2011-02-15

挫折した私-ムバラク氏の悲劇の始まりと一緒だったつこと?

 昨夕、NHKで時計職人として生きた男性を取材した番組をラジオから聞きながら、私の半生を振り返っていました。私の小さな頃の夢を話すのは自分でも照れ臭いのですが、いろいろあったなと思うとここに書いておきたくなりました。そして、私の挫折というべきか、20代で舵を切ったと同じ頃にムバラク政権が始まり、少し感慨深いものもあります。
 記憶の中で一番最初の私のなりたかったことは、水泳のオリンピック選手でした。小学生だった私は、東京オリンピックで見た選手に感動し、その影響で、紛れもなく将来の目標となっただけなのです。当時、泳ぎが速かったので、水泳の選手になれそうな気がしたのでした。卒業間近になると、大阪の山田スイミングクラブから声がかかったり、他校の小学校の先生から、「中学で水泳をするならうちの小学校の水泳クラブで鍛えてから行ったらどうか」という話しなども持ち上がっていたのでした。山田スイミングクラブと言えば、日本のスイミングクラブの最初期の水泳の英才教育をするクラブで、水泳選手の憧れでもあったと思います。東京オリンピックで敗退した日本の水泳界を盛り上げようと立ち上がったのは、ロート製薬のオーナー山田輝郎氏でした。しばらくどうしようかと真剣に考えていたことを覚えていますが、私は、足も速く、陸上選手への道も平行して持っていました。どちらにしても、小学生にありがちな、得意なことが将来なりたいものへ直結しただけの話しなのです。幼いながらにも、陸上はどこでもできる競技で水泳はちゃんとしたプールがないとできない、という判断で陸上選手に決定したのです。
 中学ではそのまま陸上部に入部したのですが、バスケット部の上級生(女)がやけに大人っぽく、シュートする姿がカッコよくていつしかバスケット選手に憧れたのです。なんだか、身近に見るもの全てのことになれそうな気がしていて、それも全て「選手」という枠に入っているのですが、どこの選手とか、どのランクの選手と言った具体性のない目標の置き方は目標とも言えない様な、既に甘かったのかもしれません。陸上で全身の運動能力を高め、高校ではバスケットをやろうという目標は立ったのですが、その頃はもうオリンピック熱は冷めていました。何かの選手になろうなどという野心はありませんでした。
 一方、ギターにはまったのも中学の頃でした。PPMの美しいメロディーに憧れ、特に上手とも言えなかった歌を歌うようになり、同級生の男子に誘われるままにグループ結成まで行ったのです。卒業前の音楽発表会のような場で歌わせて欲しいと先生に頼み込んだはいいのですが、学校で教える音楽とは違うという理由で却下されました。後にこれが発端で、学校のあり方に疑問を持つようになり、ボーヴォワールや何故かサガンなどを読み始めることにつながりました。
 ギターはというと、趣味の範囲で終わったな。お小遣いをためて買ったギターはいまだに実家にあり、時々弾くこともあります。中学では、練習の成果を見て欲しかっただたに過ぎないのですが、教師の判断に反発心だけが芽生えたようです。こんな私でしたから、高校進学の時、担任は、封建的なムードに包まれている歴史ある女子高への進学はやめれ!と一喝。あんたは、男女共学のバランスのよい学校のほうが似合っていると言われ、進学校ではあったけど県内では一番じゃない公立の共学に進んだのです。しかも、担任はずるかった。私が高校でバスケットをやりたがっているのを知っていたため「あの高校のバスケ部の先生は国体の監督をやっているし、選手も送り出しているからあんた次第よ」という殺し文句を言ってくれたのでした。
 また、高校からバスケットを始めて国体選抜になるようなキチガイは普通いないのですが、私はそのキチガイでした。明けても暮れてもバスケットだけの高校生活でした。そして、中学で憧れていた先輩が、偶然にも同じ高校で、バスケ部の部長さんでした。舞い上がって喜び、同じリングに向かってシュートできることだけを目標に練習に励みました。なので成績はどんどん落ちたのですが、中学の貯金でここぞという時には点が取れたのでした。文武両刀だったとは言い難い中途半端な状態でしたが、建築家を目指して進学も決まったのです。ここで何故建築家を目指したのかは、なりたかったと言うほどの夢は持っていませんでしたが、創造的な仕事につきたかったことが主な理由で、母の影響から手に職をつけることが優先でした。同級生は、事務員などをしながら職場で結婚相手を見つけるみたいな事を言わないまでも、それが当時の女子の一般的なレールで24~5で結婚するのが普通でした。そのためか、同級生は皆結婚が早かったようです。が、しかし、離婚者もかなり多く、中学卒業後35年目の同窓会で私は「辛抱あるね」と誉められたのでした。私の結婚は、当時としてはとても遅いほうでした。
 振り返ってみると、小学生から高校くらいまでは、なりたいものと言うよりも、やりたいことばかりやっていた私でした。なりたいものが見つからずに終わったのはそのためだと思いますが、やればできることは沢山あります。でも、そこそこしかできない。だからと言って、飛びぬけてできるようになりたいという願望もないのです。多くを望むことはなくなった理由に、時代があります。どんな道でもいいのですが、その手のトップを目指すことは、人の中を薮漕ぎするような我武者羅な力が必要でした。小学生だった頃、何かになることは一番になることであったように、競争して勝つことしか残る道はなかったような時代でした。その競争に価値観が置かれ、それが評価されたような時代に染まることができず、結局、自分のしたいことに道が逸れたというべきか、救われたというべき人生を送った私でした。
 この先にも自分語り的なことが沢山ありますが、今日はこの辺でやめておきます。いつか書きたくなったら続きを書こうかと思います。
 話しは散漫になりますが、ムバラクさんの辞任後が気になってどうしているかなあと思っていたら、昨夜、病気だという説があることを知りました(参照)。これは、デマかもしれない違うかもしれないとのことですが、30年間独裁者であり、82歳という高齢で病気なら、棺おけに半分足を突っ込んでいるようなものです。普通、独裁者と言われる人は、政権から退いた瞬間に国外逃亡がその終末の筈です。または、その前に暗殺か。ムバラクさんはどこへ鳴りを潜めているのか、消息が途絶えてしまっていることを奇異に思っていました。
 これは極個人的な思いですが、私は独裁者であるムバラク氏を悪くは思っていないのです。いろいろ噂されている人ですが、政治家としての功績も残しているし、それがムバラク氏個人の私服を肥やしただけではないし。それと、最後の引退表明くらいムバラク氏の幕引きとして、自身で語ればよかったのじゃないかなと思っていました。
 そして昨夜から日が変わって直ぐのTwitterで目に留まったNewsweekの記事「The Tragedy of Mubarak(ムバラクの悲劇)」(参照)では、彼自身は国のために身を粉にして働いたという苦労話などが語られていますが、市民の反発が大きなデモとなったのは、ムバラク氏が30年間、国の変化を理解してこなかったという答えだと締めくくられています。こういうのを身から出た錆と言いますが、これにはちょっと複雑な思いがあります。
 ムバラク氏の前のサーダート氏の暗殺後、副大統領であったムバラク氏が昇格して大統領になり、サーダート氏を継ぐようにイスラエルとの和平を保ってきたのは彼の功績だと思います。サーダート氏が暗殺された背景にあったパレスチナのアラブ人同胞に対する裏切りという反感などが残る中、イスラエルとの和平をそのまま維持してきたのはムバラク氏の独裁政治ではあったかもしれませんが、あの時代のあの情勢下ではムバラク氏のようなリーダーが必要だったはずです。
 30年間で国が変わったというのであれば、私は、サーダートに続く暗殺がエジプトに再び起きないことを願っています。

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