった。しかも同年で解釈が変わったと聞けば、ここで読まなければ適期を逸してしまうと思った。いつでも読めると思っていたら私、アラもうこんな歳に・・・である。
もう一つの理由は、先日も少し触れた「破綻した神キリスト」ロバート・D・アーマン(参照)は、バイブルとは思わないが、自分自身を見つめる時には手に取る本である。この本と同様に、傍において時々手にとって読みたくなるような、または、一生傍にあっても良い本ではないかと直感した。冒頭にはこうある。
「正法眼蔵随聞記」は不思議な書物である。これに魅せられた人は生涯の書物とするだろうし、私も40歳を過ぎて絶望の淵にあるとき、ただ読みうる本といえば、この本だけでもあった。この本から生きることを学びなおした。
読んだ人が感銘を受けている部分によるが、人の生き方はいろいろでも、心が冷え切ってどうにもならない時に見つけ出せないのは、自分自身のことだったりする。もがいている自分が落ち着こうとするとき、ちょっと寄り掛かることの出来る何かがほしいものである。その一つになるのではないかと、そう思った。
余談だが、思い出したことの一つに今年の初め、近江八幡への旅仕度として読んだ本がある。「近江から日本史を読み直す(今谷明)」(参照)という本だが、書評(参照)で知り、速攻で比叡山へまず登ろうという展開になった。また、近江から奈良へもと、司馬遼太郎の「街道をゆく〈24〉近江・奈良散歩」(参照)まで読んだ。
![]() 街道をゆく〈24〉 奈良・近江散歩 司馬遼太郎 |
どちらかというと、こっちがお勧めな感じだが、先の本では、「日本仏教の母山ー生源寺・比叡山延暦寺」の章でその歴史が書かれている。といっても、旅行案内的に「比叡山ケーブル延暦寺駅から北西に500mほど歩けば・・・」などと、脳内でその景色が窺え、これも小脇に抱えての本かと思っている。
旅の順路は、琵琶湖から比叡山へ登って、近江八幡へ下り、奈良へ突入。帰りは、名阪国道を一気に亀山まで走り抜け、名古屋へ着いたら「天むす」でも食べる、というルートを考えたのだった。3月に大地震が起こる前の1月の初めの話であったが、今年は実現しそうもない。が、これらの本を脇に抱え、親鸞や道元も歩いた路を歩るくのがちょっとした楽しみでもある。
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