2011-02-16

「嘘」」の正体とは-愚考

 いろいろ考えた末、現時点でのスーダン問題は棚上げしようと思うに至りました。これは、今朝から先ほどまで考えていたことで、気持ちの整理も兼ねて書いておくことにします。
 今朝早く、と言っても活動を始動する夜中ですが、南スーダンでまたしても200名の大量虐殺があったと報じるニュースが気になっていました(参照)。スーダンのことにはもう触れまいという思いがあったことを忘れ、またか、という無念な思いがありました。
 アメリカのオバマ氏は今月7日、祝福する声明を出し、独立予定の今年7月に「独立主権国家として公式に承認する」と表明しました。また、クリントン国務長官も同日、スーダンのテロ支援国家指定解除への手続きに入るとの声明を発表したばかりです。にもかかわらず、同日7日、30名とも50名とも言われる死者を出した戦争が南スーダンで起こりました。この時に持った疑念は、結局、スーダンの人々は、平和などは望んでいないのではないかということでした。平和的に民主的に選挙が行われれば制裁も解除され、平穏な暮らしは約束されているにもかかわらず、この国の人達はそれを望むどころか、それが決まるという当日にもう戦争を始めているのです。これだけで、この国に支援やエールを送ることに見切りをつける理由は十分ではなかったのか、と後悔したのは先ほどで、どういう訳か、こういう思いを今朝はもっていなかったのです。忘れていただけなのか、自分の中では大きな問題でもなかったのかもしれません。もしかしたら、見切りをつける判断が甘かったというか、そう判断して確定的に思い込むことを恐れたのかもしれません。私が曖昧だったからだろうか、結局、バジル氏の逮捕は、この国の平和の条件のように結び付けてたのかもしれません。
 バジル政権が虐殺を行い、それを黙認してきた彼には逮捕状が出ているにも関わらず、これに応じることなく、いつまでもスーダンで政権を握っていることが平和を遅らせるという考えに直結したのは間違えでした。バジル氏は、直接に虐殺を犯した人物ではないにもかかわらず、変な思い込みに走ったのかもしれません。国の平和維持とバジル氏を逮捕することは関係のない話だということを納得したのは後の話で、当初、何故このような混同を起こしたかのか、今朝の自分自身に戻ってみました。
 前回の戦争時、スーダンに見切りをつけなかった理由に、固定的な観念になることを恐れるということがあったこと。自分が可愛いだけの話し。そして、先週スーダンで起きた200名の虐殺を報じるニュースを夜中に知って、平和を願うという個人的な思いをバジル氏の逮捕に重ね、オバマ氏が、この件に関して何も触れないことが気になっていたのがあります。
 さて、このことを通して、私は向き合っておかなければならないことを出すことにします。それは、「嘘」という世界です。私はこれでもかなり潔癖症で、まあ、融通も利かないかもしれないのですが、嘘を平気でつくような人間ではないと普段思っています。臆病だから嘘はつきたくないのです。バレた時、言い逃れや上塗りは見破られるものだと思っているし、居心地の悪い心持ちでいることは嫌。また、そういう人間だと思われるのも嫌。なので、そんな思いをしてまで嘘などつこうとも思っていません。が、私は嘘をついていると思われているのです。え、そうなの?何のために私が嘘をつくのだろう?そういう疑問があったので、だから、嘘があったのかなかったのか考えてみることにしたのです。
 行き違いの点。バジルの逮捕を決済することと、スーダンで先週起きた200人の虐殺を解決することは別問題だ、という指摘をうけたこ時点では、そう理解できていませんでした。「残念ながらそーではない。」の「そー」が、何を指しているのか理解できていないまま、次に、自分で考えるようにと言われ、何について考えればよいのかポイントがつかめていませんでした。そして、「なんのために分かりたいの?」と聞かれて、「スーダンに平和が来ることのため」と答えると「それは嘘だと思う」と言われたのです。そして、後の私の説明に対して「「嘘」は、自分が平和を願っていると信じている点。」だと聞きました。私は平和を願うという点に嘘はないですが、スーダンに関しては、以前夢で見た南スーダンの独立の誤訳の話しで触れたように(参照)、あの時点でスーダンには呆れていた私でした。ですから平和をずっと願って信じてはいません。が、聞かれて、どうしたいのかと私自身に聞いた時、他の思いは何もありませんでした。ないならないでよいと言われても、。無意識に嘘が出るものなのか?私にとっては大きな問題です
 一つの考えとして、嘘をつくと言う意図的なものはないのですが、スーダンの件は、自分から切り離すしかないと言い聞かせえているようなところはあり、すっきり割り切れていないのもそうです。何とかならないだろうかと気が急くようなじれったさを感じています。この感情は、おごりからきているのかもしれないな。この間の戦争の時も、今回報道された200名の虐殺に触れてもそう感じたのは、それは、ダルフールの人々が平和を願っているという思い込みの上に、私のおごりが重なっているのかも。これは他の人には偽善のようにしか映らないかもしれない。良い行い、良い考えのような善悪の観念的なところから無意識に発している言葉だとすると、刷り込みによって染み付いているかもしれない。これは自分の問題だけど、前に自分自身を考えた時、幼い頃の育ちで考えたことがありました。今回が、それかどうかはよく分からない。瞬時に判断して発しているかもしれない。こういった観念に縛られている部分は、殆ど気づくことはないのだけど、「嘘だと思う」とはっきりと言える人には見えているのだろうか。もしかしたら、私は偽善者の塊かもしれない。自覚がないのが問題だなと思う。これは、薄皮をはがしてみてゆくほか解決の方法はないのではないだろうか。

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