もう一度あのセザンヌを
昨日、セザンヌの絵を改めて見てちょっと感動した。今日はこの話で盛り上がろうと思う。本当は、先日報じられた内モンゴル独立関連や中国政府対して起きる反政府運動の中味などを書くつもりだった。そのために多くの時間を裂いて調べ物をしたが、全てすっ飛ばすことにした。昨日と同じパターンになってもうたな。
と言っても、セザンヌの絵がものすごく好きだというわけでもない。が、昔は良く見て回ったものだったし、感性は徐々に引き出されてくるもので、触れることから始めるのが大切だ。前にも書いたが、大英博物館では学術委によるレクチャーが無料であり、その説明を聞きながら一緒に絵を見て回るのが好きで、これは英語のレッスンも兼ねた私の休日の過ごし方でもあった。解説は、作者の生い立ちやどのような背景からその絵が描かれたかなど、歴史的なことも含めた話で、解説者の個性の違いもあって面白かった。ただ、その説明の詳細を鮮明には覚えていない。覚えているのは、解説員の特徴や話しぶり、テンポの違いの妙などで、その意図されたものとはまるで違うことばかりで申し訳ない。大英博物館のことなので多分、今でもこの行事は行われていると思う。権威ある博物館という感じで、格がぐっと上のランクである。短い旅行で立ち寄るようなスケジュールではとても味わいきれないものがあり、ゆっくりできる機会があればまたもう一度訪ねてみたい。
さて、昨日、「自然、静物、人間が、対象として現れるれという奇跡をセザンヌは示している。」と、このようにセザンヌの絵を表現されたのがとても新鮮だった。セザンヌの絵の一見ちぐはぐな全体の構図からではなく、梨やレモンが何を語りかけているのかもう一度見直してみたいと思った瞬間だった。その奇跡を見逃していることに焦ったとでも言った方が良いだろうか。
セザンヌは、後期の印象派とも言われているが、印象派という概念を一度疑ったほうがよいかと思うほど自分の固定観念が邪魔する。美しい絵とも違い、部分的に非常に個性豊かな風合いを持っていると思う。中には大人のバランスとしては考えにくい面も持ち合わせている。だが、色使いは非常に美しい。鮮やかに彩られた果物等の静物は、実物をみると色使いが豊富で驚く。セザンヌの絵で一番印象的なのは、それらが放つ光が一定であることだろうか。別の言い方をすると、一つ一つに正面から光を当てて描いたものをそれぞれの構図に収めているように見える。だから、遠近感もばらばらで、自分が何処から見ているのかちょっとした錯覚を覚える。そのお陰で、物が置かれているという一つの風景の常識を破る何かがあり、これが、セザンヌが静物に語りかけているそのものなのだと思う。この語りは何か?
代表的な静物の絵を借りてみた。
どうだろう、この絵は。
果物バスケットは中にどんな果物が入っているか全部を見てよ、といった具合に取っ手が斜めに書かれているところを見ると目線は斜め上。でも、バスケットが何かで編んだものであることが分かるように側面で網目をよく捉えている。淵にはその繊維が立ち上がって、中身がこぼれないような作りをしていることまでがわかる。
また、一番ちぐはぐして見えるのは、バスケットの隣にある壷の口から中まで見えるところから割りと高い位置から描かれているのに対し、その横の砂糖壷のようなものは左斜めから水平に近い目線で描かれている。これだけでもそれぞれから放つ光は、乱反射している。描いているセザンヌにしたら、それぞれに光を当てて静物の語りをそれぞれから受け止めているのだと思う。テーブルの足にも、手前の足の太さよりも太く描かれている奥の足に何を語ったのだろうか。それに、テーブルの天板だって右から左に直線になっていない。右は遠い場所から斜め上からだが、左側は、ほぼ真上からだ。なのに奥の足が天板のしたから見えている。
セザンヌの他の絵でも同様に、こんなはずはないというアングルの違いが多々見つかる。これは、絵全体の物語というよりは、光を放つそのものの存在をこのように抜き出して語りかけているように思う。表現者としてのセザンヌというりも、物への語りかけという感じがしてきた。
うーむ、こうなるともう一度、間近で一つ一つに語りかけたくなってきたな。ここだけの話し、今までセザンヌの絵を見てきただけで語り合って来なかったことに気づいた。悔やまれてならない。
| 固定リンク
コメント