2011-04-04

シーソーのような攻防を展開しているコートジボワールの内乱について雑感

 このところ、コートジボワールでの内乱がシーソーゲームのようにバグボ側とアタラ側の攻防が行ったり来たりしているようだ。ここでも折に触れて書いてきたことだが(参照)、内乱が治まる気配がまるでない。
 繰り返しになるが、昨年11月、国連が見守る中で前大統領バグボ氏と国際社会が認めるアタラ氏の大統領選挙を行った結果、バグボ氏が負けた。ところが、バグボ氏はそのまま政権の座に居座っているため二人の大統領が権力争いに走り、実際、国を二分する形となってしまった。これが次第にエスカーレートし、内乱へとつながった。
 3月31日、BBC「Ivory Coast: Ouattara forces surround Gbagbo in Abidjan」(参照)が伝えていることによると、バグボ側の一部の警察部隊と軍司令官が離党し、戦力的に衰退していると報じたためこのまま白旗でも揚げて降参するのかもしれないと感じたのだが、それは甘かった。復活してきているらしい。また、記事では、フランス軍の装甲車が町を巡回しながらフランス国民の安全に努めているとしている。フランスは、コートジボワールの宗主国でもあったため、植民地時代からフランス軍基地も置かれている。アタラ側は、先週木曜から日曜まで夜間の外出禁止命令をだして治安に当たっていた。
 この緊張は、バグボが隣のリビエラから爆撃機を輸入する動きを阻止するため、西部のドゥエクエでアタラ側が非常線を張り、争乱が激しくなった後だっただけに気を揉んだ。昨日のCNN日本語版「コートジボワール内戦、西部激戦地で死者800人か」(参照)では、次のように報じてる。

(CNN) 赤十字国際委員会(ICRC)は、大統領選結果をめぐり混乱が続いているコートジボワールの西部主要都市ドゥエクエで先月28日と30日に激しい戦闘が起こり、800人に上る大量の死者が出たと発表した。
国連当局者によれば、ドゥエクエでの戦闘の際、330人が死亡。うち220人はワタラ氏側の支持部隊が、残る100人はバグボ氏側の政府軍が殺害したとみられている。これに先立ち、赤十字国際委員会の広報官は31日、犠牲者の大半は一般市民だと述べていた。一方、ワタラ氏陣営は支持豚による殺害を否定している。
最大都市アビジャンの掌握をめぐり激戦が続くなか、3月下旬にはバグボ氏陣営の敗色が濃くなったとみられていた。しかし2日にはバグボ氏側が巻き返し、ワタラ氏側が掌握したとされていた国営テレビをバグボ氏側が奪還。ワタラ氏陣営への反撃を呼びかけるバグボ氏の声明が流れた。

 また、BBC「Ivory Coast: French forces take over Abidjan airport」(参照)ではフランス軍の関わりについて、首都アビジャンの治安と空港の保護のため、フランス軍は300名を派兵したと報じている。

France has sent an extra 300 soldiers to Ivory Coast, defence ministry spokesman Thierry Burkhard said, taking the total French force to about 1,400.
フランスは、コートジボワールに300人の兵士を追加的に向かわせた。国防省のスポークスマンティエリブルクハルト氏は語った。これによって、送り込んだフランス兵士は約1,400名となる。

The airport had been secured by UN troops since Friday, but the French move meant the airport was now able to re-open, Mr Burkhard told the BBC.
金曜日から空港は国連軍によって占拠されていたが、このフランスの動きにより、空港が今や再開できることを意味しました、とブルクハルト氏はBBCに語った。

 このような動きを垣間見ている中、昨日、自分の中で大きく抜け落ちた部分があったことに気づかされた。そして、この国の情勢をどう見ているか、まずそれが問われた。国連の立会いで行われた選挙であることから、その関わりの正当性の是非がどこまでも問われることだと感じた。
 ここ数日のコートジボワールの動向を見る限り、フランス軍が関わった事で大きな出来事はなかったかに思われる。ところが、ここへ来て300人の追加的な派兵があった。これにひどく反応した私は、何が許せなかったのか、そして、今まで許せたのは何故かを問われた。
 この国の平和を願うことは、現在の流血戦の是非を問うこととは別問題である。国連が公正だと認めた選挙結果に従わないバグボ氏が、その座から退くまで見守る上で、軍の力も必要であるなら同じように血を流すこともあるということ。この理屈が分かっていれば、フランス軍の派兵に驚いたり批判的になったりはしないはずだ。が、心のどこかに、争いごとにだけに反応するものがあるようだ。私の思いも、次第に変化してきたように思う。早く内戦が終わって欲しいと思う時、これ以上残酷で無残な状態を見たくないという心の中のざわめきが煩わしいさとして存在する。争いごとが長引くと、次第に私の気持ちも、私が見たくないからやめて欲しい、と変化していることに気づいた。その嫌気から開放されたいと願うのは、他人の平和を望むものではない。状況を知れば知るほどそれが強くなるのは、自分の心の平穏を望む部分なのだと思う。勝手なものだなと思う。抜け落ちたのは、願っているのは何か、だった。
 しかし、一方では、決着が着くまでとことんやるべしと見ている部分もある。そうやって求めていることを明らかにして行くことも、自らの願いとして勝ち取ることから始めなけらば本当の自由や平和は掴めないのじゃないか、と、そう思って見守りたい部分だ。
 これを認めることが、私の心の葛藤に決着をつけることなのだろうか。深く沈んだ気持ちになった。

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