カダフィという人物について
ムアマル・アル-カダフイ(Muammar al-Gaddafi )、リビア国家元首。彼の生まれは不詳、一説によると1942年6月。リビアでは、反政府運動が始まった途端にあっという間に情勢が変わり、カダフィーはとうの昔に国外逃亡してしまっているという説も出てきて、その逃亡先もベネズエラという話があります。確かに、中東の狂犬・カダフィを迎えてくれるのは南米の異端児・チャベス大統領ぐらいかも。
何も掴めないままこの騒動が終息に向かっているようなのです。そして、この流れを極東ブログの「リビア争乱は問題として見れば始まりとともに終わり
」(参照)の解説で知り、出口とは言わないまでも、政体の変化の読みに納得できます。
そこで私が少し興味を持ったのは、カダフィという人物そのものです。欧米で「mad dog」と呼ばれてきた彼は、私の見たところ抑圧者、テロ支援者、誇大妄想狂と、あまりよくない印象です。が、リビアをそれなりに率いて41年間、世界が貼ったレッテルの通りの人物である部分とは裏腹に、リビアにとってはどうだったのか、そのことはあまり考えませんでした。昨日、リビア・エジプト戦争について触れながら(参照)、カダフィのこれまでの軌跡を辿ってみたくなりました。
「狂犬」と呼ばれたのがいつのことか知りませんが、彼を我が物顔にさせたのは欧州の扱いにもあったと思います。奇しくもリビアに石油があったため、少なくとも彼の悪口を言ったり避難を浴びせたりはしなかった筈です。ほんの一例ですが、両国友好協定の調印2周年記念でイタリアを訪問した際の「移民問題」や「イスラム改宗」に対するカダフィの発言は、尋常とは思えない異端児のなせる技のような物を感じましたが、誰も彼とは議論することはないのです(参照)。
また、リビアが密航者の入り口となることや、リビアからカネを持ち出す、そこそこのお金持ち投資家も許しがたいことだという姿勢を見せています。これはカダフィの一貫した政策にもあると思います。彼がアラブの民衆から歓迎された理由に、反植民地政策があると思います。逆に言えば世界から孤立してしまうことになるのですが、アフリカの欧米嫌いには歓迎された政策です。
これは、カダフィが起こした1969年のクーデターによって国王イドリース1世を退位させ時、カダフィが、エジプトのナセル大統領のアラブ民族主義に傾倒していたことが理由です。カダフィがナセルの大ファンであることは周知のことで、カダフィに「大佐」が付いている由縁だと言われてるほどです。このクーデターにより、英米の植民地化の動きを中東から一掃し、アラブの石油利権をアラブのものとする政策によって民族の統一を図ることに成功したのだと思います。ナセル大統領が生きていいる間、この政策によって彼の油の乗った時期だったと思います。
ナセル大統領が生きている間は兎も角、引き継いだサダト大統領が親米路線になり、事態は急変。カダフィの求心力も次第に衰えたため、このへんから彼は「狂犬」に変身してゆく羽目になったのかもしれません。つまり、テロ組織を支援したり、その活動に加担することで自らの地位を維持するしかなかったのかもしれません。この辺で賢く、お隣りのチュニジアのような経済政策をとっていれば、それなりに開発も進み、他国との融合も今よりははるかに進んでいたのではないかと思います。
そして、この暴挙を見過ごせなくなった米レーガン政府は、リビア爆撃(1986年)を行使しることに至ったのではないかと思います。振り返ってみると、この攻撃以来、狂犬でもなくなってきているし、リビアからの情報も少なくなってきていると思います。カダフィの統治力は思ったほどはなく、広大な土地にところどころに住みつく部族の集合という形態も相俟って、彼の権力は、衰退の方向だったのかもしれません。
気になっていたお隣りの金さんは、同じ独裁者という仲間を失うことになりましたが、こうしてみると、カダフィとは格違いに統制力はあるのかもしれません。一応、格を保有し軍備を整えています。リビアの軍のように、始まった途端に空中分解しちゃうような軍(とは言えないような)よりは結束力はあるんジャマイカ。ただ、アメリカからはあと2~3年で終わるとも言われている通り、老衰と病後の痛々しい姿からは迫力がありません。クーデターが起きてもおかしくないのじゃないか、とか直ぐに思ってしまいます。
おっと、話が脱線し始めたので終りにします。
何も掴めないままこの騒動が終息に向かっているようなのです。そして、この流れを極東ブログの「リビア争乱は問題として見れば始まりとともに終わり
」(参照)の解説で知り、出口とは言わないまでも、政体の変化の読みに納得できます。
そこで私が少し興味を持ったのは、カダフィという人物そのものです。欧米で「mad dog」と呼ばれてきた彼は、私の見たところ抑圧者、テロ支援者、誇大妄想狂と、あまりよくない印象です。が、リビアをそれなりに率いて41年間、世界が貼ったレッテルの通りの人物である部分とは裏腹に、リビアにとってはどうだったのか、そのことはあまり考えませんでした。昨日、リビア・エジプト戦争について触れながら(参照)、カダフィのこれまでの軌跡を辿ってみたくなりました。
「狂犬」と呼ばれたのがいつのことか知りませんが、彼を我が物顔にさせたのは欧州の扱いにもあったと思います。奇しくもリビアに石油があったため、少なくとも彼の悪口を言ったり避難を浴びせたりはしなかった筈です。ほんの一例ですが、両国友好協定の調印2周年記念でイタリアを訪問した際の「移民問題」や「イスラム改宗」に対するカダフィの発言は、尋常とは思えない異端児のなせる技のような物を感じましたが、誰も彼とは議論することはないのです(参照)。
また、リビアが密航者の入り口となることや、リビアからカネを持ち出す、そこそこのお金持ち投資家も許しがたいことだという姿勢を見せています。これはカダフィの一貫した政策にもあると思います。彼がアラブの民衆から歓迎された理由に、反植民地政策があると思います。逆に言えば世界から孤立してしまうことになるのですが、アフリカの欧米嫌いには歓迎された政策です。
これは、カダフィが起こした1969年のクーデターによって国王イドリース1世を退位させ時、カダフィが、エジプトのナセル大統領のアラブ民族主義に傾倒していたことが理由です。カダフィがナセルの大ファンであることは周知のことで、カダフィに「大佐」が付いている由縁だと言われてるほどです。このクーデターにより、英米の植民地化の動きを中東から一掃し、アラブの石油利権をアラブのものとする政策によって民族の統一を図ることに成功したのだと思います。ナセル大統領が生きていいる間、この政策によって彼の油の乗った時期だったと思います。
ナセル大統領が生きている間は兎も角、引き継いだサダト大統領が親米路線になり、事態は急変。カダフィの求心力も次第に衰えたため、このへんから彼は「狂犬」に変身してゆく羽目になったのかもしれません。つまり、テロ組織を支援したり、その活動に加担することで自らの地位を維持するしかなかったのかもしれません。この辺で賢く、お隣りのチュニジアのような経済政策をとっていれば、それなりに開発も進み、他国との融合も今よりははるかに進んでいたのではないかと思います。
そして、この暴挙を見過ごせなくなった米レーガン政府は、リビア爆撃(1986年)を行使しることに至ったのではないかと思います。振り返ってみると、この攻撃以来、狂犬でもなくなってきているし、リビアからの情報も少なくなってきていると思います。カダフィの統治力は思ったほどはなく、広大な土地にところどころに住みつく部族の集合という形態も相俟って、彼の権力は、衰退の方向だったのかもしれません。
気になっていたお隣りの金さんは、同じ独裁者という仲間を失うことになりましたが、こうしてみると、カダフィとは格違いに統制力はあるのかもしれません。一応、格を保有し軍備を整えています。リビアの軍のように、始まった途端に空中分解しちゃうような軍(とは言えないような)よりは結束力はあるんジャマイカ。ただ、アメリカからはあと2~3年で終わるとも言われている通り、老衰と病後の痛々しい姿からは迫力がありません。クーデターが起きてもおかしくないのじゃないか、とか直ぐに思ってしまいます。
おっと、話が脱線し始めたので終りにします。
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