小林竜司被告(26)の死刑が確定したことについて
昨日、小林竜司被告(26)の死刑が確定した(毎日)のを知り、「こういう人は、牢獄で一生を送るとよい」と思い、判決には無念さがありました。理由は、判決が出るまで彼は、自分の罪に充分向き合ったとも言えない上、この先時間があればそれを満たす能力のある人間かどうかもまだわからないからです。私は、基本的に死刑には反対で、それに変わる終身刑賛成者だからという理由が判決に不満であるのとも違います。かといって、無期懲役が相当かとも思えず、なんとも複雑な思いでした。
![]() 慈悲と天秤 小林竜司との対話 岡崎正尚 |
人が人を裁く極限に死があっていいものだろうかと悩んだ頃もあったのですが、そういう悩みを持っていたのは若い頃で、今思うとあれは青かったなと思います。今回のケースは、審議が不十分ではないかという疑問が残っていることが前提にあるので、死刑判決は時期尚早の嫌いがあります。またしても残念に思う結果となりました。そして、「慈悲と天秤 死刑囚・小林竜司との対話」(岡崎正尚)(参照)を読んでから、この思いは違った意味で一層強くなったのです。
判決を聞く被告の家族や被害者の家族の心痛はそれなりに汲み取るのですが、無期懲役の判決が出ると、往々にして被害者の家族の痛恨の思いが多く取り上げられます。そして、その声の多くは死刑を願うものですが、死をもってわびて欲しい、死んでもらうことが救いだという訴えは、冷たい言い方ですが、怒りの気持ちを静めるために死刑を望むことには違和感があります。家族を愛しているということの裏返しだということはよく分かりますが、裁判の判決にはそれは含まれないことです。家族の思いは尊重されるとしても、それが判決を決定付けてはならないのが司法の意味だと思います。
反対に、加害者の判決に同情が加味されるかという問題であれば、「情状酌量」の余地がそれで、判決には含まれます。犯罪の軽重によっては、犯罪者にも生きる権利と改心のチャンスを与えるということだと思います。その余地の無いほどの残虐極まりない罪と求められれば、死刑という極刑を言い渡されます。
小林竜司被告の犯した罪自体は、死刑が相当だといえるのだと思います。が、そうであるなら、一生牢獄で苦しむがいいという思いも捨て切れません。自分の侵した罪を省み、社会生活に復帰することは認められずに狭い獄中で苦しむがいいと思うのです。これは、日本の無期懲役とは違います。出所のチャンスの無い刑です。彼が、罪の意識の無い人物であれば終身刑といいたいところですが、実はそうでもなく、日本の法律では罪の重さで判決が下ります。
実は、極東ブログ「[書評]慈悲と天秤 死刑囚・小林竜司との対話(岡崎正尚)」(参照)を読んで気づかされたのですが、この事件が今の法制度(裁判員裁判)であれば、彼に罪に向き合うチャンスを与えることができるのだと分かりました。つまり、死刑を回避することは刑を軽くするのではなく、彼に考える時間を与えることに等しくなると思えたのです。
岡崎氏(著者)の本についてですが、一言でいうと、分類するのが難しい本です。さまざまな疑問を提起していくかに読めるのですが、彼自身の意識がその問題にのめり込み、引きずられるように書き綴っています。これは、自己陶酔しているようでもあり、それを見ている第三者の立場としての私には複雑な思いが残りました。
二人は友情を温め、岡田氏はやがて小林被告を応援して行く姿に変わってゆくのですが、これはこれとして、だから応援側に回るという展開と、同時に、刑を軽くしてもらおうという気持ちの流れにはついていかれません。それを残念とも思わない私ですが、その理由に、岡崎氏がアスペルガー症候群を病んでいて、対人関係に苦労する姿を描写の中に読み取ることができるからです。公私混同という言葉が適切では無いかもしれませんが、岡崎氏の訴えを、「無罪」や「刑の軽減」に反映できることとは思いません。先に述べた、家族の気持ちを判決に結びつけられないのと同じ理屈です。
私のこの本を読むきっかけは、事件の真相や犯罪者の獄中での思いに触れてみたいという思いからでした。それを岡崎氏の視点でどう捉えているのかという点が関心事でしたが、そういう視点で理解するのは難しかったです。むしろ、岡崎氏と獄中の小林被告との友情の実話として、そう捉えると、加害者と弁護士志望という二人の青年の感性として見えてきました。次第に、生きる苦悩を共感し合う話ではないかと思えたのです。立場の違う二人が生きることへの苦悩に共鳴しながら、友情を温めてきたという見方に変わったのです。
そこへたまたま死刑判決が下ったのは、その苦悩から逃れることを幇助(ほうじょ)することになりはしないかと思えたのです。この「幇助」ということばが示すとおり、死刑が彼の死の願望を叶えることになるのです。
この事件について:報道されたことが記憶の中にもあるとは思いますが、Wikipediaでは「実行役リーダー」として記述があります☞「東大阪集団暴行殺人事件」
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コメント
1年近く前のBLOGへのコメント申し訳ございません。
この事件に興味があったので、その後の判決を調べていたらここにたどり着きました。
死刑判決については賛否両論色々な意見があるでしょう。しかしながら貴方の仰られている「終身刑」の制度には私は反対です。
その理由は終身刑の囚人が生きている間、国の税金で一生面倒を見なくてはならないからです。
囚人本人は精神的に苦痛を味わう事になるかもしれませんが、生涯、食べるのに苦労することはありません。毎日決まりきった時間で刑務作業も終わり、衣食住に困ることもなく一生暮らせます。
辛い残業もなく、会社が倒産して路頭に迷うような状況にもなりません。刑務作業は利益度外視ですから、民間の会社で危機感を持ちながら仕事するのとは訳が違います。
月日が経てばそのうち反省という感情も少しずつ薄れていき、何も変わらない日々をただ淡々と塀の中で繰り返すだけになるのが安易に想像できませんか?
これでは犯罪を犯さずに真面目に働いて少ない給料からでも税金を収めている人の方が馬鹿を見る構図になってしまいます。
今の時代、若者ですら就職難でネットカフェ難民の方も大勢います。これから先の見通しも決して良くありません。
囚人の「反省のためだけ」に衣食住の生涯保障をするより、もっと先にやるべきことはありませんか?
この終身刑という制度を本当に取り入れるなら、孤島で完全自給自足の生活をしてもらうぐらいでないと、意味がありません。
もしくはそれを支持するボランティアの援助だけで彼らを養っていただきたいと私は思っています。
投稿: 通りすがり | 2012-02-10 23:46
オマエの家族や肉親を嬲り殺しにされてから同じ事言えよ
アホ丸出しだな、無責任な偽善者ぶりっ子
死ね、クズ
投稿: 馬鹿言ってんじゃねー | 2015-07-19 15:04
馬鹿言ってんじゃねー さん、
「死ね」という文言から、貴殿の情報と共に、警察に通報いたします。情報が集まり、犯罪性を帯びれば、捜査となります。匿名だからといっても罵倒などは品性のない本性そのものです。
投稿: godmother | 2015-07-20 09:56