2011-04-29

山本夏彦氏にもう少し近づいてみる

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完本・文語文
(文春文庫)
山本夏彦

 アマゾンに注文してある書籍の配送がいつもより遅れている。翌日か、翌々日に届くのが当たり前のようになってしまっているためそう感じるのは分かっているが、待ち焦がれてしまっている。早く恋来い。数冊注文した内、待っているのは、故山本夏彦氏の「完本・文語文」(参照)と「夏彦の影法師-手帳50冊の置土産(山本伊吾)」(参照)だ。
 文語文に触れてみたくなった理由については、このところの一連の話をつなげてもらうと分かると思うが、一言で言うと、日本語のにおうような美しさにもっと触れたくなったことだ。今まで知らなかった言葉の美しさに触れて、「におうように美しい」と、サラッと言えるような格好良さを身に着けてみたいものだと思った。それというのも、有名塾講師鳥光 宏氏の「「古文」で身につくほんものの日本語」(参照)を読んですっかり嵌ったからだと言い訳しておこう。

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夏彦の影法師
手帳50冊の置き土産
山本伊吾

 昨日も山本夏彦氏の人物像を描くために少し情報を集めてみたが、「やぶから棒」(新潮社)に掲載された氏の短い言葉からも感じたが、物事の真意を見極める洞察力や研ぎ澄まされたその感性は魅力的だ。そして、夏彦氏をもっと知ることが出来る本だと推測するが、引き続き「「夏彦の影法師-手帳50冊の置土産(山本伊吾)」(参照)の紹介があった。しかも、夏彦氏のご子息である伊五氏が、夏彦氏の一周忌直前に発刊した本だ。このことを知った私は、ある種の嫉妬のようなものを感じ、それは、私と実母にはない親子関係のような気がした。
 ここで思い出したのが、山本七平と加納明弘の親子関係だった。七平氏と息子さんの良樹さんの共著である「父と息子の往復書簡―東京‐ニューヨーク: 山本 七平, 山本 良樹」(参照)は、アメリカに住む息子さんと七平氏との手紙のやり取りをそのまま書籍に収めてあり、昔話を交えながら父が息子に語りかける様子に、その愛情の深さを感じた作品だ。また、加納明弘氏の息子さんは、父親の全共闘時代を生き抜いた話をその人生観と共に聞き取った話を「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!(加納明弘、加納建太)」(参照)に書き留めている。
 何故男親と息子と言う組み合わせであって、母親と娘ではないのかと不思議になる。亡くなった父親をしのんで息子が父親のことを書き残そうとするところに感動を覚える部分だが、そういう息子を育てた父親の愛情の深さや、息子の父親を慕う気持ちにそう感じる。そして、昨日紹介された「夏彦の影法師-手帳50冊の置土産(山本伊吾)」は、夏彦氏が使っていた50冊のメモ帳から出来上がった書籍だと知った。
 エントリーでは、次のように紹介されている。

 夏彦氏がなくなって10年もして本書を読む、つまり、彼の残した手帳を読んで思うことのひとつは、簡素に書かれたメモ帳から見える時代である。特に「第五章 意外で愉快な交友録」に顕著だが、彼の全盛であったころ、昭和の後年から彼の晩年までの幅広い交友関係の話は興味深い。一件偏屈にも見える夏彦翁には芸能界・文芸界から政界にいたるまで幅広い交友があり、そこから、ああいう時代だったなというのが時代の息吹として見通すことができる。バブルの風景の裏側という部分もある。あの時代を生きた人なら、本書のここを再読することは独特の感興をもたらすだろう。巻末には索引として「山本夏彦が出会った人たち」もまとめられているが、これだけでも簡素ながら歴史資料になるだろう。

 激動の昭和と言ったらよいのかな。バブルの風景は凄まじい時代の移り変わりであり、見たくもないものを見、知りたくもない人の薄汚さもみた。昨日引用した「やぶから棒」にもその影が見えたが、当時若かった私の視点とは違い、大正、昭和の古きよき時代の人の視点は興味深い。
 また、もう一点、読みたい気持ちがさらにはやったのはこの下りだ。

 言うまでもない。彼はその青春の記録を「無想庵物語」の続として残したのだろう。であれば、彼が公案のごとく残した少年の日々、フランス生活時代の、二度の自殺についても、なんらかのヒントが本書に描かれているかと期待する。しかし私は読み取れなかった。私の読解力が足りないのかもしれないが、息子の伊吾さんも、夏彦氏の愛読者がそこを気にしているのを了解しつつ、うまく解明できていないようだ。こうした問題は、いわさきちひろの評伝を飯沢匡が書いたように、第三者でないと無理なのかもしれない。私には到底その力量はない。

 自殺を図ったと言うことは勿論知らなかったが、生きて残したものが多くあり、死の直前まで執筆を続けていた人物だけに、若かりし頃、何を思い悩んだのかと知りたくなった。また、生き長らえた夏彦氏の持っていたエネルギーは何だったのかと知りたくなった。夏彦氏の書いたものを読み込んできたわけでもない私にどれ程のことが読み取れるのか分からないが、人の生き死の瀬戸際から教わることは多くある。読む前から想像ばかりを膨らましてしまってもどうかという嫌いはあるが、何とも止めようがない。
 昨日、友人からお呼びがかかり、訪ねてきた。彼女との話しの中で、このところ私が何故文語文に興味を抱き、今更ながらそれにもっと触れようとしているかなどの自分語りをしているうちに、子育てや日々の忙しさにかまけ、すっかりくすんでしまったものが見えてきた。それは、磨けば輝くのかどうかは分からないが、昔から言われているように、女は磨くものだというようなものかもしれない。トイレの神様昭和ヴァージョンと言ったところだろうか。何も見えないにもかかわらず、なんとなく先の楽しみのようなものを感じた。
 そうそう、先ほど(4月29日午前1時)発売スタートしたiPad2を早速Appleのオンラインストアー()から申し込んだ。これも、私の道楽のようなものかもしれないが、これもなんとなくだが、何かを暗示するようなものを感じた。

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