2011-05-05

中島敦の文学に触れる時

 この連休は本を読むと予告したとおり、時間さえあれば本を読んでいる毎日だ。と言っても、随分と読書力が落ちたことを感じ、しょぼーんな日々でもある。昔なら何時間でも集中して読めたが、まず、目が疲れる。老眼といえるような自覚はないが、疲れると言うのはその兆候だろうと思う。友人には私よりも早く老眼鏡をかけている人もいれば、最近、度の弱いのが必要になってきたと聞く人もいる。そして、読むのが億劫になるとも聞いている。なんとはなしだが、そうなる前に沢山読もうと焦っているのだろうか、読んでおけばよかったと悔やむ気持ちを後で味わうことのないよう拍車がかかっているのかもしれない。
 先日、Apple StoreでiPad2を買った。と言ってもまだ届いてはいないが、実は、母の日のプレゼントに私の母に進呈しようかと考えていた代物だ。昭和3年生まれの母は今年83歳になるが、昔から読書が好きで、暇さえあると新聞か本を読んでいる人で、私は、なんとなくその血を引いているのかもしれない。実家には本が沢山あるが、いつだったか母がその本の処分について話していた。私のこの歳でも老い先、あまり物を残しておきたくないと思うのに比べ、母は、暢気だと感じていたほどその手の話を聞いたことがなかった。あまり片付けが上手な人でもないので、さほど気にならなかったのかもしれない。そんなこんなの思いがあり、紙文化から移行してはどうかと思っていた。
 一昨日帰った岐阜の友人ともiPadの話で一時盛り上がった。息子さんが既に持っているそうだが、彼女は、関心がないものには目もくれず、機能などはあまり知っている風ではなかった。私がiPhoneを使いこなしていると見えたらしく感心していたが、私としては、アプリケーションの使いこなしがイマイチではないかと思っている。何万とあるアプリケーションから使い勝手の良いものやニーズに合わせて選ぶというのが面倒くさくなるので、一度入れたらずっと同じものを使っている。ただ、ネット上の友人というのはありがたいもので、特に同世代の勧めるものには違和感なく飛び移ることが出来る安心感を持っている。
 前置きが長くなったが、昨日は中島敦の「光と風と夢」(参照)の紹介だった。冒頭にもあるとおり、高校の国語の教科書の「三月記」という短編で出会っている人が多いのではないだろうか。

cover
中島敦全集(1)
中島敦

 秀でた才能を持っていても磨かなければ一流の作品は生み出せないという戒めや、辺境に身を置くような臆病な性格は羞恥心から来るのか、それとは裏腹に他人からは理解されず、尊大で傲慢だと思われてしまう人の儚さのようなものを感じる作品だ。中国の「人虎伝」を元に書いたというかそのものという短編小説だが、とても悲しい。胸にグサッと刺さり、ひりひりするような痛みを覚えるような作品が多い。finalventさんがニ、三日前から何かを読みふけっていると知り、何を読んでそんなに感動しているのだろうかと興味津々だった。中島敦と知って、なんとなく分かるような気がした。と、分かったようなことを書くのはおこがましいが、内容が分かったという意味ではない。中島敦の文学は読む度ごとに味わいが深まると言うか、引き付け方によっては味わいが変わると言う意味だ。それが「光と風と夢」だと知り、早速iPhoneに入れている「i文庫」で読み始めたが、その前に読みかけがあるので今はしおりを挟んで書棚に置いている。
 中島敦と言えば、4年近く前に折に触れて「三月記」を読んだが、読み時を間違えた感があった。何とも悲しく切ない虎の生き方に涙が止まらず、何度も読み返して思い知ったのは、人の生を変える事や救うことは出来ないということだった。そして、それ以降読めなくなったのを覚えている。紹介の「光と風と夢」は実はまだ読んでいないが、「三月記」の後遺症のため臆する気持ちもある。
 書評にはこうある。

 中島敦の文学とは何か。あえてひと言で言えば、人がものを書くということの妄念の姿である。これが自身と死の形を決定していくなら、受け入れるほかはあるまいという壮絶な生の覚悟の姿でもある。むしろ、そうした中島の姿に近似な虚構としてスティーヴンソンが選び出された。

 「三月記」を読んだのを後悔したような気になったのは、その時、「壮絶な生の覚悟」がなかったからかもしれないと思った。読み時を間違えたと言うのはそのことだったと思うと、中島敦の文学にここで触れることは生への覚悟を迫られるということかと思った。
 さて、この「i文庫」だが、大変便利なアプリケーションである。本好きにはおそらく一番人気があるのではないかと思う。新書もあるし、著作権の切れた昔の純文学など8000冊以上の青空文庫を揃えている。私は、作家別の索引から読みたい本をあさってはダウンロードし、書庫に溜めている。何十冊もあるが、リアルに机の上に積んであるのとは違って満足感と充足感があるから不思議だ。
 また、辞書との連携が非常に便利で、読んでいる最中に簡単にアクセスできる。普段、紙で本を読む時は辞書を引きながらということはあまりない。その分、前後の文章から分からない語句の意味を「読む」学習にはなるのだが、辞書があればあるに越したことはない。それも、分からない語句の上に指を長く押し付けているだけで辞書の選択画面に変わるという素早さだからたまらない。
 また、手持ちの資料やネット情報をZipファイルとして作成すればi文庫に転送することが出来るので、自作の本が出来るのが嬉しい。今、その準備をしている最中でもあるが、目標を持つということは楽しいことである。

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