水たまり遊び
久しぶりに二日に渡って雨が降りました。それも、丁度、犬を散歩に連れ出そうかという時間に降っているのです。犬は雨なんてへっちゃらのへとは言え、後の始末が大変なことになるので、レインコートを着せて昨日は決行しました。いつも会う散歩仲間には誰にも会うことはなかったのですが、小学生の下校と重なり、行きは低学年に帰りコースでは高学年に遭遇し、一緒に歩く楽しい散歩となりました。うちの犬は7ヶ月を過ぎたばかりなので年齢的には人間の小学生が丁度遊び相手に良いのか、積極的に子ども達の方へ向かってじゃれ付きます。生き物を飼っていないのか、慣れない子は恐る恐る近づいては様子を見ながら触ったり撫でたり。噛み付かないと分かるまでたっぷり時間がかかるのですが、私は足を止めて見守ることにしています。
大したことではないのですが、昨日はうれしい光景を目にすることが出来ました。
水溜りを囲んで、3~4名の子どもが水を飛ばして遊んでいるのです。私が小学生の頃も良くやったな、あれ。周囲の泥を盛り上げて堤防にしてそこを攻める遊びとか、静かに遊んでいると荒々しい男子がやっていてびちゃっと潰したり。同じようなことをして遊んでいるその子らを見て、なんだかほのぼのしたのです。
あれは、息子が小学生の頃でした。担任に、転校生である息子が流行らしたという水溜りの遊びがまた復活してよかった、と言われたことがありました。この意味はそのままで、水溜り遊びをする子がいなくなって寂しく思っていたのでしょう。親元を離れて、息子が三重県の阿山町(現伊賀市)で低学年時代を過ごした話は以前したことがありますが、そこは超田舎で、学校まで3kmほど小高い山の間に車一台が通れるくらいの砂利道で、用水路を隔てて田んぼに囲まれたのどかなところでした。そこを一緒に暮らす仲間と学校に通い、道草を食った話は傑作集がきるほどで、面白いことが連日起こっていました。ここで生み出された様々な遊びは、そのまま息子と共に転校先であるこの地元小学校に輸入され、センセーションをもたらしたのです。親としては、快く受け止めてくれた先生にも感謝なのですが、実は、田舎育ちの息子と町場育ちのこの地域の子どもと交流はどうなるものかと不安でもありました。学校から借り物のパンツやズボンを着て帰宅する息子を家で迎えるたびに、今日はどんなイタズラをやったのかと、話を聞くのが楽しみなようでもあり、冷や冷やものでもありました。
これらの遊びが成長には必要だということを教育者から言われずとも自ずと知れたことで、私と同世代だった担任も遊びの必要性を何かに感じていたのではないかと思ったのは、当時、中高生が非常に荒れた時代でもありました。小学校の隣には大概中学が建ち並んでいますが、小学生には見せたくない光景が多々ありました。喫煙や駐車中の車への悪戯などです。また、非行も多く、夜中の徘徊で警察に保護されたり自転車泥棒をしたり。服装もかなり乱れ、茶髪やピアスをして粋がっていました。近づけたくないと思う親は多かったと思いますが、そういうことに蓋が出来るはずもなく、近所でも悪戯に会わないよう注意していました。ただ、これは他人事ではなく、少なからず我が子もその影響を受けながら育つのです。かわいい小学生が数年するとああなるのね、と危機感を抱く元には、非行に走る中学生には何かが足りないと思ったものでした。それが、水たまり遊びや下校途中の道草などの遊びに隠れた何かだったのだろうか。
この遊びが近所の小学生達に戻ってきたのか、とそう思えて昨日は嬉しかったのです。水遊びの面白さや、犬などの動物を見て何かを感じ、触れてみて何かの感動に遭遇する。何でもいい。いろいろなことに触れる機会があればあっただけいいんじゃないか。
最近、若い人達が優しくなったと言う人がいて、もしかしたら今のこの世代は、子ども時代に子どもらしく遊んで育ったのではないかと感じていたのです。子ども時代に子どもらしくあるというのはどういうことか、それが分からない親世代もあると思いますが、子どもが荒れている時は大人も荒れている時です。何かと自分に返ってくるのですが、今の政治はあまり良くないけど、子ども達は優しく、大人社会も総じて良いと言えるのかもしれません。
不景気だというのに心は荒んでいないのは良いことじゃないか、雨の散歩からそんなことを思いました。
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