2011-05-19

ルワンダ大虐殺で軍幹部に禁錮30年の実刑判決から思うこと

 1994年、ルワンダの内乱でわずか3ヶ月間に80万人が虐殺されたと言われている。こういった歴史上の悲惨な体験を抱えながらも現在、カガメ大統領の下でルワンダは経済成長を遂げている。国際社会が虐殺を首謀したとするカガメ氏の罪を問うている中、昨年、8月に国民の90%以上からの支持を得て大統領に再選された。この数字に私がどう反応したかは「極東ブログ「2010年8月のルワンダ大統領選について」―「正義」との相殺を求めるべきか」(参照)でも触れた通り、異常な数字だと思った。よほどの人徳ある人物か、独裁的な政治基盤に国民がすっかり納得した国であるか、選挙に不正があったかのいずれかの理由でも存在しない限り、このような選挙結果は出ないと思ったものである。
 そして、国民の不満があるならば、いつかその数字の示す勢いが噴出するのではないかと思っていた。また、国際社会が「正義」をもってそれを正そうとすることが今のルワンダにとってどうなのか、正しさは必ずしも多くの人の幸せだとは言い切れないのではないか、など考え込んでしまった記憶がある。と言うよりも、答えが出せないだけに、事あるごとに「正義」と自分自身の正しさが下りてきて悩む。正しい自分が間違っているかもしれない、そう思って不安定(自分に自信がない)であることの方が正常ではないかと思うようになったきっかけは、「2010年8月のルワンダ大統領選挙について」(参照)の記事に触れてからだった。
 ルワンダ大虐殺を受けて国連が設置したルワンダ国際犯罪法廷(International Criminal Court for Rwanda、ICTR)は17日、元ルワンダ軍大将、アウグスティン・ビジムング(Augustin Bizimungu)被告に、禁錮30年の実刑判決を言い渡したと報じた記事を目にした(参照)。虐殺については、現在も裁判は進められ、けじめをつけることの意味もあるが、国際犯罪法廷で裁かれる被告の数は知れている。また、それで済むはずもないと思っていたところ、記事の最後に「ガチャチャ裁判」と、耳慣れないことが書いてある。

 ルワンダ国際犯罪法廷は、大虐殺において重大な責任を有する者を訴追するため、国連が1994年に設置。タンザニア・アルーシャ(Arusha)に置かれている。

 虐殺に関与したとされる政府の上層部以外や一般市民は、ルワンダにおいて、通常の裁判制度やガチャチャと呼ばれる草の根レベルの裁判制度で裁かれている。

 ガチャチャ裁判は、村のもめ事を解決するための村人たちの集会が発展したもの。被告に弁護士がつかないことなどから人権団体から批判を浴びているが、ルワンダ政府当局によると、虐殺への関与の罪で100万人を超える被告人の裁判を行えるようになった。(c)AFP

 このような草の根レベルの裁判が行われているというのは知らなかった。調べてみると、AMNESTY INTERNATIONALで、次のように説明されている(参照)。

 2002年6月、ルワンダ政府によって「ガチャチャ」という裁判制度が設置されました。1994年のジェノサイド(大量虐殺)について未処理の件数が多いため、地域共同体でジェノサイドの容疑者を裁くことを目的としています。「ガチャチャ」の由来は、もともと地域にあった、家族内や世帯間のもめごとを解決するための慣習的な集会をさしていますが、新しい「ガチャチャ」は、より西欧に近い司法制度となっています。ルワンダ最高裁と司法省が管轄し、その裁判官は、もっとも重い判決で終身刑をいいわたすことができます。

 「ガチャチャ」の構成員は、住民の投票によって選ばれます。2002年10月には約26万人の素人裁判官が選出され、法律、裁判官としての倫理、心的外傷カウンセリングなど数日間の基本研修を受けました。

 しかし、「ガチャチャ」裁判は思うように進んでいないのが現状です。全国に8140か所に設置されるガチャチャ裁判は、2005年まで延期になりました。2002年に試験的プロジェクトとして746か所に設置された裁判の実施も遅れています。

 また、この裁判の実態、運用や問題点について、ジェトロ・アジア経済研究所の竹内進一氏のレポートには詳しい考察がある(参照)。参考までに。
 虐殺罪容疑者についての裁判は、国際社会がルワンダの虐殺を問うルワンダ国際法廷とルワンダ国内の通常の司法手続き、ガチャチャ裁判で行われているということを知り、虐殺の事実がうやむやになっていないだけでも評価できると思った。
 ルワンダの虐殺と一緒にしているわけではないが、原発事故による避難命令が出た今、気になっていることがある。
 福島県の一部の住民が避難命令に応じられないことに政府が困っていると報じる記事で、政府の「正義」と住民の「正義」がぶつかってどちらも譲らない光景が浮かんだ(参照)。この場合の「正義」に関してだが、原発事故を起こした東電(政府)が元々悪いという前提を立てると、住民の言い分は正しいとも言えるのではないだろうか。また、生命の危険からの回避という点では、避難を呼びかける側の行いは正しい。「正義」の文脈では、両方ともそれぞれの正義を以って相手の正義を譲れないとなる。どちらも正しいではないかと傍観者も思うと仮定すると、では何を基準に採決したらよいのだろうかという疑問がわく。人の命を基準に東電の言い分が正しいと言えるだろうか。命は、個人の自由意志で失うことを決めてもよいのだろうか。いや、それはまずい、守られるべきだと言うのであれば、先のルワンダの虐殺首謀者達は全員罰するべきだとなる。命は守られなければならないのであれば、福島の住民の話など聞いてる場合ではなく、強引に避難させるべきではないのか。
 このように、「正義」を正しさの尺度に当てはめると、どれも正しさとして尊重されなくてはならなくなる。また、大きな力のようなエネルギーを感じるが、「正義」を正すと悪者を必ず対極につくることになり、そこに不公平感を生み出して憎しみを持つ者をさらに増やすことになった時、大きなエネルギーとしてここで転化することになる。この繰り返しはずっとやってきたのじゃなかったかな。それでも、正しさを求め、「正義」を問うことをやめない今、公平さとは何か?と、また繰り返し考え始めてしまう。

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