2011-06-21

カルピスにまつわる話でも

 先週末は都内某所で所用を済ませ、その後、実家で内々のパーティーがあったため一晩泊まって翌日の日曜に諏訪に戻った。東京の蒸し暑さは思ったほどではなかったが、こちらに戻ると、その差が歴然としてくる。少し疲れ気味だったが、段々楽になってきた。

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カルピス社員のとっておきレシピ

 さて、この留守中に極東ブログが面白い展開になっている。一昨日のシリコン製のプチ鍋に続き、「[書評]カルピス社員のとっておきレシピ(カルピス株式会社)」(参照)を早速注文して読んだが、びっくり仰天なレシピがユニークな社員から生れ、カルピスという土壌が出来上がった歴史は興味深かった。こんな会社が日本にもちゃんと存続していると思うと、なんだかほっとした。
 カルピスにまつわる話といえば昭和エレジーが聞こえてくるような悲しい思い出もあり、それも懐かしさとしてちょっと書いておこうかと思う。
 極東ブログのエントリーでは、カルピスの楽しみ方が満載だが、カルピスという会社が抱えている社員さんに何よりも感動したな。そして、この感動的な社員さんを抱えるカルピスという会社の偉大さを本書から感じた。一口にはなかなか言えないが、歴史のある会社であり、会社の存在意義として社会貢献が基本的にきちんとある。こういう会社を日本は生み出した、ということにも感動した。また、参照先エントリーの2006年5月28日、「初恋の味」(参照)にたっぷりその歴史が書かれていて参った。大隈重信が創業時に関わった辺りの話は「超」が二個くらいつく面白さだ。
 さらに、このエントリーの参照先である”COBS ONLINE:20世紀の発明品カタログ 第12回 「不老長寿の夢を求めて 初恋の味、カルピス」”(参照)がめちゃくちゃイイ。当時の人達が本気で不老長寿を考えるきっかけはこうだ。

国中に末世的風潮が蔓延していたこの頃、ときの元老・大隈重信は、「国力の源は臣民の健康にある」との信念のもとに、大正元年、イリア・メチニコフの大著『不老長寿論』を大日本文明協会から出版した。

いわく、人間の老化は、腸の中の廃残食物の発酵や腐敗によって有害な菌が発生することか要因で、それを抑えるためには乳酸菌飲料を摂ることが重要である……。その主張は、腸内の善玉菌と悪玉菌のバランスを保つことによって免疫カを高め、老化を抑制する、という現代医学の見解と一致し、今日の乳酸菌ブームの最初の医学的根拠となる。

 この七年後に三島海雲という人物が量産化に成功したとある。いかにももっともらしく書いていある通り、当時のお方達は本気で取り組んだのだろう。が、この後の極東ブログのコメントが、いかにも自称「科学少年」ぽくて憎めないのさ。

 「不老長寿の実践的なテクノロジーを述べた快箸」の最後のところは「怪著」とすべきかもしれない。私はポーリングとメチニコフの晩年のトチ狂いに関心をもって精力的に調べたことがあった。この分野のメチニコフ学説は単純に否定されているだろう(だって菌が腸に届かないんだし)と思ったが、日本では面白いことにヤクルトなんかでもそうだけど、メチニコフ学説のカルチャーが胃酸にも耐えてしぶとく生きていてなかなか無下に否定もできない空気が漂っていて、とか思っているうちに同じく辺境というか北欧で生き延びたメチニコフ学説がプロパイオティクスとして息吹き返してきて、なんだかわけわかんないになってきた。それはさておき。
 この時代の乳酸菌飲料の興隆はいまひとつわからないのだが、軍隊が兵士のカルシウム摂取のために牛乳を採用しようとしたけどゲリゲリな試験結果じゃんという背景があったと推測している。

 実は、未だに私の謎だが、あのヤクルトの乳酸菌て、あの飲み物の中で生きているとしても体にとってはどの程度良いのだろうか。良し悪しは別として、仕事場に堂々と売りに来るヤクルトおばさんの姿は今でもあるが、積極的に買ったことはない。あの販売姿勢にも、恐れ入り屋の鬼子母神なんだが。ヤクルトといえば、思い出す話がある。
 就学前の遊び友達の家がヤクルトの工場を経営していて、ある休みの日に遊んでいる時、彼女のお父さんが粉を溶かして飲ませてくれた。アレが私が最初に飲んだヤクルトだった。世にも不思議な飲み物だと感動したのを覚えているが、元は粉末のジュースというのがインプットされてしまった。

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 さて、ここまで来るともうテーマは何だっけ?状態。とても懐かしく楽しい出来事が回想され、しばらくその余韻に浸っていたが、その中でカルピスの水玉模様と、トレードマークになっていた黒人の絵にまつわるエピソードについて、ちょっと書いておこうかなと思う。因みに、右の画像は大正8年に発売された最初の「カルピス」(写真提供/カルピス)だそうだが、化粧箱入りで高価な感じがする。
 小学生の頃、カルピスとは切っても切れない悲しい思い出がある。あの水玉模様の包装紙は、皴加工してあるかさかさした質感の紙で、小学生の私にとってその紙は、とても特別だった。当時厳格だった母は、駄菓子やポン菓子、アイスクリーム、ジュースなどの部類は一切買い与えない人で、お小遣いなどは勿論なかった。いつも必要に応じて提案制でお金をもらっていた。アレだけ厳しい母のそういった方法をすり抜けるようなガキの浅知恵すらもなかった私は、小遣いをくすね取るようなこともしない真面目で良い子どもだった。が、そのカルピスだけはどうしても飲んでみたくて仕方がなかった。だからと言ってねだっても当然、却下されるのは分かっていた。

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 ある図工の時間に好きなものの絵を描く機会があったとき、私は、憧れのカルピスの水玉模様とトレードマークのイラストを書きたいと思った。そこで苦労したのが、水玉のあの青い色が出せなかったことと、実際、じっと見たわけでもないトレードマークの黒人の男の子の絵が上手く書けず、結局何も書けなかった。放課後、先生に呼び出されてその理由を詰問されても、自分の惨めな思いを泣きながら話すのが忍びなくてとうとう黙っていた。別の日に親が呼び出されて、反抗的な態度の私のことを取り上げて、母の躾の悪さを指摘された。その日、機嫌の悪い母は、私にだんまりの理由すら聞いてくれなかった。またしてもカルピスをねだるチャンスを失い、その後、一度も買ってもらったことはなかった。また、母に泣きつくようなチャンスも失ってしまった。これが「しらけ世代」と言われる元になるのかもしれない。
 これが私にとっては悲しい思い出で、その後もカルピスとはあまり縁がなかった。雪辱するともちょっと違うが、なんとなくカルピスの件では負けてきた私だけに、一度しっかり知っておきたいと思っていた。2006年の極東ブログの「初恋の味」は、不覚にも気づかずにいたのだった。

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 そして、カルピスのトレードマークや水玉模様の由来を知って、この会社の社長である三島海雲のポリシーにも触れて感動した。

 元々は、パナマ帽を被った黒人男性がストローでグラス入りのカルピスを飲んでいる様子の図案化イラストが商標だった。これは、第一次世界大戦終戦後のドイツで苦しむ画家を救うため、社長の三島海雲が開催した「国際懸賞ポスター典」で3位を受賞した作品を使用したものだが、1989年に“差別思想につながる”との指摘を受けて現行マークに変更された。

 この後のリンク先、「The Archive of Softdrinksというサイトの”Calpis Water”」が興味深い(参照)。

●水玉模様と黒人マーク
カルピスのパッケージは水玉模様と黒人がカルピスを飲んでいるマークがお馴染みであるが、水玉模様はカルピスの起源となったモンゴルで三島海雲が見た美しい天の川である。
 また、黒人マークは1923年(大正12年)に制定されたが、これは第一次世界大戦後のインフレで特に困窮している美術家を救うため、ドイツ、フランス、イタリアでカルピスのポスターの懸賞募集が行われた。その中から選ばれたのが黒人マークで、作者はドイツのオットー・デュンケルスビューラーという図案家であった。
 黒人マークは1980年代になると国際化時代の背景から人種差別的な問題を提起されたり、黒人差別をかかえる国々から反対意見を展開されるようになり、企業イメージの面で不利ということで1990年に使用を中止することとなった。

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 この頃、急に差別問題が浮上して、「ちびくろサンボ」「だっこちゃん人形」など、黒人の模写は差別を思わせ、助長させるとして全て姿を消した。消える時はさほどショックなことでもなかったが、アレがもう見られなくなるというがっかり感と同時に、歴史も見えにくくなるのではないかという残念な思いがある。ついでにその画像も見つけたのでここに貼り付けておくことにしたが、牧伸二と園まりが若い。何故、あのような人形が流行ったのか、ちょっと不思議だ。流行というのはそれが何故そういう流れを作ったのかなど、調べてもあまり出てこない。特に理由がない。

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 私にとっては幼い頃の思い出でもあるが、三島海雲が生涯をかけて守ってきたカルピスの背景に感動した。そして、それが今でも愛飲されていることは、この会社の凄さだろうか。底力のようなものを感じた。

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