2011-04-28

文語に親しむ一時

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「古文」で身につく、ほんものの日本語
鳥光 宏

 先日、紹介されていた「「文語」で身につくほんものの日本語」(参照)が届き、早速読んでみた。一言で言うと、文語文を味わえるようになりたいとさらに思った。「駿台予備校の人気講師の伝授」と帯にも紹介があるとおり、ところどころに学生向けのメッセージが添えてあり、なんだか懐かしさを蘇らせてくれる趣きもあった。
 一番印象に残ったのは、「さくら さくら」という文部省唱歌を例に、文語文の表現の豊かさを紹介している部分だった。「朝日ににおう(にほう)」の語彙を部品的に分解し、言葉の持つ美しさを嗅覚と視覚で感じ取るとはどういうことかが解説されている。今風に言うと、空気嫁とかの部類だが、読めない人からは「曖昧」だと批判される。そして、「「におうように美しい」なんて、さらっと言えたらいいね」と、本当に思えたから不思議だ。ここで「SABON(石鹸)は注意」というのを思い出して苦笑した。
 今まで振り返ったこともなかった「さくら さくら」という短い歌の中に使われている「におう」が、この歌の肝だったと言う点を今頃思い知った私は、なんだかこれまでの学習欲の乏しさをを無念に感じた。しかも、今の小学生の音楽の教科書には、歌詞の解釈がついているそうだ。ここで文語に触れて学ぶことができるというのは素晴らしいことではないか、と羨ましくも思ったが、筆者も嘆くように、現在の風景は言葉の情緒に合致しないというのがなんとも残念なことだ。これは、言葉の美しさが分かってみて初めて思えたことだった。

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完本・文語文
(文春文庫)
山本夏彦

 さて、昨日山本夏彦の「完本・文語文」の紹介があった(参照)。さらに文語文に親しむにはこれ、というお誘いとお見受けし、在庫があったので勿論即行で注文した。
 2002年に87歳で癌で亡くなっている。文芸春秋で短編に少し触れて読んだことがあるという程度で、これといったものを読んだことはない。本音で迫る辛口のコラムニストと評されている通り、なかなかなお爺さんであったと思う。なくなった時、4本も原稿を抱えていたと聞いたが、亡くなる直前まで書く仕事を貫いた人だったようだ。ネットで少し調べてみると「やぶから棒」(新潮社)に、氏のお言葉が出ていた。一部を紹介したいと思う。
 山本夏彦氏(「やぶから棒」新潮社)のお言葉である。

「私はジャーナリズムを嫌悪し、かつ軽蔑しながらなお長年そのなかで衣食してきたものである。だから、せめて自分でも信じないことは書くなと言いたい」  『平成元年1月』

「ワイロは浮き世の潤滑油である。もらいっこない人は自動的に正義漢になるが、一度でももらってごらん、人間というものが分かる。古往今来正義の時代は文化を生まなかった。『文化は腐敗の時代に生まれた』と昔、渡部昇一は言った。卓見である」『週間新潮 95.7』

「タバコの害についてこのごろ威丈高に言うものが増えたのは不愉快である。いまタバコの害を言うものは、以前言わなかったものである。いま言う害は全部以前からあったものである。それなら少しはそのころ言うがいい。当時何も言わないで、いま声高にいうのは便乗である。人は便乗に際して言うときは声を大にする。ことは正義は自分にあって相手にはないと思うと威丈高になる。これはタバコの害の如きでさえ一人では言えないものが、いかに多いかを物語るものである」『良心的』

 この世代は良くお説教をしてくれたもので、物事を謙虚に見つめ、日常を洞察的に客観視し、人の道をよく言い当てたものだと思った。苦言であり名言であると思う。それにしても、文語で流暢に文章を書く人が、口語体だとかなり辛辣なので驚く。
 さて、紹介にはこんな風にある。

 文語は江戸の雅文を明治に擬古的に再現した若い文学の文体であって、日本の伝統でもなんでもない。いやさすがにそこまではいいすぎかと思うが、近代ナショナリズムが西欧のロマン主義を受容しやすく構築した偽物であって、翁が批判するその後の岩波語が科学的社会主義の受容のための偽物構築物であるのさして変わるものではない。
 むしろ読み返して、擬古文というもののその若々しさに圧倒された。かく屁理屈をこねながらも尊敬の念は湧く。擬古文をものした人々は当時の普通の教養人であり、この教養たるやたしかに古典を吸収するインターフェースともなりえたものだろう。すごいな。

 私には擬古文などものにできるものではないが、先の「「文語」で身につくほんものの日本語」で何か蘇ってきたと感じていたのは、やはり、昔暗記した百人一首のたり・ら・りらみたいな言葉のリズムと響きだろうか。文語を学ぶなら朗読に限ると思う理由も、その辺にあるのかもしれない。CDで探したことはないが、ネットでも朗読が見つかる。
 「朗読【名作を読む】TEDの声(日高徹朗)では、作家ごとにかなりの数が収録されている(参照)。人の流暢な読みが心地よく、自然に文語が入ってくるのがわかる。
 因みに森鴎外の「舞姫」(1・2)はこちらのページの一番下にある(参照)。聴きながら、目で原文を準えるようなゆったりした一時が楽しみである。

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