2011-02-24

リビア政府に対する国際社会の評価-雑感

 昨日、国連安保理が今回のリビアに出した声明は議長声明にとどまったのに対し、アアラブ連盟はリビアの全会合への出席を凍結するという措置を出しました。これでいつも際立つニュースは、国連の無力さを取り上げた日本のメディアの安っぽいネタになるのがオチなのですが、今回はちょっと違います。普段は不振なアラブ連盟がかなり厳しい措置を打ち出したことと比較すると、あまりにも国連安保理は無難な内容という点です。心情的には、アラブ連盟が出している措置が相当というものです。何故こうも違うのか、という疑問がそこから湧きました。
 結論から言うと、これは国際社会の現実は、人権を無視した暴力を容認する社会だということです。
  こういう結論に至ったことを書くのは勇気のいることで、つまり、私個人の無力感と向き合うことであり、そうしたからと言って日本が何かできるのかと問うても、何の方策も見えてこない点を浮き彫りにするからです。世界は、核化で防衛するような動きの中、日本はどのように歩調を合わせるのかなど問題は山積みで、このことに向き合うのはとても負担があるのですが、あえて書いておくことにします。
 まず、国連安保理の出した声明です(毎日新聞 2011年2月23日)。

【ニューヨーク山科武司】国連安全保障理事会は22日、緊急会合を開き、流血の事態を招いたリビア情勢に関し、国民への武力行使を非難する報道向け声明を採択した。
 声明は「事態に深刻な憂慮」を示し、リビア政府に対し、市民の生命を守る責任を果たすよう求めた。
同時に、リビア政府に対して表現の自由の尊重なども強く求めた。
 この日の会合は、リビア代表部のダバシ次席大使が前日「国民が虐殺されている」などと訴え、最高権力者カダフィ大佐による国民への攻撃を中止させるよう安保理に要請したことを受けたもの。リビア上空での飛行禁止区域設定、雇い兵や武器のリビア入りの停止などを求めていた。
 だが、22日に国連に姿を見せたカダフィ大佐に近いシャルガム首席大使は「空爆は行われていない。流血の事態は非難されるべきだが、責任は政権全体が負う」と述べ、カダフィ大佐を名指しで非難することに難色を示していた。

 次に、アラブ連盟の表明です(NHK2月23日 8時25分)。

 リビアを含むアラブ諸国が加盟する「アラブ連盟」は、22日、リビア情勢について協議するため、隣国エジプトのカイロで緊急の会合を開きました。会合のあと、ムーサ事務局長は声明を発表し、「デモに対して暴力が使われたことは許容できず、強く非難する。リビア政府は、国民の要求に応えるべきだ」と述べました。また、リビア政府が武力の使用を停止し、国民との対話に乗り出すまで、リビア代表のアラブ連盟の会合への出席を認めない方針も明らかにしました。

 アラブ連盟が具体的な措置を打ち出しているのに対し、安保理では、リビア代表の救済措置の申し入れや、カダフィ筋の言い分に迷ったのか何の採択もなく、「強く求めた」という言及で終わっています。内容は、とても一般的な見識です。このレベルの違いが今回際立ったことで、まず、その背景を知ることだと思いました。
 アラブ連盟が出した内容と同等かそれ以上の強い態度に出ない国連安保理って何?こういう疑問が出たら、このことで誰が徳をするのかを考えてみろとは言われていませんが、道筋を見つける突破口なので考えてみました。ここで思ったのが、国連内でナアナアにしているのが対中国とロシアではないかと直ぐに浮かびました。その前に、カダフィを問うのは人権問題です。これが私が当ている視点ですから、出てきた中国とロシアの人権問題が共通項です。
 中国については、民主化を求めた64天安門事件(1986年6月)や、チベット独立を求めたチベット争乱(2008年3月)、ロシアに関しては、掃討作戦を用いたチェチェン紛争(1999年9月)が人権問題として挙がります。尚、チェチェン争乱については古い歴史的背景もありますが、ここでは極最近の事を取り上げています。
 これらは全て人権問題として国際社会から避難を浴びてきていることで、政府が市民の反政府運動、抗議と見なせば国家権力として武力により、多くの無抵抗で無力な命を惨殺してきたことです。これは、今回のカダフィが行った事とは何ら違いはありません。だから、問わないのです。安保理が、今回のリビアの人権蹂躙に厳しい議決案を採択しようとすれば両国はどうなるか?この両国に白羽の矢がったつことを危惧するのは当然です。もしかすると、リビアの代表が安保理に救済措置を申し出なければ、安保理が自ら取り上げたかどうかも疑問です。良識のある大人なら誰もが言うような当たり前のことしか言えずして、国連安保理と言えるのか、と吊るし上げられるのがオチです。しかも、常任理事国である中国とロシアは拒否権を有しているため、採択の際、既に不公平であるとも言えます。
 ここまで考えてみて、国連安保理をどれだけ貶したところで、これって現実の国際社会そのもじゃないですか。ここでやっと自分の現実に結びついたのです。私は、この社会で生きているのです。国連安保理に自分が入っていなかった事に気づいたのです。天に向かって唾を吐くとはこのことです。
 中国とロシアとの関係で苦慮している日本政府には、この両国との関係を上手くやってもらうしかないのですが、国連安保理(国際社会)からほぼ永久的にこれまでの虐殺行為を問われることはないと思われるこの両国が、今後同じような過失を犯さないとも限りません。
 だからこそ、極東の平和を維持するには、かなり巧みな対処が必要だということを改めて感じました。

棚上げ問題:安保理の拒否権について

 仮に拒否権がない安保理は、実質的な力を持たない無力な議論の場になってしまうし、拒否権があることは、真に決定されるべきことが決定されないという矛盾が起るため、難しい問題です。つまり、安保理の決議は絶対的ではないという点もポイントです。人道的干渉をはじめとして、安保理で「決定されないこと」もあるのは、安保理の立場としては正当というべきかもしれません。

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