2011-05-17

米大使館公電のウィキーリークス情報に触れてみて

 世間で何が起こっているのか、メディアを通して社会を垣間見ていると、不安材料ばかりに見えてくる。逆に、日常に不安材料があると問われれば、見つけにくい。日常では見えないことや気づかないことに関心を寄せ、根底から考えてみたいと思っても、提供されている情報の信憑性から問うことを始めないと正確さが問われる。この繰り返しを随分長く見てきたが、最近のウィキーリークスからの政治の眺めは見通しが良かったかと思う。
 仮に私がこの先30年生きたとして、今、不安に思っている社会が変わるかどうかは考えてもどうというものでもない。と、一生懸命不安を抱く心を宥めるのだが、対極で、それは気休めというものだよ、と正気を戻そうとする声が聞こえる。こんな葛藤のようなものを心の中に自覚していることが頭から離れず、このところしつこく付きまとっている。睡眠から目が覚めたというよりも、寝ていたという感覚がなく、頭の芯が冴えている状態が続いたままである。眠れないとも違う。悩むほどではないが、これは社会不安を抱えた一種の緊張状態なのかもしれない、と自己診断している。そして、この自己診断も、先ほど寝ながら考えていたことだ。
 2002年頃に読んだ何かの本に書いてあったことを思い出し、現実に絡めてその本の嘘っぽい部分に落胆した自分がいる。その気持ちのやり場のなさや、はけ口はないものかと探していた。その本は、誰が書いた何という本だったか調べようと思っていたのは確かで、読んだのも本当の話。ただ、当時、経験した通りの衝撃のような感覚的なものが今の自分とすっかり重なっているというだけで、社会不安が同質というわけでもない。なんだか雲を掴むような話しだな。
 3月11日の地震と津波による直接的な被害はなかった私だが、相当なショックではあった。傍観しているからだろうか、物理的な被災がないからだろうか、東電や政府の対応に目が行く。客観視に拘り、できる限り私情を交えなで物事を捉えようとどこかに緊張がある。それが2ヶ月続いてきた。その疲れといえばそうかもしれないが、では、見なければ休めるのかというとそうでもない。政府に対する憤りなのだと思うが、この政府には、特別の思いがあるが、それをどう論じても解決の糸口はない。結局、封じ込めなくてはいられないものと、諦めるしか自分の中で決着がつかないのである。欲しいものが買えない時の諦めとはわけが違う。
 このところのウィキーリークスで日本政府の暴露情報を知った。これは何だろう、私にしたら、昭和時代の会社のお偉いさんと同じである。大方、東電もそんなものではないかと思ったりもする。結局、社会構造など何も変わっていないという落胆も味わった。初めて触れて驚いたというものではない。娘時代は、社会の薄汚い一部として受け止めるには私はあまりにも若過ぎたため、当時受け止められないまま今に至っていると言った方がよいかもしれない。言い訳でも自己弁護をするわけでもないが、私はその薄汚さを受け止めるにはあまりにも若くて純粋過ぎた。日本をリードする会社のトップクラスが私利私欲の塊で、その周辺にイソギンチャクの足のような触手をひらひらさせて取り巻きがいる。昔で言う「かばん持ち」や「風呂屋の三助」の体だ。おこぼれ頂戴でも良い。その一味に加われなかった私は脱落者であり、幸せ者であったと誇りに思うことが慰めであった。あれから何十年も経っているというのに、変わっていないんだな、何も。考えてみれば、今の政治家達は私が脱落した当時のイソギンチャク達である。世の中の酸いも甘いも知り尽くして今がある。先人からそれをを引き継いで今を生きている人達である。ここで二度落胆することもないか、自分頑張れとは言えないが、社会不安がどこから来ているのか少し分かってきた気がする。
 どうでもいいようなことを長々書いてしまったが、これは一種のガス抜き。
 政治家にその実力がないのは今に始まったことではない。実力のある人は一緒に腐るか、腐るのがいやなら離れるしかない。ある種の権力に立ち向かっても無力感しか残らないのは、今になっても同じだったと思うより他ない。
 公電の扱いについて私なりに、何をどう捉えるかについてのみ今まで書いてきた。朝日が日本のリーク先としてウィキーリークスから選ばれたのは何故か知らないが、読み応えの程はさほどない。取り上げる意図というか、新聞社ならリークに道筋をつけて読ませる意図というものがあるのが普通だろ、とか思うが、朝日からは感じられない。かといって数あるリーク情報から無作為に引っこ抜いた訳でもないだろうに、と物足りなさを感じていた。そして、極東ブログで取り上げたのは、全てニューヨークタイムズがセレクトした7件からで、意図的に「資料」としてエントリーが挙がっていた。私はその情報を拾いながら、朝日を読むでもなく他のブログの解説も読むこともなく、自分よがりの読みをここで書いてきた。これはこれで楽しかったものの、朝日にはかなりがっかりなものを感じた。その理由もなんとなく分かっていた。朝日の訳も最初だけ少し読んだが、原文から文章を消して(なかったことにして)公表された事を知った以降、読む気が失せた。なので、私が読んだのは、原文に忠実に訳をつけてエントリーを挙げてくれた極東ブログであった。
 昨日の極東ブログ「ニューヨークタイムズに掲載されたウィキリークス日本発公電について」(参照)に、訳者としてのfinalvent氏のこれまでの配慮や、リーク情報を扱うメディアについての私見が述べられていている。これまでどのような思いがあったかをここで初めて知り、情報提供の難しさや醍醐味、真髄がそこにあったことを嬉しく思った。ブログの時代はもう終わっていると言われだしてから久しいが、メディアのリーダーがあの体をなしているのであれば、ブログの存在価値は言うまでもなく意義のあることだ。
 また、当初、私が文書の隠蔽紛いでつまらないと放り出した朝日も、可視化されないことでその裏側を別の意味で読み取る面白さがあることに気づかされた。

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