2011-06-29

日本が立ち直るために-二人の新聞記者の姿から雑感

 《ある元朝日新聞原発担当記者の回想》という文章を昨日、Twitterで知って読んだ。このことから、新聞記者の資質や、自分が生きた時代に向き合うことになった。これは個人的な中傷のつもりではなく、現代の報道に疑問を持つ元の部分であると思うことであり、考えるきっかけをもらったのだと思えた。これを書いた記者の名前も年齢も分からないが、文脈や筆致から測って、私よりも一回りくらい年配の方かもしれない。同じ昭和に生まれて育った私が、この記者達が高度成長期を駆け抜ける姿を客観的に見たからこそ振り返えれるのではないかと思った。
 この文章はこのように始まっている。

 長年、いつか来るのでは、と恐れていた原発の大事故になってしまった。最前線で命をかけて頑張る作業員や、汚染地域で不安にかられながらも避難所や自宅で屋内退避している住民に心配を寄せるしか出来ない己の無力さに言葉無し。せめてかつて一時ではあるが、”原発記者”だった自分が、なぜ朝日新聞が原発の危険を訴える報道から退いて行ったか、一時期を知っている者として僅かではあるが知るところを記す。

 このメッセージの意味は、現役を退いた記者が昔の社内事情を話さないではいられなくなるような悔恨の意ではないかと思う。懺悔(さんげ)と言っても良いだろうか。何か、意に反したものであることは間違いない。人の意思を歪曲した当時の事情が見て取れる。
 最近の朝日新聞で個人的に感じていたのは、政権交代後くらいからだろうか。昔は、リベラル派とも言われてきた朝日新聞だが、現在は、全くその体を成していない。自民党政権当時、野党の反論を押してきたが、政権が交代して民主党が過去の自民党の劣化型に変貌し始めると、流石に物が言えなくなったというのはあるだろう。極端に中国の肩を持つ辺り、その辺を報じる部分に報道とは言いがたいものがある。また、記事の劣化と言っていいのかどうか迷うところだが、かなり酷い。真実を伝えないどころか、外国の読み物を引用するにも、都合の悪い部分は文章を切り取って編集を加えている。
 この後に続いて、かつての朝日が原発報道から退いて行った理由がざっくり書かれている。

 研修の初日に、当時の編集担当だった秦 正流・専務が開口一番「記者は社論に従って記事を書けばいい」と発言。出席者騒然となり、「反対運動を報じるなということか」等々、開会早々、研修会が中止になりそうになった。

今の新聞社では考えられないほど、取材と記事に関しては記者個人個人が紙面づくりの責任感、使命感、社会悪を許さない正義感が強く、どんな上司や言論人としての大先輩であっても対等に論争を繰り広げたものだ。それが週刊誌にも報じられた。

 もちろん紙面でも、さんざん書いてきたが、読者の反響が限られていたのも悲しいかな事実。目先の欲、甘い汁につられて動いた人も多く、「どんなに頑張っても、読者レベル以上の紙面は作れない」と嘆きもした。すでに新聞は自分たちが思っているほどの力は持っていなかったのだ。また、「反原発」の原稿に力を入れた諸先輩が決して優遇されないのを後輩・新人記者達は目の当たりにみて育った。なんせ「3人集まれば人事の話」というぐらい、人事の好きな社風、下手に者の方針に逆らうよりは、当たり障りの無い発表記事が次第に増えて行った様におもえる。

それから約30年近く立った今、ごらんの通りの「大本営報道」のみが繰り返されている。私は数年前に定年退職したが、正直言って記者生活の終りに近づくにつれ、「社会をよくしようと思っているヤツなんかいるわけない」と出世がすべての人間が増えた。

記事の価値判断も出来ず、原稿にまともに手も入れられず、もちろん修羅場をくぐる本当の取材のノウハウを知るわけもなく、従って若手後輩に教える能力もない人間に、まともな紙面が作れるはずはない。

頼むから、新聞よ、もう少し、私が死ぬ迄しっかりしてくれないか、といいたいのだが、いや、ろくな新聞社にしなかったのはお前も責任があるだろう、と言われたら一言もない。愚痴になりそうなので、ここまで。読んでくださった方に感謝する。

 ここで共鳴するのは、反響のないものは書く意味がないといった、正に劣化の始まりの時代であったと思う。この時代は、他にも真実を歪曲したままにした事件も多々あった。ロッキード事件などは、その代表かも知れない。原発は安全だという神話を信じ込んで住民が浮かれている時に、「イエス、バット」が言えなくなる理由に、売れる新聞を作る以外記者として生き残る道はなかったということだろう。これが、高度成長期に日本が生み出した腐敗であった。私はこの腐敗が嫌で落ちこぼれたが、その後の人生は幸せだったとも言える。だから、彼らの苦悩が手に取るように分かる。率直に言えば、人が死んで初めて自分の罪が理解できたと言うだけの話だが、これを言ったら罰しなければならない人間は五万といる。そこを今更咎めるものではなく、良心の呵責を持つ人は、一生それに苦しむしかないと思う。ただ、私個人としては、このような人を既に許している。高見の見物の趣味もない。
 私は、自分自身がこのような時代のことを知っていることが嫌で、思い出したいとは思っていなかった。その理由に、大多数の人はこの時代の波に乗って勝ち組と言われていて、私はその対極の少数派の負け組みだった。心は痛んでいないのに何故か自信をもって自分を誇らしく思えていない。何かを苦にして生きてきた。「私は実は勝ち組」と、どこかで思っていなければ、自分らしく生きるのが憚れたような気がする。

cover
ポル・ポト伝
デービット.P. チャンドラー

 ここでふと思い出したのは、時を同じくして読売新聞の記者であった山田寛氏の書いた「ポル・ポト伝」(参照)だった。この本訳本は、山田氏がカンボジアに転勤した折に出会った「ポル・ポト伝」デービット.P. チャンドラーの原文からだった。当時日本では知られていなかったポル・ポトのことを伝えようと、山田氏自ら翻訳し、出版に漕ぎ着けたそうだ。ネットで探してみると、山田氏のインタビュー記事があり、そこでもこのことについて触れている(参照)。

西側の記者として初の解放区入り
 カンボジアへはまず1973年8月に出張という形で行きました。その当時、ベトナムではまだ戦闘は続いていたんですけど、一応1973年1月にパリ和平協定が結ばれ、とにかくベトナムからはアメリカ軍がいなくなり、アメリカの戦争は終わった。そしたら、しばらくはもうベトナムのほうはいいんじゃないかって。一方、カンボジアのほうは解放勢力が強くなっていて、プノンペンが落ちるというような状態になっていたんです。
 その頃は「解放区入り」という言葉が独特の響きを持っていて、朝日新聞社の本多勝一さんなどが、「解放区に入るということは、戦争を両方の側から見て公平に伝えることだ」と言っていたんです。でも、1970年ころは解放区の危険が十分に認識されておらず、亡くなったり行方不明になった記者が多かったです。特に、カンボジアの場合の1973年当時は解放勢力側が、新聞記者を捕まえたら殺すということを言っていたので、皆行かないんですよね。だけど、僕はなんか行きたいというような気持ちになっちゃったわけです。若気の至りというか、不安よりも他の記者がしていないことをしてやろうという気持ちが強かったんですね。

 随分前に読んだので記憶も薄らいでいるが、印象に残っているのは、ポル・ポトが悪人かというというとそうでもなく、かと言ってチャンドラー氏が擁護しているわけでもない。浮かび上がるポル・ポト氏は、殺人鬼のような人物でもない、極普通の人。これが何故、国民の四分の一を虐殺したポル・ポト政権になったのか、あの革命は何だったのかと思うに至った。

cover
ポル・ポト〈革命〉史
虐殺と破壊の四年間
山田寛

 山田氏はその後2004年に「ポル・ポト〈革命〉史」(参照)で、自分の目で見て聞いたカンボジアの当時の様子をそのまま忠実に伝えている(一部抜粋)。

 大量虐殺の本格的幕開けとなったのは、1975年4月17日のロン・ノル政権降伏、クメール・ルージュの首都プノンペン入城でした。
 プノンペン市民はクメール・ルージュ兵士を“解放者”として歓迎しましたが、市民全員の農村への強制移住という信じ難い命令が人々に下され、地獄が始まりました。

 「何千という病人、負傷者が町から出ていく。……中にはベッドの上で、輸血や点滴を受けながら家族に運ばれていく病人もいた。輸血用の血液や点滴液が大揺れに揺れていた。ちょん切られた虫のようにもがきながら進んでいく両手両足のない人、10歳の娘をシーツにくるみ、吊り包帯のように首から吊るして泣きながら歩いていく父親、足にやっと皮一枚でつながっている足首がぶらぶらしたまま連れていかれる男。私はこうした人たちを忘れることはあるまい。」(プノンペンに留まっていたフランス入宣教師のフラソソワ・ポソショー神父の言葉 )

 この大方針がいつ決定されたのか。ポル・ポト自身は、七七年になって、「それは七五年二月だった」と述べている。二月下旬に聞かれた党中央の会議で決まった、というのである。

 最終的にはそうでも、実際にはずっと以前から計画されていたとみられる。七四年半ばにこの計画は上級幹部たちには明らかにされ、次項で述べるようにフー・ュオン、チュー・チェト(党西部地域書記)らが異を唱えていたが、もちろん取り上げられなかった。

 エン・サリは、七五年九月に公表された外国人記者とのインタビューで、「首都に入ってみると首都の人口が予想以上に多く、ほぼ三〇〇万人にも増大していたから、飢饉を防ぐため人々を食料のある場所に行かせる必要があった」と説明している。

 だが、そんな短時間に、大雑把にせよ人口調査など行っているはずもない。内戦中の七三、七四年ごろから、彼らは都市や町を攻略すると、住民を退去させ、住家を焼き払うことを繰り退していた。強制退去は、革命の敵が集結した“悪と腐敗”の巣窟の都市を壊滅させるためだった。全国民を農民、労働者にし、生産に邁進させる。敵をバラバラにし、選別を容易にする。それが都市への憎悪と警戒心に基づいた彼らの基本戦略だった。

 ただし、七七年四月に逮捕され、粛清地獄のツールスレン監獄(S21)に放り込まれて処刑されたフー・ニムは、殺される直前に書かされた供述書の中で、「四月一九日に、兄弟一号(ポル・ポト)と兄弟二号(ヌオン・チェア)から、状況と住民退去計画について説明を受けた」と記している。情報相だったフー・ニムですら、強制退去開始後二目たってやっと実際の退去計画について話を聞いたわけだ。それほど計画は狭い範囲だけの秘密とされていた。

 まさに、この時の虐殺を問う裁判が始まったところだが(参照)、ポル・ポトは 1998年4月になくなっていて、当時の政権ナンバー2と3など4名だが被告として出廷し、無罪を主張している。政権の生き残りであり、当時犠牲となって殺害された人々の家族などが待ち望んでいた裁判だと言われているが、始まった途端、体調不良を訴えて三名が退廷したと報じている(参照)。この裁判が今後どうなるのか、全く見えない。
 新聞記者の話から少し逸れてしまったが、振り返ってみて、真実というものは隠し切れないものである。でも、生き抜くために隠さなければならなかったとしたら、生きにくい世界を作ってしまったのも私たちである。

【参考】
 先の、元朝日新聞記者の話(Tiny Messageによる)の信憑性について少し調べた。どういう経路でTwitterに流れてきたのか。
 ジャーナリストの有田芳生氏のTwitter上での以下の発言にtkucminya (Takeuchi Jun) さんが情報提供したものらしい。

aritayoshifu:朝日新聞が「脱原発」を社論にするという。東電のマスコミ対策に乗って原発賛成を明らかにしたのは1979年。岸田純之助論説委員と渡辺誠毅社長のコンビによる。その5年前。渡辺氏が編集担当専務のときに原発促進の意見広告を解禁した。32年ぶりの方針転換。問題は「脱原発」の内容である。

これにtkucminya 氏が以下のように返信:

@aritayoshifu 様。その直前の証言です。ご参考まで;《ある元朝日新聞原発担当記者の回想》 以下にリンク☞TinyMessage

と、ジャーナリストである有田芳生氏にリンク先URLで情報提供されたものらしい。その出典は分からない。

|

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日本が立ち直るために-二人の新聞記者の姿から雑感: