2011-07-19

政策変更を行おうとする菅首相に一言

 7月13日菅首相の記者会見「原子力は安全性確保だけでは律するのことできない技術だ」という発言からそろそろ一週間になる。この発言自体は一国の総理大臣の発言だからして重大ではあるとは思ったが、菅さんの発言とあって、はっきり言って思い付きにも程がる程度の感想を持ち、ことさら取り上げることはなかった私だ。じっと我慢したが、この発言が、発言だけに終わることなく実行段階に入れば意味が違う。その段階にどうやら入っているらしい。
 昨日、Twitterのクリップした日経記事で具体的な組織図を添付して報じていた(参照)。この際、ここにも貼り付けておくことにしよう。

96958a9c93819481e3e5e2e2e58de3e5e2e

 ここまでくればもう、菅総理は独裁者と呼ばれてもおかしくないレベルだと思った。日本の政治構造では総理大臣であれ、政治家一人の考えで国家の政策を勝手に変えたりできない仕組みになっている。国会という場で審議されて可決されて初めて、民主的な手段による政治と言える。そこを経ずに一人の考えで採択されてはたまったものではない。黙っているわけには行かないので書きとめておくことにした。
 13日の菅さんの問題発言をはっきりしておくため、その部分だけ報じているNHKニュース「首相 原発に依存しない社会を」がよいと思った(参照)。

 菅総理大臣は、13日夕方、記者会見し、東京電力福島第一原子力発電所の事故を受け、国のエネルギー政策を抜本的に見直して、段階的に原発を廃止し、将来的には原発に依存しない社会の実現を目指す考えを示しました。
 この中で、菅総理大臣は、「3月11日の事故を経験するまでは、原発は安全性を確認しながら活用していくという立場で、政策を考え、発言してきた。しかし、大きな事故を私自身体験して、原子力事故のリスクの大きさを考えたとき、これまでの考え方では、もはや律することができない技術であると痛感した」と述べました。そのうえで、菅総理大臣は「原発に依存しない社会を目指すべきと考えるに至った。計画的、段階的に原発依存度を下げ、将来は原発がなくてもきちんとやっていける社会を実現していくことが、これからわが国が目指すべき方向だ」と述べました。

 国のエネルギー政策は戦後の自民党の政策課題として国民から承認されてきた結果であるが、政権交代時に政策転換の意向なりが公約として挙げられていたというのであれば別だが、それはなかった。3月11日の震災を受けて安全対策を講じるというのであれば話は分かるが、菅首相の会見内容は、政策転換の方向性として将来的な展望を述べたに過ぎないという受け止め方が妥当であると思った。そうでもなければ、重大な公約違反に値するような内容であるし、そこを叩いても意味がないとこの時点では思っていた。それがどうだろう。先の日経「「脱原発」 頼みは原発相と民間人 首相、経産省・官僚とは距離」は、かなり具体的な人事に取り組みだしていることを次のように報じている。

 菅直人首相が進める「脱原発依存」で、国家戦略室の民間スタッフと細野豪志原発事故担当相のチーム重用が目立ってきた。「私個人の考え」と表明した脱原発依存策の裏付けとなる夏の電力需給対策も、基本的にはこの2つの集団が手がけており、経済産業省や官僚とは距離を置く。だが首相官邸内にも「退陣表明したトップの個人的な見解に、国家組織が付き合う必要があるのか」との疑問が絶えない。

 これは冒頭の部分だが、菅首相の「個人の考え」に対する疑問視の部分だけでは指摘が足りない点と、この記事のタイトルからして菅首相の組織作りの意図のような文脈だからだろうか、二つの違うテーマを並べたような構成で少し無理がある。同じく日経で、19日付けの「」が、菅首相の立ちどころを浮き彫りにしている(参照)。

 菅直人首相は15日、自らが打ち出した「脱原発依存」の方針は「個人の考え」と強調した。退陣表明をしながら記者会見でエネルギー政策の根幹の変更につながる発言をし、短期間で位置付けをすり替える首相に、閣内や与野党のいらだちは頂点に達している。党内の中堅・若手を中心に首相の即時退陣を求める署名活動が始まるなど、退陣圧力は強まるばかりだ。

 当の首相の意識はズレている。15日、国会議員会館の民主党の全議員の事務所を菅事務所の秘書が訪れ、白い封筒を配った。中身は13日の記者会見に臨む首相のカラー写真と、記者会見での発言。表紙には「菅総理の発言 全文」とあるが、約10分の冒頭発言だけで、記者団との20分以上のやり取りに関しては「その後の質疑応答は割愛」と結んでいる。

 自らの「信念」を伝えたいと言わんばかりの振る舞いに困惑と反発が広がった。ある幹部は「首相に個人の発言はない」と指摘。民主党の羽田雄一郎参院国会対策委員長は記者会見で「私的な事だと言われると受け止めようがない」と批判した。

 羽田氏が言うように、「個人の考え」には批判も指摘も対象から外れるというのはあると思う、が、ではこの人達は、公費を使って菅さん個人の戯言を聞き、黙っていると言うのだろうか、と突っ込みたくなる。菅さんに「個人の考え」と言わせた上、そうさせているのは野党では?現に、脱原発依存を将来目標に掲げ、国家戦略局の構成まで弄っている。この一連の行為は、国民に無断で政策転換を行った線上の独裁政治ではないか?という疑問を持った。国家の根幹につながる発言をしたにもかかわらず、実際の組織編制までしておいてこれは「個人の考え」だという理路の矛盾に気づいていないとしたら呆れる話だ。野党は、この矛盾点を指摘し、それを議論の場に挙げるのが役目であり、それが民主政治ではないのだろうか。
 今回の菅さんの立ち回り方は菅さんの得意とするもので、後付の理屈は、既に起こした行動を正当化し逃げ道を作る手法だと思う。

cover
「反核」異論 (1983年)
吉本 隆明

 もう一点、菅さんの個人的な考えに対して私の個人的な考えをぶつけておきたい。
 原発事故を催した国はこれまでにチェルノブイリとスリーマイル島の例があるが、日本は世界の二番目に原発を有している国だというのに、これらの二つの事故から何を学んでどのように対策を取ってきただろうか。「絶対安全」の元に科学に蓋をしてきたのではないだろうか。日夜研究に勤しむ学者がいて研究自体は進む反面、それを発展的に原発に生かす政策を取ってこなかったのではないだろうか。政治家が学者である必要はないが、菅さんの「安全確保だけでは律することができない」という考え方は、吉本隆明氏の言葉を借りると「敗北主義的敗北(勝利可能性への階梯となりえない敗北)に陥っていく」(参照)姿だと思う。原発に対して敗北的になっては決してならない理由は、エネルギーに核を選択した時点で、これは科学への挑戦に踏み切ったことを意味し、まだ未開の部分が残っているからだ。これを「原子力事故のリスクの大きさ」を思い知ったから程度の理由で科学することから離脱するのはただのへタレ。そこからが本当の科学ではないのかな。菅さんがへタレであってもなくてもどうでも良いが、巻き沿いは勘弁して欲しい。かといってそんなに大きな事をやれと言いたいのではない。エネルギー政策の根本を議論し、日本は核というものへの向き合い方を考え直すときではないかということだと思う。この科学と言う文脈では、極東ブログの「福島原発が世界に残すかもしれないひどい遺産」(参考)の意見もある。昨日のエントリーにもリンクを貼らせてもらった記事だが、吉本氏が指摘する科学は原理を言われているため不動である。これにつての理解が根底になくては議論していることにもならない。ざっくばらんに別の角度で言うと、持論から原発の賛否に問題を帰結させる科学者は、その職を置いて発言しているようなものだと思う。と、その程度にしか受け止めないことにしている。
 私は、現存の日本の原発に科学技術の進歩を生かして、より安全な方向を模索することではないかと思っている。得体の知れないままでは、日本の原発をただの灰にしてしまうばかりか、チェルノブイリとスリーマイル島の事故当時の古い原発のまま葬るだけに終わる。いや、もっと悪い。将来の科学の芽まで摘み取ってしまうことになる。

|

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 政策変更を行おうとする菅首相に一言: