「自分が見捨てられているという感覚」について
「年取るとなんというか普通に感情が抑えにくいことがある。自分が見捨てられているという感覚が基底にありそうな感じはする。」
Twitterで目にとまったこの呟きが気になっていた。「見捨てられている」ことに抵抗する自分自身を自覚した時点で、これを認めていないことが心の中にいつも潜み、それを違った形で抑えようとしているのではないかと思った。特別に反応して気持ちの中でざわめきを感じた。この際だから少し書いておこうと思う。
「自分が見捨てられてるという感覚」のことだが、表現として自分の口からついて出るのに、「見捨てられないように」などと仮定的に引用していることはある。あたかもまだそうではないと相手に思わせ、自分もその言葉を飲み込んで装っていたようだ。でも、本当は「見捨てられている」と自覚している。ちょっと間違うと被害妄想の時に言いそうな言葉でもあるが、「○○されている」とはなかなか言えない言い回し方かもしれない。見捨てることは何かからの受動的なことから始まるのか、それとも能動なのか、その心を見ることから始めないと抑制している本性が見えてこない。
最近起きたむっとしたことに、散歩の途中で見知らぬ住人と思しき年配の女性に、通り過ぎてから後ろの方で「挨拶もしない」と文句を言われた時のことだった。急な坂道に沿って建っているその女性の住む家だろうか、その女性が私の死角にあった階段から降りながら私に気づいたのだろう。彼女が素通りする私を見て「挨拶すべき」と思ったに違いない。後からだが、その女性に私は、「気づいていたら挨拶ぐらいした」と言い返したかったが、問題はそこではない。気づいた自分がそうすればいいだけの話で、他人に挨拶しろとは何様のつもりだと言い返したくなり、徐々に腹立たしく思ったが、問題はそれでもない。問題は、歳を取るとそれくらいの図々しさが出て来て然りだと私が疑わないことの方だ。
歳を取った人は、そんなもんだと置き去りに出来るのは寂しいものだ。俗に言う、年寄り扱いするということだが、裏腹に、自分がそうなりたくないという感覚が確固としてある。自分は違うと思っている。実際、この女性のようにはなりたくないものだが、私から見るふてぶてしさや図々しさもあの年代にとっては当たり前然とする観方がある。私も似たようなものになるのか?人に向かって自分に挨拶しろとはとても言わないだろうと思う。人のことを調べても埒が明かないが、これは人よりも優位であることの誇示なのか、年齢差に上下関係を絡ませているのか年を取ると感情が抑えにくいという一つの例だと思い、あえて書いてみた。年寄は僻みっぽいなどと言われる所以ではないだろうか。私はそうなりたくない。人を羨む気持ちはあるとしても、僻む方向へは移行したくはない。だが、いつしかあの女性のように僻み根性のようなものを無意識にむき出しにしてしまうことってあるのだろうか、と思うと空恐ろしくなった。あんなに醜い姿にだけはなりたくないと拒否する気持ちが強くなる。これがもっと怖い。これは私の気位の高さというものなのか。人前に出るのが嫌になる元だ。醜くなるのだけは嫌だという嫌悪感ははっきりある。
こういった嫌悪感はどこからやってくるのかと思えば、気位の高さかもしれない。それと、自信のなさ。これらが出現するのは、見捨てられるような気がするからではなく、「見捨てられる」というはっきりとした感覚が基にあるからではないかと思う。勿論、その自覚はない。見捨てられいなために嫌悪し気位を高く持つというのはなんとなく矛盾してみえるが、これを繋ぐ役割を持っているのが寂しさではないかと思う。老いて朽ちる寂しさを癒すものはきっと何もないと思う。そのことに諦めがつていないような気がする。というか、人はこれを受諾とか受容とか言うが、この言葉を用いるにまで自分が至っていない。
最近時々思うことに、Twitterをやめようかというのがある。これもある種の抵抗で、痛い思いをしたくないという表れだと思う。寂しさを受けいれていたら止めていることかもしれない。人と関わっていると紛れてしまうのは嘘っぽいな自分、と何処かで思っている。人の中にいると自分を紛らわしてしまうと思っている辺りの感覚が既に、もう一人の自分から「見捨てられている」のかもしれない。逆に、関わりたいと願っても現実には何も起こらない世界ではないかと、諭している。また、対象は人だけでもなく、世の中の出来事や人の考え方に寄り添おうとする自分もいるが、よくよく考えると、それが抑えられないむなしさだろうか。全て虚しさへ向かっているような気がする。
自分自身を誤魔化しているように感じる時は一人にはなれないよと、心のどこかでもう一人の私が叱責してる。そうやって、一人になることが強く生きることならそっちを選ぶべきだと言い聞かせている。そう思っているうちはきっと一人にはなれないと、もう一人がせせら笑っている。なかなか踏ん切りがつかない。往生際の悪さとはこのことかと思うが、これを抑えて決断できないのは、「見捨てられているという感覚」が基にあるからかな。足掻きながらいつも葛藤している。潔くないこの姿は、惨めなだけだなと思っている。
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