2011-03-16

「天罰」は法華教の教えだった

 石原慎太郎氏の「天罰」発言が少し話題になっているようです。昔からメディアのネタとして取りざたされることの多い方で、ああまたか、という程度にしか思っていませんでした。石原さんの今までの発言は、世間への啓発的にも聞こえるし、時には批判として痛烈な場合もあったと思いますが、私個人としては、このような言い回しに耳慣れています。と言うのも、祖母が同じような言い方をする人で、母も少し似ているからです。時々、辛辣だなと感じることはよくありましたが、言われていることはごもっともなことだと反証の余地もなく、それで話は終わることが多かったのです。このこともあって、昔から、石原さんの発言にいちいち引っかかることもなく、石原さんがかっとなって何かを言っても、それは、東京の親父さんを怒らせたくらいに受け止めていました。そして、その度に思っていたのが、何故、記者がいちいち取り上げるのかという疑問のようなものでした。
 今回の「天罰」発言もそうで、この言葉を昔の人が言う時は、当然、天が与える罰として自分も含めた全ての人が対象です。たまたま東北で被災された方が含まれてしまうので、それを含めるつもりはないと前置きした上での発言で、撤回するに値しない意味合いで言われていたと思います。このような言葉は、若い記者には解釈できないのかもしれません。言葉尻にばかり飛びつくのは、まるで食べ物に群がるハエのようにも見えます。今回の地震と津波で日本中が敏感になっている時に、この発言に反応する人達もいるだろうなくらいに思った時、石原さんが被災者に向けていっているのではないと解釈できるのは私くらいの年齢からかもしれないと思いました。
 これが私の印象です。が、極東ブログでもこのことを取り上げていて、年齢で理解できる部分とは別に、石原さんの信じる教えという点からの解説が興味深く、そこには、私の長年の謎を解く鍵がありました。(参照)。その部分について、少し触れておくことにします。
 30年近く前に他界した私の祖母が、子どもの私を叱る時に何故「罰が当たる」とか「天罰」という言葉を使っていたのか、ずっと謎でした。その理由ではないかと納得できる説明にやっと遭遇したのです。次の部分が私の祖母を知る手立てとなることで、引用させてもらいます。

書き起こしながら思ったのは、共同通信・産経新聞記事が注意を払っているように、何に対する「天罰」かという点である。文脈を理解すると、石原都知事は、これを被災者に限定していないことは明白だろう。 さらに石原都知事の思想信条に近く読み取るなら、「天罰」の対象は日本国民であり、日本国民はこの天罰を全うすることで、災害の被災者の霊魂が救われるのだと考えていることがわかる。被災者に対して、ざまーみろといった意味合いはまったく読めない。むしろ、自身を天罰の対象に含めているとすら見てよいかもしれない。

 ここです。祖母が叱る時も必ず人として、してはならない事だと諭していました。このような時、祖母は穏やかで、目線は私ではなくどこか遠くを見るようでした。祖母自身がその言葉を自分に言い含めるように話していたのでしょうか、子どもながらに、祖母は誰に言っているんだろう、という疑問を持ったその仕草の記憶があります。これが、法華経の教えからであったとは。
 私は、法華教を(も)学んだわけではありませんが、法華教について私が想像して言えるのは、対立する二元論的な現実を捉えてそれを円満に解決する教えではないかということぐらいで、これに当てはめてよいものやらちょっと疑問ですが、例えば、普段こまめに片付け物をしていないから大切なものが無くなるとかです。普段の生活に何でも当てはめられます。考えてみると、大人が子どもを叱るのに都合もよかったのかもしれませんね。石原さんの発言も、悪政に対する「天罰」として、災害を当てただけだと思います。但し、被災者に対して向けた言葉ではないのは勿論で、次の部分がぴったり来ます。

 法華教教派の信者である石原都知事にしてみれば、現下の日本は「立正安国論」の同様の状態、つまり邪教民主党興隆によって天罰を受ける状態に見えるのではないか。日蓮のように、日本を糺すきっかけとしての天罰に見えたのではないか。

 石原さんが都知事に立候補した理由を「国家破綻への危機感だ。東京が混乱すれば、国家の喪失につながりかねない」と述べていますが、「天罰」の出所も、石原さんの中では政治と言う文脈で筋が通った話しだと思います。
 とても不思議ですが、石原さんのこれまでの言葉は祖母の言葉とも重なり、ますます、祖母が法華教教派の流れを受けていたとしか思えなくなりました。ただ、お経を読んだり信心深い人ではありませんから、これは単に、昔の人は法華教になぞらえてこのような言い回しをしたというだけなのか、よく分かりません。
 意外なところから、30年近く前に亡くなった祖母のことを思い出すきっかけとなりました。私は祖母から学んだことが沢山あるのですが、それは亡くなってからずっと後にその意味が分かったことが多く、いまだに答えが出ているわけでもないのです。当時、理由を聞いても説明してくれたことはなく、「大人になれば分かる」とだけ言われました。当然、大人になっても分かるわけではなく、疑問のままです。
 疑問や不可思議な気持ちを抱くことをは学びの原点であり、簡単に持論を見せないのは、子どもを考える人に育てる大人のあり方とも思います。それを学んだのは祖母からでした。知らないうちに、私は祖母から法華教を学んでいたのかもしれません。

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コメント

石原氏のコメント・・・
私は旅行記としてブログを開設しています。
今回の地震について触れた時、「自然界からの人間への天罰・・・」と書きかけてやめました。
ほとんど訪問のないブログでも、安易には書いてはいけないと判断したからです。
基本お気楽ブログでしたし。
30代としても、法華教を知らなくとも、周りの教えがなくとも理解できます。
ただ、公の場で発するには(立場的にも)適さなかった
ような気がするのです。

投稿: mtk | 2011-03-16 10:57

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