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2011年2月

2011-02-28

中国に反政府運動は起こるだろうか

 昨日、Twitterで中近東の争乱に関する記事を拾って読みながら、中国のことを思っていました。そのきっかけは、長引くチュニジアの反政府運動の様子を知ったからです。チュニジア市民のこの運動が終わる時は、完全に政権交代する時ではないかと感じ、市民のパワーもここまでくれば、本当に国が変わるのだと思ったからです。安易に中国のことに触れるのはどうか、という思いはありますが、中国の軍が市民に対して弾圧的になっていると日経が報じていることもあり、その動きを感じますので、反政府運動の可能性について、書きとめておくことにします。
 記事は次のように報じています(日経2011/2/28 0:15)。

【北京=尾崎実】中国で民主化を求める「中国ジャスミン革命」集会の開催が再び呼びかけられた27日、中国当局は全国の主要27都市に多数の警察官を投入し、集会の開催を封じ込めた。北京、上海で地元公安局が、日本人カメラマンを含む少なくとも計9人を連行。上海の集合場所には約1000人の群衆が集まったが、いずれの都市も集会は開かれなかった。
日本人カメラマンはその後、解放された。北京では来月5日に全国人民代表大会(国会に相当)の開幕を控えており、民主活動家を含めた住民監視やインターネット規制が一段と強まるのは必至だ。

 「中国ジャスミン革命」という名称は誰が言い出したのか良くわかりませんが、チュニジアに政権交代が起きれば、これは文字通り市民運動から発展した「革命」と呼んでよいのだろうと思いますが、中国にチュニジアのようなことはありえません。中国は一党独裁政権で軍政なので、市民が政府に不満を抱いて氾濫を起こしても、大きくなる前に弾圧されるのが関の山です。実際に起きた64天安門事件のように、市民を殺害して見せしめにし、軍の力を誇示して終わるのではないかとは思います。ただし、軍の分裂による内乱の可能性はあると思い、後で書くことにします。
 引用の記事にもあるとおり、集会は実現せず、中国当局が嫌う外国報道陣を早速連行したのも手回しが良いです。ただ、中東でこれだけ市民運動が国を動かしている現状から、中国国民が勢いをもらっていることに対して当局が過敏になっていることは確かだと思います。産経は、中国当局の取締りを詳しく報じています(産経2011.2.28 00:21) 。

 北京市公安局で外国人記者の査証(ビザ)発給を担当する当局者は25日午後、産経新聞記者を入国管理局に呼び出し、「中国の法律では公共の場で取材する際、その場所を管理する部署に事前に申請し、同意を得なければならない」と強調。そのうえで「法律を順守しなければ、国外退去の可能性もある」と語り、27日の集会を取材しないよう暗に求めた。
 こうした呼び出しは24日から27日にかけて、北京や上海に駐在する欧米や日本メディアの責任者に対し行われた。
 また、インターネットへの規制も強化された。規制される用語が大幅に増え、「茉莉花(ジャスミン)」「民主と自由」など、集会を連想させるキーワードは検索できなくなった。
 前回20日の北京での集会場所に姿を見せた米国のハンツマン駐中国大使の名前さえも規制対象となっており、ネットで表示できなくなっている。
 香港の人権団体などによると、集会の呼びかけ文を別のサイトに転送したとして、27日までに少なくとも4人が国家政権転覆扇動容疑などで逮捕されたという。
 引き続き毎週日曜の集会が呼びかけられるとみられるなか、この集会情報が当局の規制にもかかわらず、一般住民にまで広まるかが今後を占うカギとなる。
 友人からの携帯電話のショートメールで知ったというタクシーの運転手は「私の周りはみんなジャスミン革命のことを知っている。捕まるのはいやだから集会にはいかないが、心情では支持している」と話している。

 長い引用ですが、日本人には想像もつかないようなことが弾圧の対象になるということです。タクシーの運転手の言うように、捕まるのは怖いことだと植え付けられている市民が大半だと思うので、天安門事件当時と現在は国情も違うとはいえ反政府運動などは起こりようもないかもしれません。ただ、中国国民に不満が蓄積されて行くことには注意が必要だと思います。それは、中国経済の目覚しい発展という背景に、貧富の格差や、生命に直接的に関係する環境の不備などの不満と重なるからです。これは、昨日の「まがい物だらけの中国-命だけは勘弁して」(参照)でも触れたように、各種公害や、赤ん坊が飲む粉ミルクの砒素混入を放置したまま市販するといった、政府の対応が追いつかないことへの不満にもつながるからです。
 これらを思うと、中国に反政府運動がある日突然起きてもおかしくないと断言できますが、その反面、この経済成長が運動を起こしにくくしているとも言えます。そもそも、国が栄えている時に反政府運動などが起こると論ずるのもナンセンスです。
 比較で、中東やアフリカで起きている反政府運動には、市民の飢えがあります。
私腹を肥やす独裁者なり、国の上層部だけが恵まれた生活をしていることへの市民の不満や飢えが、これらの運動のエネルギーに点火して始まっています。失うものがないとなれば、最後に残るのは命で、この命をかけているから革命が起こるのだと思います。では、中国はどうか。
 中国は経済発展の途上にあり、日本の高度成長期の時の日本人のように、誰もが将来性に希望を抱いているのじゃないかと想像します。この幸せを手放して当局に歯向かう事は損なのか、得なのか。中国市民は失うものを手に入れてしまったがために、命がけで生きる必要はなくなったのじゃないかと思うのです。不満を抱えながらも当局に歯向かうのを損だと考えるタクシーの運転手のような人が増えつつあると思います。こうなると、反政府の温床はあっても運動には至らないです。
 中国の軍についてはどうか。天安門事件で多くの無力の市民を惨殺した過去もあり、世界は見張っています。あのようなことはもう起こさないのではないかと、普通は思います。これは、国際社会の仲間入りを思う中国なら、同じことは繰り返さないだろうという見方からですが、私は、中国の軍は変わらないと思います。天安門事件のようなことを正当化し、如何様にもやり方はあると思います。ただし、軍が仲間割れを起こす可能性はあると思います。2006年、江沢民前主席の命令によって胡錦濤主席の暗殺が未遂に終わったという話もありましたが、これは、軍をめぐる主導権争いです。誰が潰れても誰かが頭を出してくるので、分裂にはならないのか、それは中国当局が望まないからなのか分かりませんが、今の状況は当時とも違います。
 そして、反政府運動を起こす可能性が一番濃いのが中国のネット世代です。というよりも、この中に、1979年に開始された一人っ子政策世代が多く含まれているのではないかという意味です。すり込まれた愛国主義思想は、何かの拍子に反政府運動に転じる怖さがあります。男女比で言えば男性が圧倒多数で、漏れこぼれた情報によると、中国男性はAVビデオマニアが多いとか聞きます。これ何の意味か?って、無職で暇なんでしょう、きっと。
 当局は、この世代の持つエネルギーの可能性をおそらく知って、時々起こる反米、反日のデモを煽り、彼らのガス抜きを企てているのと違いますか。尖閣諸島沖問題では、日本はいい迷惑をしました。
 つまり、中国政府は、中国国民がいつ反旗を翻すとも限らないという危機感を持っているのは確かだと思います。中国当局がどれほど対処療法を施したところで、それは解決ではないのです。因みに、産経もタクシーの運転手ではなく、30代の暇そうな男性に聞いてみたらどうでしょう。
 話しが散漫になってしまいましたが、以上のことから中国から目が離せないです。

追記:中国の変化について極東ブログ「[書評]中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす(遠藤誉)」で紹介の本が興味深いです(参照)。

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2011-02-27

まがい物だらけの中国-命だけは勘弁して

 一昨日の中国の大気汚染に関する記事が目に止まり、日本が歩んできた高度成長期時代の公害病や、その後の都市化が進む中で起きた生活公害である光化学スモッグ被害を思い出していました。このような事を取り上げると中国バッシングとなりやすいですが、そうではなく、日本が歩んだ道の二の舞はしてほしくないという気持ちから、取り上げて置くことに何らかの意味はあるのじゃないかと、少し調べてみました。
 最初に、まず驚いたのはRecord China記事「測定不能レベルの大気汚染=米大使館が北京市の汚染にコメント―米大使館」(参照)の画像でした。

Screenclip

2011年2月23日、環球時報は記事「米大使館発表=北京の空気は汚すぎて測定できない」を発表した。以下はその抄訳。

21日、北京市は霧に包まれた。空気汚染評価は2011年初の5級(重度の汚染)となり、「老人と子どもは外出を避けること」と発表された。米国大使館は「危険、測定不能なレベル」と異例の結果を伝えている。

米国大使館は2008年初頭以来、大使館に設置された大気観測所での調査を続けている。観測したデータは1時間ごとにツイッターで発表されている。昨年11月には「クレイジーなほど悪い」とコメント。後に「表現が不適切だった」としてコメントを削除する問題もあった。

中国側は、米大使館の観測結果は大使館区域に限定されたものであり、北京市全体の大気状況を示すものではないと指摘している。大使館地区は繁華街に位置し、車の交通量も多いため、汚染物質が多く観測されやすいという。

 中国側の指摘というか反論というかは、都合の悪いことには蓋をしたいという表れのような見苦しさを感じますが、紛れもなくこれは大気汚染で、日本の高度成長期(1970年)前後に発令された光化学スモッグ注意報の時の東京の空に似ています。
 これは、産業廃棄物による土壌汚染と並んで、生活公害と日本で呼ばれています。中国もここまでとうとう来たのかという妙な思いがあり、思えば、日本で最初に公害として認定されたイタイイタイ病は四大公害病の一つで、1955年に最初に確認されています。公害としての認定は、1968年の訴訟によるものでした。
 イタイイタイ病関連の当時のニュースも記憶にありますが、とにかく長い裁判で、中学の頃だったか、公害で苦しんでいるとはっきりわかっていることを何故早く認めて解決しないのかが疑問でした。先の記事にもあるとおり、公害が問題ではなく、発生した問題の解決や責任の所在を問うことが難しいから解決に時間を要すのは中国だけの問題じゃないです。日本の会社や政府も、叩けばホコリの出るからだです。だから言うのですが、中国という国は、都合の悪いことを隠蔽する国だということにかけては日本以上です。
 カドミウムに関して気になる報告「闇に葬られ続ける「イタイイタイ病」(日経ビジネスオンライン)があります。

 中国各地から報じられる環境汚染や公害から判断して、「公害病」の状況は、日本の「4大公害病」を遥かにしのぐほどに深刻と考えられるが、中国政府は依然として「公害病」の存在を公式に認めていないのが実情である。

 2011年2月14日発行の週刊誌『新世紀週刊』は、“宮靖”記者による“鎘米殺機(カドミウム米の殺意)”という特集記事を掲載した。2007年頃、南京農業大学農業資源・環境研究所の潘根興教授が中国の6地区(華東、東北、華中、西南、華南、華北)の県レベルの「市」以上の市場で販売されていたコメのサンプルを無作為に170個以上購入して科学的に分析した結果、その10%のコメに基準値を超えたカドミウムが含まれていたという。これは2002年に中国政府農業部の「コメおよびコメ製品品質監督検査試験センター」が、全国の市場で販売されているコメについてその安全性を抜き取り検査した結果の「カドミウムの基準値超過率」10.3%と基本的に一致したのである。

 この汚染がどれほど酷いものであるかの比較に、日本の米生産量との比較値にも言及されています。

中国のコメの年産量は約2億トンであるが、上述のごとく、基準値を超えるカドミウムを含むコメが10%あるとすれば、その量は2000万トンとなる。日本の2007年におけるコメの生産量は882万トンであるから、中国の「カドミウム汚染米」は日本のコメの年産量の約2.3倍もの膨大な量である。

 これに対する告発なり対応策はどうなっているのかと思えば、問題にもなっていないようです。

ある地方で公害病の存在が表沙汰になれば、その地方政府の環境保護局のみならず、衛生局、工商局など関係部門の役人の責任が追及されることになる。そんなことになったら「立身出世」に差し障りが出るばかりか、責任を追及されて免職になりかねないし、下手に告発すれば、どのような報復を受けるか分からない。そういう事なら、「触らぬ神に祟(たた)りなし」が一番の処世術であり、公害病はますます深刻化して行くことになる。
 『論語』には「過ちは改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」とあるが、中国政府が祟りを恐れず公害病という「死に神」の存在を公表するようになるのはいつの日だろうか。(2月26日 日経ビジネス 世界鑑測 北村豊の「中国・キタムラリポート」 

 当然、日本にも隠蔽体質はあり、公害が問題視されてから認定までは15年近くかかっていますのでこの体質改善が先決問題だと思いますが、ここで中国にお節介な事を言わせてもらうと、難しい国だと思います。こう言ってはなんですが、日本は、先進国としての道を選んでいるということが中国との大きな違いです。それでも15年近くかかって目覚めたとも言い難いものはあります。
 ついでに言わせてもらうと、中国の対応が鈍い理由は、金儲け主義や責任転嫁が優先し、人命軽視の風潮がはびこっているからではないかと思います。国を挙げて先進国だという自負を抱かない、またはそこに誇りを持たない中国だからダメなのです。仮に中国が先進国宣言でもしていれば、この問題は、世界の先進国が黙っていない問題で、とっくの昔に人の命は救われています。
 人の命と言えばもっと気がかりなのは、幼い生まれたばかりの命です。粉ミルク問題は、中国はどうするのでしょう(読売)。

 中国産の粉ミルクの売れ行きがニュージーランドなど外国産に席巻され、低迷している。
 有害物質メラミン入りの粉ミルクを飲んだ乳幼児約30万人に健康被害が出た2008年の事件が尾をひいているためだ。問題の粉ミルクがいまだに市場に流通するなど、消費者の国産ブランドへの不信感に歯止めがかからない。中国紙「国際先駆導報」などによると、同事件が起きるまで、国産の市場シェアは約60%だったが、昨年は約50%にまで低下し、今年は外国産が過半数を占める見込みだという。

 中国産の粉ミルクが売れていないという記事ですが、あったりまえだ。そんなもん乳児に飲ますな、です。が、貧困層はそうも言っていられないという貧富の格差問題もあります。これは政府が悪いからで、中国程成長している国にあるまじき事ではないです。
 人命に被害が及ぶことを分かっていながら製品が改善されるでもなく、その指導をするでもなく、殺人粉ミルクを店頭に並べるこの感覚がある以上、驚異的な経済成長の先は見えたようなものです。そんなまがい物がはびこるような状態を続ける国が、どこまでも発展するとも思えません。景気が減退してみれば、自ずとその姿は想像つくものです。だから、公害問題を経験した日本は、それを中国にやらせてはいけないと思います。

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2011-02-26

パキスタン情勢の深刻化に伴い、日本政府が問われる問題

 米バイデン副大統領がパキスタン訪問を終えた1月12日の時点で取り上げたアメリカとパキスタン情勢を記録したのを最後に(参照)、ここでは取り上げるでもなかったのですが、21日から3日間、パキスタン大統領が来日し、これを報じた朝日新聞社説では来日目的がはっきり掴めず、混沌とした気持ちでした。
 見出しは、「パキスタン―南アジアの安定に協力を」(朝日)で、読み進めると、この記事の論旨が終盤になってぼやけてしまったのです。記事を臭しても始まらないのは承知ですが、以下がその部分です。

 ザルダリ氏は今回、菅首相に原子力協力協定の交渉入りを促した。NPTに未加盟のまま核武装したインドと、日本が進める協定の締結交渉をにらんだ動きだ。協力が進めば、インドはそこで生まれる余力を核兵器開発に振り向けるとの不信感が背景にある。
もちろん、核関連技術・物質の管理に不安が残るパキスタンと協定を結ぶわけにはいかない。ただ、インドと協定の交渉を進めればパキスタンも同様な要求を出すのでは、との懸念が現実化したことを忘れるべきでない。
 南アジアでの核軍拡を防ぎ、中国も含めたアジア全体の核軍縮・不拡散外交を進めることが不可欠だ。インドとの交渉では、核実験の停止を協定に盛り込むべきだ。それを足場にアジアで新たな核軍備管理の道を模索したい。

 パキスタンとインドの関係は、これまでに何度も触れてきたとおり、中国がパキスタンの核施設建設など支援をしている背景などから、インドはパキスタンに照準を合わせて核開発を進めていると言われ、パキスタンの原子力協力協定の要請においそれと応じるわけにもいかない日本のはずです。
 また、「アジアで新たな各軍備管理の道を模索したい」という記事の結びは、これって日本が担うべきことへの示唆を仄めかしているのか、執筆者の思いなのかが曖昧でボヤケています。究極、日本政府への要望として、パキスタン大統領が日本に望んでいる「原子力協力協定」に、日本はどう答えを出すかを政府に言いたいのでしょうか。このように、私個人の思考レベルやパターン化した考え方が邪魔しているのか、目の前の問題が宙に浮いてしまい、何を視点に考えたらよいかを見失ったのです。
 加えて、記事の日付の記憶は定かではないのですが、TwitterでクリップされたAFPの記事によると(参照)、アメリカ人男性が、パキスタン・ラホールで二名のパキスタン人を射殺した件について、米政府はこの対応に追われている状況を知りました。また捜査中に、この男性がCIAの契約社員であることが発覚し、パキスタンから計画的な犯行ではないかと疑念を持たれています。また、この現場に向かった在パキスタン領事館の車が死亡事故を催し、パキスタン人一人が亡くなっているなど、相次ぐ失態を繰り替えてしているアメリカ政府の状態が念頭にありました。
 つまり、パキスタン大統領にどう答えるかは、日本としては、アメリカのこの現状を配慮すべきですし、朝日記事のタイトルのような「アジアの安定」以前に、アフガニスタンを見据えたアメリカの対パキスタン外交にとって、日本がどう対処するのが現時点でのベストなのか、それを模索する方が先決問題だと思うのです。と書いて、このように思えたきっかけとなったのは、昨日の日経社説「パキスタン支援を強めよう」(参照)を読んで、空気嫁的なズレを感じたのです。そして、昨夕の極東ブログ記事「深刻化するパキスタン問題」(参照)を読んで、話しの筋道が立ったというものです。
 では、筋道が立ってば具体的な結論に至るのか?とさらに進めてみても、ここから先は菅政府に考えてもらうしかないのですが、今後のこの動きで最も需要な点は押さえておきたいです。
 それは、アメリカは、核軍拡を進めてきているパキスタンの核化を抑制することが不可能な事態になっている点です。この指摘は、極東ブログ本文中のニューヨーク・タイムズ社説から引いた部分で解説されています。
 仮に、アメリカがパキスタン支援を中断すると脅かし、核化に圧力をかけたとすると、待ってましたとばかりにアフガニスタンに侵略され、核兵器が奪取されてしまうだけだという理屈です。いやこんなに簡単なことなのかという思いはありますが、シンプルにそういう事なのだと解しました。ましてや、パキスタン人を殺害したCIAの男性の身柄を拘束されている状態では、アメリカも足元を見られるのが関の山というものです。だから、「支援」は餌にもならず、ストップもできない。そうかと言って、日本がパキスタンの支援要請や核協力協定を受諾すれば、さらに核軍拡に走らせてしまい、それは、アメリカの意図に逆らってしまう結果となると考えるのか。または、アメリカの引くに引けない、押すに押せない致し方のない状況での支援に同調するのが順当な道なのか、判断は難しいところです。同時に、日経が言うように、日本とパキスタンが協力関係を結ぶとしたら、インとドパキスタンの敵対関係を承知でダブルスタンダード的なポジションをとることになると思います。
 日本の政府は、この局面をどう切り抜けるつもりなのか、今後が気になります。

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2011-02-25

県内バス会社の統合化やリニアー新幹線構想について雑感

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 2月22日、諏訪市の循環バス「かりんちゃんバス」の運行会社である諏訪バスが、松本市に本社を置くアルピコホールディングスと合併する事を知りました。この合併は、県内の大手バス会社三社を一社に、五社のタクシー会社を一社に再編成することで経営の効率化を図るというのです(参照)。

 同社によると、バス事業はアルピコHDの子会社、松本電鉄(松本市)が孫会社の川中島バス(長野市)と諏訪バス(茅野市)を吸収合併し、社名を「アルピコ交通」に変更する。これまで許認可の関係で難しかった「各地の車両や人員配置の融通性を高める」(堀籠社長)ためという。
事業会社を一本化することで、需要が多い北信地域や首都圏向けを強化するほか、貸し切りバスや高速バスの繁忙期には他地域から応援を出せるようになるという。
 またタクシー事業もアルピコHD子会社のアルピコタクシー中央(松本市)が、他の子会社4社(長野、岡谷、諏訪、茅野)を吸収合併する。社名は「アルピコタクシー」に統一するという。行政上の申請など、事務手続きの省略化が最大の目的だという。

 要は、吸収合併です。このような合併話を聞くと直ぐに赤字経営の立て直しを連想するのですが、今回は、一社で抱える赤字も経営の統合により、黒字路線とバランス出来る利点が吸収合併の意図するところかもしれません。
 また、現在運行されている市内循環バス「かりんちゃんバス」は、自治体バスで、それまで運行していた諏訪バスの赤字による撤退後、1999年より諏訪市が引き継ぎ、諏訪バスに運行を委託して始まったという経緯があります。今回の合併では人員の削減はしないそうですし、「かりんちゃんバス」への影響があるかと言えば、市が判断することなので、今後のことは何とも言えません。
 このことを知って直ぐに連想するのは、田舎の過疎化と高齢化です。バスの利用客が減少傾向であるのは言うまでもなく、買い物難民とか言われている、いわゆる買い物に出かけられない方の交通の便です。
 私の住むところは、市の中心部である駅の傍の住宅街で、病院、金融機関、学校、市役所などは徒歩10分範囲にあるため便利に暮らしていますが、諏訪市は、湖から霧ヶ峰高原まで広範囲のためマイカーはどうしても必要になります。大人家族四人なら四台車があるのは普通です。ただし、車を運転できない方や、運転免許自体を持たない高齢の方にとって、かりんちゃんバスは大切な足であると思います。
 実は、このような話をする私はマイカーに頼りっぱなしで、お恥ずかしいことにかりんちゃんバスに乗ったことがないのです。合併の話を聞いて暫く経つのですが、昨日思い切って乗ってみた次第です。
 普段、自分で運転する慣れ親しんだ道も、バスに揺られて景色をゆっくり見ながら市内を一周してみると、気付かなかった花や建物に目を奪われるものでとても心地良い、まるでプチバス旅行の風情でした。料金は一回乗るごとに大人150円、子供80円は格安です。かつて諏訪バスが運行していた頃の料金と比較すると、格段の差でお得感があります。ただ、お年寄りが日中動きまわる昼間の時間帯に乗ったにも関わらず、乗客がピーク時で8名でした。私一人だけの区間もかなりあったのを体験してみて、バス会社存続のためと少ない乗客のための市の福祉事業のような気がしました。実質、そうなんですけどね。それでも、困る人の足として税金で賄われているという実感も悪くはなかったです。
 話は飛びますが、過疎地の郵便事業なども、市町村が国から補助金をもらって民間委託という形態を取るのはよいのじゃないかと、ふと思うのです。基本は民営ですが、国は、民間の手が伸ばせないようなところにだけに補助の手を伸ばしてくれたらよいのではないかな。郵政は民営化した当初は経営も悪くはなかったそうですが、民主党に政権が変わり、郵政の頭が天下り官僚である斉藤氏に変わった途端に赤字です。この経営状態をどうするのかといえば、また国営化するっきゃないじゃん、というところへ帰結すると噂では聞きます。詰まることろ、経営手腕と官僚の天下り先にだけはしなければ、経営は上向きになるのではないかという感想を持ちました。
 これまたバスとは関係ない、アメリカの新幹線導入にまつわる採算の話しが極東ブログで持ち上がっています。この話は、アメリカオバマ氏の高速鉄道政策が頓挫しそうな雰囲気で、この影響で、日本の新幹線の輸出話が消えるかもしれないという不景気な話のようです(参照)。世界一を誇る最速電車が、広大なアメリカの大地を突っ走る姿を見る、または乗ってみたいという夢の乗り物として、あってもいいじゃないの?と私は軽く思います。かりんちゃんバスと比べるレベルではないけれど、赤字を出さないような区間で始めてはどうかとは思います。

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 と、この理屈でリニアー新幹線が長野県を走るという構想をどう考えるか?話は具体化していますが、運行費や市町村の負担額を思うと、アメリカの話しは他人事ではないのです。
 南部をちょろっと通過するのみという直線ルートにほぼ決まったようなので、土地買収とかで、通行料くらいの恩恵しかないのかもしれません。が、迂回コースになるデメリットがあるとは言え、長野県のほぼ中央である諏訪地域を通らないのはもったいない感じがします。仮にこれを利用するために飯田まで中央本線を使って乗り換えるのなら、その手間とタイムロスを加味すれば、上諏訪から名古屋までスーパーあずさで乗り継ぎなしの方が楽です。どうもこの構想は、長野県中央の乗客を除く東京に近い甲府と名古屋に近い飯田市に集客の的を当てているようですが、この諏訪地域は、東京と名古屋の中間点なので、乗降客もそれなりにあるというのが地元感覚にはあります。
 なんだか、バスから郵政、新幹線へと話しは飛びましたが、全ては採算ベースの話しばかりで、夢もあったのもではないですね。採算などを度外視した、夢のある話ってしたいものです。日本の最高の技術を駆使した世界最一速い新幹線が運行した1964年、日本にはたっぷり夢を運んできてくれたものです。

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2011-02-24

リビア政府に対する国際社会の評価-雑感

 昨日、国連安保理が今回のリビアに出した声明は議長声明にとどまったのに対し、アアラブ連盟はリビアの全会合への出席を凍結するという措置を出しました。これでいつも際立つニュースは、国連の無力さを取り上げた日本のメディアの安っぽいネタになるのがオチなのですが、今回はちょっと違います。普段は不振なアラブ連盟がかなり厳しい措置を打ち出したことと比較すると、あまりにも国連安保理は無難な内容という点です。心情的には、アラブ連盟が出している措置が相当というものです。何故こうも違うのか、という疑問がそこから湧きました。
 結論から言うと、これは国際社会の現実は、人権を無視した暴力を容認する社会だということです。
  こういう結論に至ったことを書くのは勇気のいることで、つまり、私個人の無力感と向き合うことであり、そうしたからと言って日本が何かできるのかと問うても、何の方策も見えてこない点を浮き彫りにするからです。世界は、核化で防衛するような動きの中、日本はどのように歩調を合わせるのかなど問題は山積みで、このことに向き合うのはとても負担があるのですが、あえて書いておくことにします。
 まず、国連安保理の出した声明です(毎日新聞 2011年2月23日)。

【ニューヨーク山科武司】国連安全保障理事会は22日、緊急会合を開き、流血の事態を招いたリビア情勢に関し、国民への武力行使を非難する報道向け声明を採択した。
 声明は「事態に深刻な憂慮」を示し、リビア政府に対し、市民の生命を守る責任を果たすよう求めた。
同時に、リビア政府に対して表現の自由の尊重なども強く求めた。
 この日の会合は、リビア代表部のダバシ次席大使が前日「国民が虐殺されている」などと訴え、最高権力者カダフィ大佐による国民への攻撃を中止させるよう安保理に要請したことを受けたもの。リビア上空での飛行禁止区域設定、雇い兵や武器のリビア入りの停止などを求めていた。
 だが、22日に国連に姿を見せたカダフィ大佐に近いシャルガム首席大使は「空爆は行われていない。流血の事態は非難されるべきだが、責任は政権全体が負う」と述べ、カダフィ大佐を名指しで非難することに難色を示していた。

 次に、アラブ連盟の表明です(NHK2月23日 8時25分)。

 リビアを含むアラブ諸国が加盟する「アラブ連盟」は、22日、リビア情勢について協議するため、隣国エジプトのカイロで緊急の会合を開きました。会合のあと、ムーサ事務局長は声明を発表し、「デモに対して暴力が使われたことは許容できず、強く非難する。リビア政府は、国民の要求に応えるべきだ」と述べました。また、リビア政府が武力の使用を停止し、国民との対話に乗り出すまで、リビア代表のアラブ連盟の会合への出席を認めない方針も明らかにしました。

 アラブ連盟が具体的な措置を打ち出しているのに対し、安保理では、リビア代表の救済措置の申し入れや、カダフィ筋の言い分に迷ったのか何の採択もなく、「強く求めた」という言及で終わっています。内容は、とても一般的な見識です。このレベルの違いが今回際立ったことで、まず、その背景を知ることだと思いました。
 アラブ連盟が出した内容と同等かそれ以上の強い態度に出ない国連安保理って何?こういう疑問が出たら、このことで誰が徳をするのかを考えてみろとは言われていませんが、道筋を見つける突破口なので考えてみました。ここで思ったのが、国連内でナアナアにしているのが対中国とロシアではないかと直ぐに浮かびました。その前に、カダフィを問うのは人権問題です。これが私が当ている視点ですから、出てきた中国とロシアの人権問題が共通項です。
 中国については、民主化を求めた64天安門事件(1986年6月)や、チベット独立を求めたチベット争乱(2008年3月)、ロシアに関しては、掃討作戦を用いたチェチェン紛争(1999年9月)が人権問題として挙がります。尚、チェチェン争乱については古い歴史的背景もありますが、ここでは極最近の事を取り上げています。
 これらは全て人権問題として国際社会から避難を浴びてきていることで、政府が市民の反政府運動、抗議と見なせば国家権力として武力により、多くの無抵抗で無力な命を惨殺してきたことです。これは、今回のカダフィが行った事とは何ら違いはありません。だから、問わないのです。安保理が、今回のリビアの人権蹂躙に厳しい議決案を採択しようとすれば両国はどうなるか?この両国に白羽の矢がったつことを危惧するのは当然です。もしかすると、リビアの代表が安保理に救済措置を申し出なければ、安保理が自ら取り上げたかどうかも疑問です。良識のある大人なら誰もが言うような当たり前のことしか言えずして、国連安保理と言えるのか、と吊るし上げられるのがオチです。しかも、常任理事国である中国とロシアは拒否権を有しているため、採択の際、既に不公平であるとも言えます。
 ここまで考えてみて、国連安保理をどれだけ貶したところで、これって現実の国際社会そのもじゃないですか。ここでやっと自分の現実に結びついたのです。私は、この社会で生きているのです。国連安保理に自分が入っていなかった事に気づいたのです。天に向かって唾を吐くとはこのことです。
 中国とロシアとの関係で苦慮している日本政府には、この両国との関係を上手くやってもらうしかないのですが、国連安保理(国際社会)からほぼ永久的にこれまでの虐殺行為を問われることはないと思われるこの両国が、今後同じような過失を犯さないとも限りません。
 だからこそ、極東の平和を維持するには、かなり巧みな対処が必要だということを改めて感じました。

棚上げ問題:安保理の拒否権について

 仮に拒否権がない安保理は、実質的な力を持たない無力な議論の場になってしまうし、拒否権があることは、真に決定されるべきことが決定されないという矛盾が起るため、難しい問題です。つまり、安保理の決議は絶対的ではないという点もポイントです。人道的干渉をはじめとして、安保理で「決定されないこと」もあるのは、安保理の立場としては正当というべきかもしれません。

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2011-02-23

カダフィという人物について

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 ムアマル・アル-カダフイ(Muammar al-Gaddafi )、リビア国家元首。彼の生まれは不詳、一説によると1942年6月。リビアでは、反政府運動が始まった途端にあっという間に情勢が変わり、カダフィーはとうの昔に国外逃亡してしまっているという説も出てきて、その逃亡先もベネズエラという話があります。確かに、中東の狂犬・カダフィを迎えてくれるのは南米の異端児・チャベス大統領ぐらいかも。
 何も掴めないままこの騒動が終息に向かっているようなのです。そして、この流れを極東ブログの「リビア争乱は問題として見れば始まりとともに終わり
」(参照)の解説で知り、出口とは言わないまでも、政体の変化の読みに納得できます。
 そこで私が少し興味を持ったのは、カダフィという人物そのものです。欧米で「mad dog」と呼ばれてきた彼は、私の見たところ抑圧者、テロ支援者、誇大妄想狂と、あまりよくない印象です。が、リビアをそれなりに率いて41年間、世界が貼ったレッテルの通りの人物である部分とは裏腹に、リビアにとってはどうだったのか、そのことはあまり考えませんでした。昨日、リビア・エジプト戦争について触れながら(参照)、カダフィのこれまでの軌跡を辿ってみたくなりました。
 「狂犬」と呼ばれたのがいつのことか知りませんが、彼を我が物顔にさせたのは欧州の扱いにもあったと思います。奇しくもリビアに石油があったため、少なくとも彼の悪口を言ったり避難を浴びせたりはしなかった筈です。ほんの一例ですが、両国友好協定の調印2周年記念でイタリアを訪問した際の「移民問題」や「イスラム改宗」に対するカダフィの発言は、尋常とは思えない異端児のなせる技のような物を感じましたが、誰も彼とは議論することはないのです(参照)。
 また、リビアが密航者の入り口となることや、リビアからカネを持ち出す、そこそこのお金持ち投資家も許しがたいことだという姿勢を見せています。これはカダフィの一貫した政策にもあると思います。彼がアラブの民衆から歓迎された理由に、反植民地政策があると思います。逆に言えば世界から孤立してしまうことになるのですが、アフリカの欧米嫌いには歓迎された政策です。
 これは、カダフィが起こした1969年のクーデターによって国王イドリース1世を退位させ時、カダフィが、エジプトのナセル大統領のアラブ民族主義に傾倒していたことが理由です。カダフィがナセルの大ファンであることは周知のことで、カダフィに「大佐」が付いている由縁だと言われてるほどです。このクーデターにより、英米の植民地化の動きを中東から一掃し、アラブの石油利権をアラブのものとする政策によって民族の統一を図ることに成功したのだと思います。ナセル大統領が生きていいる間、この政策によって彼の油の乗った時期だったと思います。
 ナセル大統領が生きている間は兎も角、引き継いだサダト大統領が親米路線になり、事態は急変。カダフィの求心力も次第に衰えたため、このへんから彼は「狂犬」に変身してゆく羽目になったのかもしれません。つまり、テロ組織を支援したり、その活動に加担することで自らの地位を維持するしかなかったのかもしれません。この辺で賢く、お隣りのチュニジアのような経済政策をとっていれば、それなりに開発も進み、他国との融合も今よりははるかに進んでいたのではないかと思います。
 そして、この暴挙を見過ごせなくなった米レーガン政府は、リビア爆撃(1986年)を行使しることに至ったのではないかと思います。振り返ってみると、この攻撃以来、狂犬でもなくなってきているし、リビアからの情報も少なくなってきていると思います。カダフィの統治力は思ったほどはなく、広大な土地にところどころに住みつく部族の集合という形態も相俟って、彼の権力は、衰退の方向だったのかもしれません。
 気になっていたお隣りの金さんは、同じ独裁者という仲間を失うことになりましたが、こうしてみると、カダフィとは格違いに統制力はあるのかもしれません。一応、格を保有し軍備を整えています。リビアの軍のように、始まった途端に空中分解しちゃうような軍(とは言えないような)よりは結束力はあるんジャマイカ。ただ、アメリカからはあと2~3年で終わるとも言われている通り、老衰と病後の痛々しい姿からは迫力がありません。クーデターが起きてもおかしくないのじゃないか、とか直ぐに思ってしまいます。
 おっと、話が脱線し始めたので終りにします。

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2011-02-22

リビア情勢2-国情を超えたエジプトの支援

 リビア情勢がどんどん変化しているらしい。悪い状態であるにもかかわらず、外国のメディアがあまり報じない事を不思議に思っています。昨日も触れたように、リビア政府は報道活動を禁止しているという理由もあるかと思いますが、一説によるとこれは内戦であるという見方もあり、そうであるなら他国がとやかく干渉を入れるものでもありません。でも、これもリビアのことなので、誰かの憶測ということもあり、当面は動向を見守るしかないとも思います。NHKが昨日朝9時、次のように報じています(参照)。

 カダフィ大佐の次男のセイフ・アルイスラム・カダフィ氏が日本時間の21日午前8時すぎ、国営テレビで国民に向けて演説し、リビア国内で大きな混乱が起きていることを認めたうえで、一両日中に、全国人民会議の場で改革について協議を始めることを明らかにしました。この一方で、「このままでは内戦に発展し、国民同士が殺し合い、国を破壊される」と反政府デモを批判し、事態の安定化に向けてカダフィ大佐が引き続き国を率いることを明らかにしました。リビアでは、これまでデモの衝突などは伝えられていなかった首都トリポリでも、デモ隊と治安当局との衝突が起きているもようで、予断を許さない状態が続いています。

 この声明の内容に関しても、リビア政府の市民に対する虐殺行為を外向けには内戦という形に仕立てたいのかもしれないとは思いました。私も滅多に読まないアルジャジーラのアラビア語版を英語に翻訳し、さらにその拙い訳文を日本語に訳して読んでいる始末です。
 さて、前置きはこのくらいにして、今日は、エジプトの反政府運動をしている青年らによるリビア市民への支援活動について触れます。
 まず、NHKの午後のニュース「エジプト リビアのデモを支援」で知ったことで、Twitterからピックアップしました(参照)から。

 北アフリカのリビアで、反政府デモに対する治安部隊の発砲で多くの負傷者が出ていることを受けて、隣国のエジプトでは、ムバラク前大統領を辞任に追いこんだ若者たちが、リビアのデモを支援しようと、医薬品などを現地に送る活動を始めました。
 リビアでは、北東部を中心に反政府デモ隊と治安部隊との激しい衝突が続き、地元の病院には、銃で撃たれるなどして多くのけが人が運び込まれていますが、医薬品が足りず、十分な治療ができない状態が続いてます。こうしたなか、ムバラク政権が崩壊した隣国のエジプトでは、インターネットで大規模デモを呼びかけ、政変のきっかけを作った、「4月6日運動」と呼ばれる若者のグループが、同じインターネットの交流サイトを通じて、今度はリビアに医薬品を送ろうという呼びかけを始めました。カイロ市内の指定の場所には、20日、これに賛同した人たちが包帯や薬などを持って次々と集まり、早速、医薬品を満載したトラック1台が、およそ700キロ離れたリビアとの国境の町に向けて出発しました。呼びかけ人の1人で、反政府デモを行っているリビアの若者と電話などで連絡を取り合ってきたという女性は、「きのう電話で話したリビアの友人は、とてもおびえていました。今は電話もつながらず、とても心配です」と話していました。

 このニュースを聞いて、ほっとした気持ちになり、思わず涙がこぼれそうになりました。
 「4月6日運動」についてはここでも先日「4月日運動から見たエジプトのクーデター」で触れたとおり(参照)、この運動は、エジプト政府に対する反政府運動をインターネットによる呼びかけで起こし、発展的に拡大しました。彼らが、隣国リビア市民に好意的な支援活動を始めたことは、極普通の精神であり、ネットで繋がることで実践した素晴らしいことだと思いました。ましてや、リビア市民が避難先に出来る国はそうはないのです。これもカダフィ大佐が周辺国を敵に回すような政治をしてきた結果であり、リビアに生まれたことを憎んでも仕方のない事でもあります。
 が、どうでしょう、両国の歴的背景を知ってもっと驚きました。この情報もTwitterからで、英語版のWikipedia「Libyan–Egyptian War(リビア-エジプト戦争)」からです(参照)。

Egyptian–Libyan War was a short border war between Libya and Egypt in July, 1977.
エジプト-リビア戦争は、1977年7月にリビアとエジプトに起きた、短い国境戦争だった。 

【背景】

On July 21, 1977, there were first gun battles between troops on the border, followed by land and air strikes.
1977年7月21日、国境における軍同士の砲撃戦に続いて、空爆が行われた。

Relations between the Libyan and the Egyptian governments were deteriorating ever since the Yom Kippur War of October 1973, due to Libyan opposition to Sadat's peace policy as well as the breakdown of unification talks between the two governments.

1973年10月のヨム・キプル戦争(第四地中東戦争)以来、リビアとエジプトの両政府の関係は悪化していた。この政府間の統一会談が頓挫したのと同様に、サダト氏の平和政策にリビアは反対していた。

In addition, the Egyptian government has broken its military ties with Moscow, while the Libyan government kept that cooperation going.
さらに、エジプト政府はモスクワとの軍事的な関係が崩壊し、その間、リビア政府は協力関係維持してきた。

The Egyptian government also gave assistance to former RCC members Major Abd al Munim al Huni and Omar Muhayshi, who unsuccessfully tried to overthrow Gaddafi in 1975 and allowed them to reside in Egypt.
また、エジプトの政府は元RCCメンバーである Major Abd al Munim al Huni とOmar Muhayshiに対する支援をた。(Muhayshiは、1975年にカダフイを打倒しようとして失敗し、彼らがエジプトに住むことを許容した)。

During 1976 relations have reached an ebb, as the Egyptian government claimed to have discovered a Libyan plot to overthrow the government in Cairo.
1976年、関係は衰退し、エジプト政府は、カイロ政府を打倒するというリビアの陰謀を見つけたと主張したのです。

(中略)

The Libyan government claimed to have uncovered an Egyptian espionage network in Libya.
リビア政府は、リビアのエジプト情報網を発見したと主張しました。

US diplomatic circles viewed this tension as a sign of Libyan intentions to go to war against Egypt, and one diplomat even dared to observe:
米国の外交筋は、この緊張をエジプトに対して戦争するというリビアの意志の表れであるとみなしました。

The Egyptian government throughout 1976 was concentrating troops along the Libyan border.
1976年、一年を通してエジプト政府はリビアの境界に沿って軍を集結させていました。

In June 1977, Libyan leader Muammar al-Gaddafi ordered the 225,000 Egyptians working and living in Libya to leave the country by July 1 or face arrest.
1977年6月、リビアのリーダー、ムアマル・アル-カダフイは、リビアに住む22万5000人のエジプト人労働者に7月1日までに出国するか、さもなくば逮捕することを厳命しました。 

 つまり、リビアのカダフィ氏とは、ムバラク政権前のサダト政権時から何かと争乱が起きている関係があり、この下地が、両国の反政府運動者の「反政府」を共通として結びつける縁結びになったというわけです。
 うーん、何というか、これと似たような関係から戦争に発展したというは話を思い出せないのですが。虐げられた境遇において、往々にして仲間意識が芽生えるのは同病相哀れむという事だと思います。水をさすようで変な言い方かもしれませんが、その絆はもろいことも多いです。
 ただ、昨今の若者達は、私には想像のできないようなエネルギーを以て何でも超えて行くというような、そういう力を持ち合わせているのかもしれません。ともすると、それぞれの国の和平に、希望をつなげられるのかもしれないと感じました。

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2011-02-21

リビア情勢-ガダフィ大佐の独裁に為す術はないのか

 北アフリカ・リビアで起きている争乱は16日、ガダフィ大佐の独裁政権に反発する市民のデモから始まったが、その当日既に治安部隊による発泡で大勢の市民が亡くなり、19日までに200人とも言われる死者を出しています。と書いて、死者を出しているのではなく、独裁者による虐殺であると思います。これまで取り上げてきた中東や北アフリカの争乱とは違い、あってはならない政府の姿ではないかと思います。41年以上も続いたカダフィー大佐による独裁政権は、最も手の施しようのない悪い状態としか思えません。
 リビアは産油国でもあり、その関係を書くのも然りだとは思いますが、ここではリビアという独裁政権国家について的を絞って書きます。まず、この国のリーダーであるガダフィー大佐というのは一体どんな人物なのかと思い、ネットで調べたのですが、ろくな話はないのです。独裁国家の主と言う他ないです。ただ、一瞬、冗談か失言集かと思うようなとんでもない発言が目に留まり、このサイトを見て、日本のお隣りの金さんとは違う、一風変わった人物だと思いました(参照)。が、今回の争乱によってただの独裁者ではなく、虐殺者となったわけです。これを報じる各紙に目を通していて感じるのは、女・子どもが悲鳴を上げている点です。デモに参加したわけでもないこれらの市民が何故?この辺りの問題は後で書くことにします。
 まず、リビアという国の正式名称は、「大リビア社会主義人民ジャマヒリヤ国(The Great Socialist People's Libyan Arab Jamahiriya)」で、「ジャマヒリヤ」とは、アラビア語で「大衆」と「共和国」を意味する言葉を合成した造語で、カダフィー大佐が作ったと言われています。これは、代議員によらない国民全員参加の「直接民主制」を実践するというカダフィ氏の革命理論を表現していると言われています。この「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」の理論に従うため、リビアには憲法も国家元首も存在しないのが一点。
 カダフィ氏は地位や肩書を持っていないため、「大佐」はあくまでも呼称なのだとか。その理由も、私淑するエジプトのナセル元大統領の軍人としての最高位が大佐だったからだそうです。聞こえはいいのですが、実態は軍などを通じ独裁体制を構築しているようです。その証拠に、今回のような虐殺がまかり通る国なのだと思います。最近では自らを「アフリカの王の中の王」と呼んでいるそうですが、「独裁者の中の独裁者」ではないかと思います。
 注目するのは、このデモの行く末です。昨日も多くの情報を目にしましたが、市民の訴えが何らかの形で政府に取り上げられるような希望がこの国にはあるのだろうか。独裁者に対してそんな要求は無理と言うものです。
 CBC「Libyan forces fire on mourners again」は、葬儀の参列者にまで発砲したと報じています(参照)。

Libyan leader Moammar Gadhafi's forces have opened fire on mourners at the funeral for anti-government protesters in the city of Benghazi, where a doctor says at least 200 people have already been slain in days of demonstrations.
リビアのリーダー、ムアマル ガダフィ(Moammar Gadhafi)の軍は、ある医師によると、数日間のデモで既に少なくとも200人が殺害されたベンガジ市の反政府デモ参加者の葬儀で、参列者に発砲した。

A man shot in the leg Sunday said marchers were bearing coffins to a cemetery when they passed a Gadhafi compound in Libya's second-largest city.The man said security forces fired in the air and then opened up on the crowd.
日曜日に脚を撃たれた男性によると、人々が墓地に棺を運ぶ列がリビアで2番目に大きな都市であるガダフィ領を通り過ぎる時に起きた、と証言している。この男性は、保安部隊は空気中で発火して、次に群衆に見せたと話した。

 このような光景は私には想像できませんが、目撃した医師や市民の話を記事としてそのまま報じているのはCBCが例外ではなく、リビア情勢を伝えるメディアはほとんど同じスタイルです。
 理由は、リビア国内での外国人による取材活動が禁じられているため、電話やインターネット、メールなどを通して市民からの直接的な情報を得ているということです。また、先週土曜日の朝からインターネットも全て切断されたと報じています。
 このような状態は中国とも似ていると思っていたところ、なんと、中国へも改革運動が波及したようです(読売)。

➠中国、拘束や外出制限1000人…予告デモ

【北京=関泰晴、上海=加藤隆則】中東と北アフリカで広がる民衆抗議行動の影響は中国にも波及し、20日にはインターネット上で、共産党の一党独裁に反対する集会やデモを全国13都市で開催するよう促す呼びかけが行われた。公安当局は、各都市で厳重な警戒態勢を敷いた。
結局、大規模な集会などは起きなかったが、香港の人権団体・中国人権民主化運動ニュースセンターは、19日から20日にかけ、活動家ら1000人以上が中国各地で当局に連行されたり外出制限を受けたりした、と伝えた。

 中国も国に不都合が起こると、情報をシャットダウンする点ではリビアと同じですし、軍による市民の殺害行為は、天安門事件が物語っています。リビアは完全な独裁政権であるため、市民にとっては中国よりもさらに厳しく、苦しい立場にあるのではないかと想像します。
 国がこのような状態になれば、難民の流出は避けられないと思いますが、海を隔てたイタリアとはこの件で友好協定を結んでいるため、リビアの難民を受け入れる可能性はないと思います。リビアは広い海岸線があることや、地理的にもイタリアに近い(歴史的にも昔はイタリアの植民地だった)こともあり、アフリカ難民のイタリア向け出港地として絶好の中継地でした。これに対してイタリアを中心とする欧州側が、リビアがこれら難民を取り締まることを要請し、リビア政府の強力な取り締まりの結果、難民の流出は劇的に減少したそうです。
 西ヨーロッパやイタリアとリビアのこういった関係から、女・子どもの逃げ場がないと言う現状が、先に触れた死亡者の中に多く含まれているという状況を作っているのではないかと思います。あのスーダンの投票前、何万人もの国外避難者が投票に向けて帰省する映像を思い出し、リビアの人々は、スーダンよりも危険な状態にさらされているのだと解釈しました。
 リビアの人々の願う先に、なんの可能性もないということなのでしょうか、先の見えない日が続きそうです。

PS1:感情を入れずに、出来るだけ客観的に伝えるのが趣旨の政治経済問題ですが、若干感傷的になりました。悪しからず。

PS2:アルジャジーラの記事は、モロッコでも「2月20日運動」と言う名前で青年を中心とした抗議運動が立ち上がり、20日に全国各地で抗議デモを計画していると報じています(参照参照 )。
 これは、首都のラバトと経済首都のカサブランカが中心で、警官隊が昨夜から動員され、これらの町に通じる道路の封鎖を始めているとのことです。
 この「2月20日運動」の目的は、民主憲法の制定や現内閣及び議会の解散と暫定内閣の設置、司法の独立、腐敗の根絶と失業問題の解決を要求するものだそうです。
 時差を加味すると今日中に様子が分かるかもしれません。
 速報のようになってしまって悪しからず。

 

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2011-02-20

バーレーン情勢-争乱の背景について

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 人口79万人ほどの小さな国、バーレーンの動向が気になります。中東で次々に起こる争乱の着目点も、その国の歴史的背景や宗教の違いに起因するので、おのずと視点を先に絞る傾向になってました。昨日のニュースを辿りながら、この国の宗教的な背景や、問題点を拾い出して考えてみました。まず着目したのは、この反政府運動と見られる市民のデモからです。
 バーレーンの警察隊によって16日夜から17日未明にかけて、首都のマナマの中心部にある真珠広場を占拠していたイスラム教シーア派住民など数百人に、催涙弾などによって強制排除が行われました。この際に、子どもを含める住民に死傷者を出し、戦車や装甲車50台が配備され、物々しい厳戒態勢を敷いたことが大きく報じられました。武器を持たない住民のデモにこれだけの厳戒態勢になると言うことの意味は何だろうか。エジプトの反政府運動の一派の主導者であるゴニム氏の、あの涙ながらに語っていたインタビューを思い出していました(参照)。
 一方、政権側は、この動きを受けて17日、国会を緊急に召集したにもかかわらず、シーア派野党勢力(18議席)は同日、政権に抗議し辞職したとあります。
 この国の政権の特徴として、リファラ王家などの少数派のイスラム教スンニ派指導層が、国家の実験を握っている点と、全体の約7割が多数派のシーア派住民で、住宅、医療、政府への就職などであ差別的な扱いをされていることが挙げられます。反政府運動と報じられている節もあるようですが、中身は宗教上の対立と言えると思います。政権は、外国人の多いスンニ派に市民権を与えることによって宗教人口の比率逆転を狙っているとも言われ、これに危機感を持つシーア派住民から体制転換を求めるなどの団体が増え、18日の大規模デモ実施につながったようです。
 ここまでの動向で何が気がかりかと言えば、この帰趨が、ともするとイランのシーア派やサウジアラビアのシーア派(15%)への影響への懸念です。サウジアラビアは、中東のバランスを取っているというだけでなく、世界経済においては石油を通して関係国が多い点や、バーレーンはアメリカの中東の軍事拠点であることが挙げられます。
 また、バーレーンは、アメリカの中東戦略へ重大な影響を及ぼしかねないとして産経が報じています(参照)。

 ペルシャ湾やアラビア海などを管轄する米海軍第5艦隊の司令部と、米兵約1300人を抱える米軍の重要拠点だ。同艦隊は計約2万8千人の兵力を擁し、1~2隻の空母部隊を常時運用する。米中央軍の指揮下で、イラクやアフガニスタン作戦を支えるほか、イラン監視や、ペルシャ湾のシーレーン(海上交通路)確保などの役割も担う。

 バーレーンの政権に話を戻すと、宗教的に対立を生むような不公平な政策がまかり通るような政府とはどれほどのものなのか、そこを調べて驚いたのは、2001年2月には国民投票によって、それまでの首長独裁体制から立憲君主制へ移行していたのです。つまり、このデモの発端となっているシーア派住民の不満は、立憲君主制が正常に機能した上で解決されれば問題はないとも言えると思います。
 では、正常に機能していないのか?
 その前に、立憲君主制って何?という疑問を持つ人もるでしょうか。代表的な国は私も昔お世話になったイギリスがそうです。「国王は君臨すれども統治せず」という考え方です。
 イングランド王室は、王権が弱い時期に、マグナ・カルタ(大憲章)や権利請願を認めさせられていいる上、名誉革命によって権利の章典による立憲君主制が確立しています。簡単に言うと王権も法に縛られるという事です。「立憲君主」というのは王様も、みんなで決めた法律には逆らっちゃだめよということです。因みに、英国は、マグナ・カルタ(大憲章)や権利請願、権利の章典、裁判の判例などが憲法の変わりとなってます。いまだに法廷での裁判官、検事、弁護士は17世紀ごろのいでたちで、ベンチ・ウィッグと呼ばれるモーツァルト風、儀式ではフル・ボトム・ウィッグと呼ばれる長いバッハ風の2通りを使い分けています。ベンチ・ウィッグのほうは2本のシッポがついています(参照)。
 脱線はこのくらいにして話しを戻すと、国民の宗教比率のアンバランスに加えて、王家を中心とするスンニ派とシーア派の不平等が、多数派であるシーア派の不満として現れたと言えそうです。これを決定付けたのは、Twitterで拾ったワシントンポストの記事と、そのリンク先の記事でした(参照)。

Last summer two dozen Shiite opposition leaders were arrested and charged under terrorism laws.Many other activists were rounded up, and a human rights group was taken over by the government.

去年の夏、シーア派の野党指導者ら24名がテロ法違反で逮捕された。多くの他の活動家も駈り集められ、政府は人権擁護団体によって引き継がれた(買収)。

 この逮捕が野党にとっては弾圧となり、くすぶっていた不満と共に今回噴出したと見ているようです。
 ここまで考える中、問題の収拾の糸口は何か、それが読めないのですが、ポイントは、野党勢力であるシーア派の要望をうまく吸収することで政府内が安定化するのであればそれに越したことはないと思います。が、先にも触れたように、お隣のイランはシーア派イスラームが国教ですが、バーレーンに政権交代のような極端なことが起こりでもしない限り、同じシーア派の飛び火にはならないと見てよいのか、この辺が難しいです。また、サウジアラビアのシーア派(15%)の台頭に飛び火し、スンニ派との抗争へと発展しないか、そうならないことを願うばかりです。
 参考として、西側諸国がバーレーンをどのように見ているか、外国各紙から記事を取り上げて極東ブログがまとめているのが詳しいです(参照)。

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2011-02-19

CNN独占インタビュー ワエル・ゴニム氏の話しからエジプト争乱について思うこと

 昨日、エジプトの争乱後は民主化へ向かっている、という日本のニュース知って些か奇異に感じていました。軍のシナリオでその通りに進んできたクーデターであることが間違いでもなければ、そんなに早く民主化が進むはずはないということと、議会すらまだ立ち上がっていないからです。
 エジプト情勢に関しては情報が錯綜して、何が本当なのか事態が収拾してやっと少し見えてくるといった状況の私です。「4月6日運動」に関するWikileaksの暴露により、背後で、反政府運動がどのように進んでいたのかを垣間見ることも出来ましたが(参照)、FacebookというSNSを使った民主化運動の広がりを主導したGoogleの幹部ワエル・ゴニム(Wael Ghonim)氏がエルバラダイ氏とつながりがあったという情報を知った時は意外でした(参照)。若い反政府運動家が、反政府運動として活動しながらも、それは、軍のシナリオの中でわずかな動きであっただけでしょうか。私には見えないことだらけですが、ゴニム氏の失踪後、突然開放され、あっという間に時の人となってしまったことも軍のシナリオ通りであったとは、エジプト軍は知的で天晴れです。でも、これが本当かどうか、私はまだ疑わしく思っていました。ゴニム氏の脇の甘さが結果的には軍のシナリオにはまる原因だったのか、それを判定するためではないのですが、CNNのインタビューは興味深いものがあります。この話しの中で、ゴニム氏は政府の態度が急に変わったと話しています(参照)。以下は、ゴニム氏が開放された後、2月9日に行われたCNNIvan Watson(イヴァン・ワトソン記者)氏の独占インタビュービデオの起こしです。

「あなた方がこの革命を計画していたのですか?」

「はい、そうです。」

「どのような計画だったのですか?」

「この計画は、みんなを街に出させようというもので、人々の日常生活に関わる全般に関してを要求するものですから、特に一番最初に貧困層が多く住むエリアなどから始めようというものでした。」

「ムスリム同胞団が1月25日からこの運動に係わっていたというような憶測を聞きましたが、ご自身やお仲間の関わりはどのようだったのですか?」

「ムスリム同胞団は、この(私達の)組織との関わりは全くありませんでした。ムスリム同胞団の声明は、公式には関与しないと言うことでした。ただし、仮に同胞団の若者が個人的に我々の活動に加わりたいと言のであれば、それを阻止することはないと言っていました。自由な社会に行きたければ、インターネットにアクセスすればよいのです。その理由は、若者達がそこで、禁止されることのないメディアを通して他の国々と自分の国を見てみれば、本当の姿が見えてきます。そして、外ではコミュニケーションを図ったり協力している様子が分かります。」

「これはインターネット革命ですか?」

「ええ、全くその通りです。これはインターネット革命です。私自身はこれを“革命2.0”と呼ぶつもりです。」

「エジプト政府はいま変化すると言っています。委員会を開き、憲法を改正し、前回の大統領選の調査を行い、若者の要求を尊重し、検挙をやめ、報道の自由を守ると。このような政府のメッセージについて、あなたはどう思いますか?」

「残念ながら、もう交渉をしている余地はありません。実は、私達は25日(1月のデモ)、通りに出ました。その時、エジプト政府と交渉をしたかったのです。そのために私達は訪問したのですが、政府はこの交渉を夜にすると決めたのです。その夜何が起きたかはご存知の通り、政府は我々にゴム弾、警棒、放水、催涙弾を向けてきたのです。そして、500人もの仲間が拘束されました。「ありがとう、メッセージを受け取ったよ。」と思ったのです。そして、私達の運動が大きくなった途端に、政府は私達の要求を聞こうと態度を変えたのです。」

「あなたは捕まりましたが、それは偶然ですか?それとも標的となっていたのですか?どうお考えですか?」

「私は狙われていました。それは知っていました。」

「捕まった時は、どうでしたか?」

「非常に怖かったです。」

「目隠しは?」

「ええ、勿論されました。」

「ずっと?」

「拘束中はずっとでした。」

「今日、弁護士に私の銀行口座など全ての財産を委ねました。死ぬと思っているからです。あの広場の人々は皆同じように思っています。」

「それは、死ぬことを覚悟しているからですか?」

「ええ、勿論です。政府は私達に甘い言葉を投げかけますが、数日前、スレイマン副大統領は、エジプト国民はまだ“民主化“の準備が出来ていないと言っていました。それが、今の政府の真実を表していると思います。有利な立場の数名が全ての決定を行い、メディアを洗脳の道具とし、野球のバットで反対派を殴っているのです。」

「あなたは、何か責任を感じていますか?」

「いいえ、いいえ。亡くなった人々のことを思うと悲しいことです。」

「これまでに死んでいった仲間達のことが脳裏に焼きついています。ともすると、それは私の兄弟であったかも知れないのです。例えばこれが戦争であって、皆な武器を持って戦った結果だとしたら納得できますが、私達は誰も武器を持っていませんでした。誰もです。死んでいった人達は、武器によって誰かを攻撃した訳ではないのです。ただ、無差別に発砲されて死んだのです。それは橋の上から、下にいる人々を撃ったのです。これは犯罪です。だからムバラクは大統領は辞任すべきです。これは犯罪なのですから。私がぜひお話したいのは、"私は死ぬ覚悟は出来ています“私には失うものがたくさんあります。今は休職ですが、私は、世界最高の会社で働いています、私には最高の妻と、子供達も愛しています。しかし、この夢が実現するためなら全てのものを失っても構わないと思っています。誰も私達の“願い(望み)“を止めることはできません。誰もです。そしてこのことを、スレイマン副大統領にも伝えたい。また、このインタビューを見て欲しい。スレイマン、あなたは私達を止めることはできない。私を誘拐するがいい。仲間を全員を拉致したって構わないよ。牢屋に入れてもいいし、殺すがいい。あなたが何をしようとも、必ずエジプトに戻ってきてみせます。30年間もこの国を支配してきたでしょう。充分です。充分です。充分なんですよ。」

 翌日ムバラク前大統領は辞任したわけですが、ゴニム氏らが何か企んで陰謀めいた動きをしていた様子もなく、普通の市民が反政府運動を始め、それが思いのほか大きくなったために政府にマークされて拉致されたというだけのようです。そして、彼以外の拘束者を置いて彼だけが開放された理由は、彼が中心的な人物なので他への影響を避けるためだと思います。つまり極東ブログの読みの通りではないかと思ったのです。

 ゴニム氏はありがちな扇動者というところだ。記事には言及がないが、私の推測ではこの脇の甘さが、実際には、別運動団体の事実上の便乗と軍部の察知から謀略を招いた。
 そう推測するのは、当局の動きからだ。翌々日、すでに尾行を探知していたゴニム氏だが連絡が途絶え、翌朝失踪したのである。当局による拉致であるが、極秘に行われた。当局側が25日の運動でゴニム氏を危険視したというのが穏当な考え方だが、私は、当局はウィキリークス公電暴露からもわかるように、当局は彼らの活動を知っていて、それ以前から注目し、泳がすだけ泳がした。都合の良い時期にこの暴動を乗っ取るシナリオが動き出したと見てよいように思う。

 そして昨日、「勝利の行進」というデモが再び予定されていると知り、これもまた変な報じ方をしたものだと気になりました。エジプト市民は勝利など勝ち取っていないので、あり得ない報道だと思ったのです。
 このデモが変だと思わない人の方が圧倒的多数かもしれませんが、エジプト争乱は、一貫して軍による軍のためのクーデターであり、まだ民主化へは何も動き出していません。民衆が勝利宣言できるはずもないのでは?おかしなことが起きるものだと奇異に感じていたところへ、極東ブログからこれを解説する「エジプト争乱と軍部への疑念」(参照)が上がりました。ここで「議会の前段となるものが可視なるとき、エジプトの民主化も現れ始める。」と言われているように、軍主導ではない動きから議会が成立されなければ民主化の現れでもないといえると思います。
 ゴニム氏の表情を見ながら肉声を聞いて振り返ってみたとき、軍によって反政府運動に蓋をされた今、彼らの心に残ったのは、命を投げ打ってでも彼らの夢を実現するという確信です。これが、大きな数の広がりになり、民主化運動として再燃する時は必ず訪れると思います。その時は、軍という大きな壁を乗り越えなければ実現出来ないことも彼は学んだのではないかと感じました。

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2011-02-18

SolarCycle24の体験目指して今からやること-時代に逆行しているかな?

 今日は素敵な夢のお話をします。まず、何の夢か?若田光一さんがコマンダーとしてソユーズに乗り込む前に、アマチュア無線の4級を取得することです。若田氏は、2013年(平成25年)の年末から六ヵ月間宇宙に行くことが決定しました(参照)。このことを昨日ニュースで聞き、最初は二年後の目標があっていいなあという羨ましさと、私には今年の計画もないなあという現実との比較でした。でも、このことがきっかけでアマチュア無線の資格取得へと夢が膨らんだので、その話しをします。
 若田氏のことを報じるニュースの後、偶然、太陽の動きが活発化して、すごい勢いでフレアが炎を上げている画像を見たのです(参照)。これはTwitterで拾った記事で、なんとも綺麗な光景です。私の目には、太陽という未知のものへの興味でしかないのですが、このフレアが起こると磁気が発生し、いろいろないたずらが地球にも起こることぐらいは知っていました。

フレア : フレアは、彩層で起こる大爆発です。局所にエネルギーが集中したときに一気に発生します。フレアが起こると、X線などの電磁波や、高エネルギーの電気を帯びた粒子が飛び出し、地球に磁気嵐やデリンジャー現象をもたらします。

 で、Twitterの発言、「Cycle24」という言葉からいろいろと調べて行くうちに、こうしたフレアの活動による磁気の発生や、その齎すものが分かってきました。
 Cycle24というのは、NASAが数年間に発表した観測至上24番目の太陽黒点の増加のピークのことで、学者の説によると2011年から2012がその最も活発な時期だと予想されています。黒点は昔見たことがあるのですが、ほんで、何よ?この黒点で思い出したのは、その昔、アマチュア無線をやっていた知人が発狂していたのを思い出したのです。彼らマニアに言わせると、太陽に黒点が多く現れる時は電波が飛ぶのだとかの話しです。だから何がそんなに嬉しいのかです。
 太陽の活動が活発になって黒点数が増えると地球の電離層も活性化が増し、より高い周波数をより小さい電力によって伝播することができるようになるそうです。つまり、交信できる可能性が無限に広がると言う事です。これにエキサイトしていたようです。
 では、黒点とは。

 黒点 : 黒点は光球の温度が低い部分で、周囲より暗いため黒く見えています。対流層を走る磁力線が、ねじれた自転の影響で表面から飛び出すと、そこが黒点になります。黒点は太陽活動周期のバロメーターです。太陽は約11年周期で活動の強弱を繰り返していますが、活動が活発になると黒点も増えます。

 では何故、黒点は消えたり見えたりするのか?太陽にはプラズマの流れがあって、これを「太陽ベルトコンベア」と呼ばれ、このベルトが地球の気象に大きな影響を与えているそうですが、太陽では、黒点がどのようなメカニズムで現れたり消えたりするのかこのベルトコンベアの動きと大きな関係があるようです(参照)。

Conveyorbelt

 「まず、黒点というのは太陽内部のダイナモ(電流と磁場を発生させる作用)が作り出す磁場が絡み合った『結び目』であることに注意してください。普通黒点は数週間で消えてしまい、後には『残がい』とも言うべき弱い磁場が残されます。さて、ベルトコンベアが太陽の表面をすくう際に、黒点の残がいも回収してきます。やがて残がいはベルトコンベアとともに太陽の内部20万キロメートルの深さへと潜り込みます。ここで太陽内部のダイナモによって、残がい(磁場の結び目)は転生(増幅)し、再び表面に浮かび上がったときに新しい黒点が誕生するのです」
 このプロセスは非常にゆっくりと進行する。ベルトが一巡するのに要する時間はおよそ40年だが、遅くて50年、速くて30年とばらつきがあるのがミソだ。ベルトが速く回れば、より多くの残がいが回収され、その分浮上してきたときの黒点、そして黒点に代表される太陽活動は強くなるのだ。

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 この説によって、今年か来年には黒点のピークが訪れるということらしい。つまり、これがCycle24の正体で、アマチュア無線家が発狂を迎えるということです。
 ここまでくればもう足を半分突っ込んだ状態の私なのです。これはぜひCycle24を体験してみようじゃないのというわけで、アマチュア無線の試験って難しいの?Twitterじゃ無反応。またしても皆冷たいな。因みに、Twitterだとどこのラーメンが旨かったとか、天気や渋滞情報は直ぐにキャッチできるんですがねぇ。
そこで調べてでてきたのがネット上の模擬試験です(参照)。
 ここの、四級の「無線工学」をぽちってしてみると、四者択一問題がでて、間違えると画面が変わって真っ赤な背景とともに回答が見られます。正解するとそのまま画面は平和に先に進みます。当然、赤の画面も体験しましたが、嫌なもんです。赤って。で、問題は、中学の2年か3年の理科でやったような電流や電圧、抵抗などの関係や名称などを問う問題でした。 オオムネオームの法則とその原理がわかっていれば四級は取れそうな気がしてきたのは浅墓かな?回答率はまあまあでしたし。
 冒頭に挙げた私の夢が現実となるかならないか、やっとこのエントリーも大詰めを迎えました。つまり、4級試験に合格すれば私は無線士です。黒点がピークを迎えるまでに4級試験に合格すれば、Cycle24を狂喜乱舞しながら楽しめるということです。浅墓かな?取得プロセスは☞こちらですが、見たところ簡単そうなんですよね、これが。
 これを目標に頑張れば若田氏よりも先になって申し訳ないけど、プチ宇宙旅行みたいな体験になるかなぁ。ただね、これだけインターネットが普及してしまっている今、時代に逆行しているよね、って言われそう。Twitterで反応がなかったのも、Twitterユーザーの中に無線に興味のある人は当然少ないでしょうし。若田氏は宇宙からブログを更新しているくらいだし(「若田光一 宇宙ブログ」)。

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2011-02-17

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 今年、諏訪湖の御神渡りを見ることはできませんでした。一月の寒波で多くの家の排水管が凍りついた時、諏訪湖も全面結氷しましたが、気温が少し緩むと、諏訪湖に流れ込む川の水に周囲は解かされ、その広がりが中央へ向かって少しずつ氷を解かして行きます。この様子を毎日立石公園から見ていたのは、あれはどうしてだろう。
 2月4日は立春。この日を境に今年はぐっと春めいてしまいました。諏訪で一番寒い日が来るのは、この立春を過ぎた頃で、日中、氷が解けることのない寒さが訪れるのではないかと恐れるような気持ちになるのです。と、同時に、諏訪湖が凍るのを心待ちしてしまうのです。
 諏訪は、気温は低くくなりますが、静岡や東京に似た天候です。この間、諏訪の気候の話をしましたっけね(参照)。先週から時々降っている雪は、日本の南の海域に発生する南岸低気圧の仕業です。寒い時には日本の北の寒気が強過ぎて鳴りを潜めていますが、寒気が緩みだして暖気とのバランスが取れた時に、日本の西側に低気圧が発生します。これは、南岸低気圧と呼ばれ、太平洋側の西側から東に向けて雪を降らせます。
 どっさりと雪を齎す割りに日中の暖かさで直ぐに融けてしまうので、「里雪」とか「淡雪」と呼ばれるのはそのためです。西高東低の冬型の気圧配置はすっかり崩れてしまい、春はここだよ、という声が聞こえてくるのです。固く緊張した気持ちの時、人の心の暖かさに触れるとぼろぼろ涙がこぼれるのと同じで、まるで昨夜の私のようで可笑しくなりました。

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春の雪
豊饒の海(一)
三島由紀夫

 春の雪で思い出したのは、三島由紀夫の「春の雪」。豊饒の海シリーズ4部作の始まりで、筋立ては「禁断の恋」の物語ですが、輪廻転生という仏教的な哲学がそこにはあり、昔読んだ当時は、理解するのが難しかったのを覚えています。三島文学を評するなど恐れ多くてとても表現し切れませんが、どろっとした重たい汚さと美しさという異質なものから湧いてくる不思議な「美」が骨頂ではないかと思います。最近あまり小説を読まなくなったのですが、思い出したついでに再び読んでみようかと思います。
 春ですね。

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2011-02-16

「嘘」」の正体とは-愚考

 いろいろ考えた末、現時点でのスーダン問題は棚上げしようと思うに至りました。これは、今朝から先ほどまで考えていたことで、気持ちの整理も兼ねて書いておくことにします。
 今朝早く、と言っても活動を始動する夜中ですが、南スーダンでまたしても200名の大量虐殺があったと報じるニュースが気になっていました(参照)。スーダンのことにはもう触れまいという思いがあったことを忘れ、またか、という無念な思いがありました。
 アメリカのオバマ氏は今月7日、祝福する声明を出し、独立予定の今年7月に「独立主権国家として公式に承認する」と表明しました。また、クリントン国務長官も同日、スーダンのテロ支援国家指定解除への手続きに入るとの声明を発表したばかりです。にもかかわらず、同日7日、30名とも50名とも言われる死者を出した戦争が南スーダンで起こりました。この時に持った疑念は、結局、スーダンの人々は、平和などは望んでいないのではないかということでした。平和的に民主的に選挙が行われれば制裁も解除され、平穏な暮らしは約束されているにもかかわらず、この国の人達はそれを望むどころか、それが決まるという当日にもう戦争を始めているのです。これだけで、この国に支援やエールを送ることに見切りをつける理由は十分ではなかったのか、と後悔したのは先ほどで、どういう訳か、こういう思いを今朝はもっていなかったのです。忘れていただけなのか、自分の中では大きな問題でもなかったのかもしれません。もしかしたら、見切りをつける判断が甘かったというか、そう判断して確定的に思い込むことを恐れたのかもしれません。私が曖昧だったからだろうか、結局、バジル氏の逮捕は、この国の平和の条件のように結び付けてたのかもしれません。
 バジル政権が虐殺を行い、それを黙認してきた彼には逮捕状が出ているにも関わらず、これに応じることなく、いつまでもスーダンで政権を握っていることが平和を遅らせるという考えに直結したのは間違えでした。バジル氏は、直接に虐殺を犯した人物ではないにもかかわらず、変な思い込みに走ったのかもしれません。国の平和維持とバジル氏を逮捕することは関係のない話だということを納得したのは後の話で、当初、何故このような混同を起こしたかのか、今朝の自分自身に戻ってみました。
 前回の戦争時、スーダンに見切りをつけなかった理由に、固定的な観念になることを恐れるということがあったこと。自分が可愛いだけの話し。そして、先週スーダンで起きた200名の虐殺を報じるニュースを夜中に知って、平和を願うという個人的な思いをバジル氏の逮捕に重ね、オバマ氏が、この件に関して何も触れないことが気になっていたのがあります。
 さて、このことを通して、私は向き合っておかなければならないことを出すことにします。それは、「嘘」という世界です。私はこれでもかなり潔癖症で、まあ、融通も利かないかもしれないのですが、嘘を平気でつくような人間ではないと普段思っています。臆病だから嘘はつきたくないのです。バレた時、言い逃れや上塗りは見破られるものだと思っているし、居心地の悪い心持ちでいることは嫌。また、そういう人間だと思われるのも嫌。なので、そんな思いをしてまで嘘などつこうとも思っていません。が、私は嘘をついていると思われているのです。え、そうなの?何のために私が嘘をつくのだろう?そういう疑問があったので、だから、嘘があったのかなかったのか考えてみることにしたのです。
 行き違いの点。バジルの逮捕を決済することと、スーダンで先週起きた200人の虐殺を解決することは別問題だ、という指摘をうけたこ時点では、そう理解できていませんでした。「残念ながらそーではない。」の「そー」が、何を指しているのか理解できていないまま、次に、自分で考えるようにと言われ、何について考えればよいのかポイントがつかめていませんでした。そして、「なんのために分かりたいの?」と聞かれて、「スーダンに平和が来ることのため」と答えると「それは嘘だと思う」と言われたのです。そして、後の私の説明に対して「「嘘」は、自分が平和を願っていると信じている点。」だと聞きました。私は平和を願うという点に嘘はないですが、スーダンに関しては、以前夢で見た南スーダンの独立の誤訳の話しで触れたように(参照)、あの時点でスーダンには呆れていた私でした。ですから平和をずっと願って信じてはいません。が、聞かれて、どうしたいのかと私自身に聞いた時、他の思いは何もありませんでした。ないならないでよいと言われても、。無意識に嘘が出るものなのか?私にとっては大きな問題です
 一つの考えとして、嘘をつくと言う意図的なものはないのですが、スーダンの件は、自分から切り離すしかないと言い聞かせえているようなところはあり、すっきり割り切れていないのもそうです。何とかならないだろうかと気が急くようなじれったさを感じています。この感情は、おごりからきているのかもしれないな。この間の戦争の時も、今回報道された200名の虐殺に触れてもそう感じたのは、それは、ダルフールの人々が平和を願っているという思い込みの上に、私のおごりが重なっているのかも。これは他の人には偽善のようにしか映らないかもしれない。良い行い、良い考えのような善悪の観念的なところから無意識に発している言葉だとすると、刷り込みによって染み付いているかもしれない。これは自分の問題だけど、前に自分自身を考えた時、幼い頃の育ちで考えたことがありました。今回が、それかどうかはよく分からない。瞬時に判断して発しているかもしれない。こういった観念に縛られている部分は、殆ど気づくことはないのだけど、「嘘だと思う」とはっきりと言える人には見えているのだろうか。もしかしたら、私は偽善者の塊かもしれない。自覚がないのが問題だなと思う。これは、薄皮をはがしてみてゆくほか解決の方法はないのではないだろうか。

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時事問題について迂闊だった-雑感

 時事問題については、きちんと検証して取り上げるべきかもしれませんし、それを整えない上で雑感もあったものではないのだけど、なんだかまとめにくい。と言うか、まとめずに感じていることなどをそのまま書いておくことにしようと思います。
 気持ちがざわめくのは、このところの郵政のずさんとも言える雇用の話しからです。先週だったか、16万人に近い非正規雇用の一部について、3月で契約が切れる3000人については契約を更新しないと知り、次に新規採用も見合わせると聞いた時は、何かがおかしいと感じました。当初は、昨年のペリカン便との合併時に業務に支障をきたしたことが浮かび、それらの経費増大が赤字の原因かと思ったのですが、その程度の経費でへこむはずもないと思っていたところでした。それよりも、昨年の11月、非正規雇用から8000人以上の正規雇用へ登用を決めた時点では、日本で一番景気の良い会社くらいに思ったので(朝日)、ここまで経営悪化に急変した原因が分かりませんでした。後で高橋洋一氏の記事を読んで、郵政の抱えている経営問題の根本を知り、とても迂闊でした。
 朝日の記事にもあるとおり、亀井さんは、当初の法案では、10万人を正規雇用へ進めるつもりだったのです。その数から見たら「絞り込んだ」のは確かにそうですが、春の新規採用はもっと気になっていました。

 正社員化は亀井氏が2月に打ち出し、10万人程度の希望者を数年程度かけて正社員化する構想だった。だが、完全民営化路線を見直す郵政改革法案が通常国会で廃案となり、亀井氏は閣僚を辞任。法案は臨時国会に再提出されたが、成立は困難な情勢で、日本郵政は将来の経営見通しが描けない状態となっている。
 斎藤次郎社長は「法案が成立しなくても正社員化は進める」と強調してきたが、採用すれば1人あたり年間約200万円の人件費増となるため、日本郵政内では当初から大量採用に慎重な意見が少なくなかった。採用数が1万人を割り込む結果に、一部の労組からは「予想以上に少なかった」との意見が出ている。

 結局、ここへきて経営が行き詰まったのを理由に採用を見合わせると聞けば、昨年の採用は、無策のような気がします。14日の高橋洋一さんの「 非正規社員の雇い止めも飛び出した「再国有化」日本郵政「営業赤字」転落の実態 このままでは「第二のJAL」になる」(参照)の解説と分析を読んで、一連のニュースは、郵政の経営力のなさを証明しただけに過ぎなかったのです。

 このやり方は、国家公務員の採用について新規採用を4割削減しながら現役職員の給与はほとんど削減せずに、既得権を守ったのによく似ている。菅政権は雇用が重要というが、それは既得権のある人の雇用だ。既得権のない非正規雇用や未だに採用されていない若者には厳しい。

 政府のやることは酷いものです。
 この春、就職を考える新卒者にとって、民営化に踏み切った郵政の現在の経営を見れば、誰も勤めたい会社とは思えないでしょう。
 そして、経営が悪化したのは政権交代後まもなくだという理由は、天下り官僚による「素人経営」が始まったからだと言われています。高橋氏は言及していませんが、現斉藤社長のことです。つまり「国営化」した、と。斉藤氏の起用時、私は、非常に自分が憤慨したことを忘れていました。天下りの汚点に重きを置いていたのは、癒着問題や、再就職先の斡旋事業くらいで、官僚の経営力ではなかったのです。ですから、経営力に対して過信して驚いたとかの程度ではなく、迂闊にそのことが念頭になかったのです。
 話しを戻すと、鳩山兄は、退職後14年も経っている方を採用するのは天下りとは言わない、などと擁護するような発言をしましたが、結果的に言えるのは、14年前の退職当時の官僚頭脳に郵政の経営を任せたということです。脱力。郵政は「民営」で経営されていたのではなく、中味は「国営」だったわけです。
 で、高橋さんは、早くTPPに参加しろとのご意見で最後締めくくられているのですが、これにも軽く脱力。
 先日、オーストラリアと経済連携協定(EPA)締結交渉を終えたと報じていて、「早期妥結を目指す方針で一致した」と始まる日経記事の内容をよく読むと、肝心のことが何も決まっていないじゃないですか(日経)。この記事は、finalventの日記の2月11日にクリップされていて、マークしておいた記事です(参照)。

 日豪EPA交渉は2007年4月に初会合を開き、昨年4月まで計11回、事務レベルでの会合を重ねた。豪州が牛肉(関税率38.5%)、小麦(252%)、砂糖(粗糖が328%)、乳製品(バターが360%)の4品目で日本の関税をゼロにすることを強く主張。双方が譲らず交渉は中断した。日本も昨年11月に前原誠司外相が豪州を訪問した際に、早期の交渉再開で一致した。
 日豪EPAはTPPの参加判断に大きく影響を与えるとみられる。2国間EPAは、TPPのような多国間協定と異なり、双方の国内事情に応じて関税撤廃の除外品目を設けることができる。実際、日本が最も抵抗するコメは豪州での生産量がわずかで、初期段階から除外して交渉してきた。
 だが、TPPは2国間EPAを上回る自由化を目指している。日豪EPAがまとまらなければ「TPPはもっと難しくなる」(海江田経産相)。

 この交渉に挙がっている農産物は、TPPの話しでも同様で言わずもがなですが、こうなると日本は、特定の品目で条件を設けることのできるEPAやFTAを特定国と結ぶだけでもいいのじゃないか、とか素人としては思うのですが、専門家がそれでは片手落ちだというとおり、そうなのかもしれません。
 高橋さんの話しは、いつも説得力ある解説で納得できますし、絵に描いた餅になるような話とも思いませんが、私が感じている現実とのギャップは強く感じます。それは、私の感じ方であって、事実が見えていないだけなのかもしれません。
 今の政府がダメだと分かっていて、政権交代すれば良くなるかと問うてみると、それは変わらないと思うのです。自民党は政権を獲得する勢いですが、その自民党に現状を改善する政策があるのか?マニフェストの見直しをしないのであれば現政権と同じようなものです。言い換えると、現政権は国民に相談なく、マニフェストに違反した政策を公然とやらかしているからです。それが不幸にも、自民党のマニフェストにそっくりなのです。民主党を叩いているだけの自民党に政権を移しても同じだったら、選挙で浪費するだけ無駄です。谷垣さんが青筋を立てて民主党を攻撃していますが、政策のない自民党は、せいぜい小沢問題を叩くくらいのことしかないし、予算委員会でもマニフェストの崩壊を認めろ、認めないなら法案は通さないと追い込む作戦しかないのです。この無策の自民党に政権を移しても、良くなるとは思えません。
 最近、地方の議会議員が民主党公認候補から辞退する動きが広がっているそうです。そりゃそうでしょうと思いますが、だからと言って自民党の公認になるでもないし、なんだか脱力感たっぷりですが、私の迂闊さを反省しつつ話しを終わりにします。

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2011-02-15

挫折した私-ムバラク氏の悲劇の始まりと一緒だったつこと?

 昨夕、NHKで時計職人として生きた男性を取材した番組をラジオから聞きながら、私の半生を振り返っていました。私の小さな頃の夢を話すのは自分でも照れ臭いのですが、いろいろあったなと思うとここに書いておきたくなりました。そして、私の挫折というべきか、20代で舵を切ったと同じ頃にムバラク政権が始まり、少し感慨深いものもあります。
 記憶の中で一番最初の私のなりたかったことは、水泳のオリンピック選手でした。小学生だった私は、東京オリンピックで見た選手に感動し、その影響で、紛れもなく将来の目標となっただけなのです。当時、泳ぎが速かったので、水泳の選手になれそうな気がしたのでした。卒業間近になると、大阪の山田スイミングクラブから声がかかったり、他校の小学校の先生から、「中学で水泳をするならうちの小学校の水泳クラブで鍛えてから行ったらどうか」という話しなども持ち上がっていたのでした。山田スイミングクラブと言えば、日本のスイミングクラブの最初期の水泳の英才教育をするクラブで、水泳選手の憧れでもあったと思います。東京オリンピックで敗退した日本の水泳界を盛り上げようと立ち上がったのは、ロート製薬のオーナー山田輝郎氏でした。しばらくどうしようかと真剣に考えていたことを覚えていますが、私は、足も速く、陸上選手への道も平行して持っていました。どちらにしても、小学生にありがちな、得意なことが将来なりたいものへ直結しただけの話しなのです。幼いながらにも、陸上はどこでもできる競技で水泳はちゃんとしたプールがないとできない、という判断で陸上選手に決定したのです。
 中学ではそのまま陸上部に入部したのですが、バスケット部の上級生(女)がやけに大人っぽく、シュートする姿がカッコよくていつしかバスケット選手に憧れたのです。なんだか、身近に見るもの全てのことになれそうな気がしていて、それも全て「選手」という枠に入っているのですが、どこの選手とか、どのランクの選手と言った具体性のない目標の置き方は目標とも言えない様な、既に甘かったのかもしれません。陸上で全身の運動能力を高め、高校ではバスケットをやろうという目標は立ったのですが、その頃はもうオリンピック熱は冷めていました。何かの選手になろうなどという野心はありませんでした。
 一方、ギターにはまったのも中学の頃でした。PPMの美しいメロディーに憧れ、特に上手とも言えなかった歌を歌うようになり、同級生の男子に誘われるままにグループ結成まで行ったのです。卒業前の音楽発表会のような場で歌わせて欲しいと先生に頼み込んだはいいのですが、学校で教える音楽とは違うという理由で却下されました。後にこれが発端で、学校のあり方に疑問を持つようになり、ボーヴォワールや何故かサガンなどを読み始めることにつながりました。
 ギターはというと、趣味の範囲で終わったな。お小遣いをためて買ったギターはいまだに実家にあり、時々弾くこともあります。中学では、練習の成果を見て欲しかっただたに過ぎないのですが、教師の判断に反発心だけが芽生えたようです。こんな私でしたから、高校進学の時、担任は、封建的なムードに包まれている歴史ある女子高への進学はやめれ!と一喝。あんたは、男女共学のバランスのよい学校のほうが似合っていると言われ、進学校ではあったけど県内では一番じゃない公立の共学に進んだのです。しかも、担任はずるかった。私が高校でバスケットをやりたがっているのを知っていたため「あの高校のバスケ部の先生は国体の監督をやっているし、選手も送り出しているからあんた次第よ」という殺し文句を言ってくれたのでした。
 また、高校からバスケットを始めて国体選抜になるようなキチガイは普通いないのですが、私はそのキチガイでした。明けても暮れてもバスケットだけの高校生活でした。そして、中学で憧れていた先輩が、偶然にも同じ高校で、バスケ部の部長さんでした。舞い上がって喜び、同じリングに向かってシュートできることだけを目標に練習に励みました。なので成績はどんどん落ちたのですが、中学の貯金でここぞという時には点が取れたのでした。文武両刀だったとは言い難い中途半端な状態でしたが、建築家を目指して進学も決まったのです。ここで何故建築家を目指したのかは、なりたかったと言うほどの夢は持っていませんでしたが、創造的な仕事につきたかったことが主な理由で、母の影響から手に職をつけることが優先でした。同級生は、事務員などをしながら職場で結婚相手を見つけるみたいな事を言わないまでも、それが当時の女子の一般的なレールで24~5で結婚するのが普通でした。そのためか、同級生は皆結婚が早かったようです。が、しかし、離婚者もかなり多く、中学卒業後35年目の同窓会で私は「辛抱あるね」と誉められたのでした。私の結婚は、当時としてはとても遅いほうでした。
 振り返ってみると、小学生から高校くらいまでは、なりたいものと言うよりも、やりたいことばかりやっていた私でした。なりたいものが見つからずに終わったのはそのためだと思いますが、やればできることは沢山あります。でも、そこそこしかできない。だからと言って、飛びぬけてできるようになりたいという願望もないのです。多くを望むことはなくなった理由に、時代があります。どんな道でもいいのですが、その手のトップを目指すことは、人の中を薮漕ぎするような我武者羅な力が必要でした。小学生だった頃、何かになることは一番になることであったように、競争して勝つことしか残る道はなかったような時代でした。その競争に価値観が置かれ、それが評価されたような時代に染まることができず、結局、自分のしたいことに道が逸れたというべきか、救われたというべき人生を送った私でした。
 この先にも自分語り的なことが沢山ありますが、今日はこの辺でやめておきます。いつか書きたくなったら続きを書こうかと思います。
 話しは散漫になりますが、ムバラクさんの辞任後が気になってどうしているかなあと思っていたら、昨夜、病気だという説があることを知りました(参照)。これは、デマかもしれない違うかもしれないとのことですが、30年間独裁者であり、82歳という高齢で病気なら、棺おけに半分足を突っ込んでいるようなものです。普通、独裁者と言われる人は、政権から退いた瞬間に国外逃亡がその終末の筈です。または、その前に暗殺か。ムバラクさんはどこへ鳴りを潜めているのか、消息が途絶えてしまっていることを奇異に思っていました。
 これは極個人的な思いですが、私は独裁者であるムバラク氏を悪くは思っていないのです。いろいろ噂されている人ですが、政治家としての功績も残しているし、それがムバラク氏個人の私服を肥やしただけではないし。それと、最後の引退表明くらいムバラク氏の幕引きとして、自身で語ればよかったのじゃないかなと思っていました。
 そして昨夜から日が変わって直ぐのTwitterで目に留まったNewsweekの記事「The Tragedy of Mubarak(ムバラクの悲劇)」(参照)では、彼自身は国のために身を粉にして働いたという苦労話などが語られていますが、市民の反発が大きなデモとなったのは、ムバラク氏が30年間、国の変化を理解してこなかったという答えだと締めくくられています。こういうのを身から出た錆と言いますが、これにはちょっと複雑な思いがあります。
 ムバラク氏の前のサーダート氏の暗殺後、副大統領であったムバラク氏が昇格して大統領になり、サーダート氏を継ぐようにイスラエルとの和平を保ってきたのは彼の功績だと思います。サーダート氏が暗殺された背景にあったパレスチナのアラブ人同胞に対する裏切りという反感などが残る中、イスラエルとの和平をそのまま維持してきたのはムバラク氏の独裁政治ではあったかもしれませんが、あの時代のあの情勢下ではムバラク氏のようなリーダーが必要だったはずです。
 30年間で国が変わったというのであれば、私は、サーダートに続く暗殺がエジプトに再び起きないことを願っています。

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2011-02-14

「4月6日運動」からみたエジプトのクーデター

 エジプトの市民によるデモもようやく終息に向かい始めたようです。これを喜ぶ各国の声明など、メディアが伝えていることは殆どおめでとうメッセージです。ところが、昨日、ウィキーリークスが「4月6日運動」について暴露した2008年12月30日の公電の全文を読むとよいと聞いて訳してみるに、私の知らない情報が教えるエジプト問題の奥の深さを痛感しました。感じたことなどをまとめておくことにします。
 TwitterからクリップしたBBCの「Egypt military pledges transition to civilian rule(エジプト軍、民政移管を誓約)」(参照)の記事で、極東ブログ「エジプトの争乱、後半戦」(参照)が考察した通り、軍の展開の手際のよさに感服といった感想を持ちました。

 軍のもくろみは3つあった。(1)ムバラク元大統領の息子ガマル氏に行政権力を継承させないこと、(2)82歳にもなったムバラクを引退させること、(3)軍がムバラク政権と心中せず国民からの正統性を受けて存続すること。見事、3点、クリアした。

 そして、オバマ氏は、エジプトの民衆に対して賞賛するコメントを出していて、私は、これを些か奇異に感じたのでした。エジプトのアメリカ支持は10%を切っていた記憶があり、このところ極端に人気がないことを承知した上で、エジプト市民を絶賛するものであるとしたら、この場に及んであまりにも調子が良すぎるというか、取ってつけたような言い方に聞こえたのです。ここでウィキーリークスの全文を読むよう助言をもらい、極東ブログの先のリンク記事から暴露された公電を訳してみたのです。
 訳文にについての詳細はここでは省きますが、この公電を読むにあたって「4月6日運動」が何であるかが重要で、これを改めて調べなおしたのですが、言及する文献は乏しかったです。ウィキーリークスの表現「APRIL 6 ACTIVIST」では見つからず、英字新聞などでの表現「April 6 Movement」では、Wikipedia「April 6 Youth Movement - Wikipedia, the free encyclopedia」の英語版によるとこうあります(参照)。

The April 6 Youth Movement is an Egyptian Facebook group started by Ahmad Maher in Spring 2008 to support the workers in El-Mahalla El-Kubra, an industrial town, who were planning to strike on April 6. Activists called on participants to wear black and stay home the day of the strike. Bloggers and citizen journalists used Facebook, Twitter, Flickr, blogs and other new media tool to report on the strike, alert their networks about police activity, organize legal protection and draw attention to their efforts.

 2008年の春、工業都市El-Mahalla El-Kubraで、4月6日に計画された労働者ストを支援するためにフェイスブック(Facebook)上で始まった運動とあります。
 フェイスブックと言うのは、アメリカ発祥のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で、Twitterユーザーよりもはるかに多くのユーザーがいると言われている大所帯のネットワークサービスです。早速、ここの「6th of April Youth Movement 」(参照)を見ると、それらしいページに移ります。アラビア文字をGoogle Trancelateで日本語変換してもさっぱり意味が分かりません。こう言ってはなんですが、単語の羅列にしか見えません。が、沢山の「イイネ」と多くのコメントから、大勢が「4月6日運動」に関心を寄せていることだけでは感じ取ることができました。
 以上のことで「4月6日運動」が理解できたとも言えませんが、ウィキーリークスの内容に話しを戻すと、これによると、この運動を具体化するために活動中だったメンバーのエジプトでの拘束の話しや、シンクタンクでもある米国連邦議会の役員らの開催する議会で、彼らの民主化変革の要望についてのプレゼンテーションの話しなどの武勇伝が暴露されています。また、昨日、極東ブログでその全文訳のエントリーが挙げられました(参照)。
 今までのエジプト情報で、労働者層の民主主義への願望がどれほどあったか、その動きを伝えるメディアは乏しい限りではなかったかと思います。それは、見てみない振りだったのか、蓋をされたのか、それさえ分かりませんが、今回の争乱が軍による軍のためのクーデターで終わったと言うことは、多くの労働者層の民主化願望はそのまま置き去りにされることを意味していると思います。「全文を読むといいのだけど」の助言の意味がここで滲み出してきたのです。オバマ氏の演説をここで引用しておきます。

US President Barack Obama said he "welcomed the historic change that has been made by the Egyptian people".

He also "welcomed the Supreme Council of the Armed Forces' announcement today that it is committed to a democratic civilian transition, and will stand by Egypt's international obligations," a statement released by the White House said.

 「4月6日運動」の背景を知ると、オバマ大統領の祝福の声を心から喜べない市民も多くいるはずです。
 最後に、エジプトの運動が教えてくれたことは沢山ありますが、日本には軍隊がないからか、クーデターとはどういうことなのか、革命とは何が違うのかなど、意味を掴むむずかしさが多々ありましたが、メディアが報じていない背後の事実などを知り、掴みきれないもどかしさが残ります。反対に、学者やブロガーの発する私見や分析は、人の知る権利が守られた社会でのみ機能するということも分かりました。エジプトの民主化はこれからどれほど進むのだろうか、目を凝らしても鮮明には見えてきません。

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2011-02-13

漫画「のらくろ(田河水泡)」のこと

 「のらくろ」。それは、田河水泡の漫画で、主人である野良犬のこと。またしても残念なことに、私は読んだことがない。またしてもというのは、以前ここで触れた「ヒストリエ」の事を思い出したからなのです(参照)。全6巻のヒストリエが、おそらく私の生涯で一番まともに読んだと言える漫画で、漫画読みが苦手なのです。昔、友達から少女マンガを借りて読んだことはあるのですが、直ぐに読むのに疲れるのです。また、母が漫画嫌いであったため、漫画を読む環境が家になかったというのもあるのです。
 何故、唐突に読んだこともない「のらくろ」の話がここにこぼれているかですが、昨日、この漫画は日本の戦前・戦中を知るのに読むとよい漫画なのだとTwitterで知り、読みたいと思って調べてみたのです。それと言うのも、戦争は、私が身近に感じることのなかった一つなのです。
 母は昭和3年、父は大正15年生まれですが、戦争当時、母は中国で育ち、父は戦争に召集されて入隊したばかりだったそうです。が、入隊した途端にソ連の捕虜となってシベリアに抑留されたため、実戦の経験はないのです。戦争の話を両親から聞いたことがないのはそのためで、特に、日本軍の話などは皆無なのです。
 この「のらくろ」について調べながら僅かながらに思い出したのは、テレビで見た記憶です。確か、黒い犬がヘルメットを被って動いていたという程度の事で、それは猫のようでもありました。その頃私は、学校の部活か何かで忙しくしていたのでしょう、じっくり見た記憶はないです。
 ここで出来れば読んでおきたいと思い、早速アマゾンや古本をネットで当たったところ、最初に書かれた「のらくろ」は、戦後、書き換えられ、そのまま復刻版になったそうです。では、どんな漫画だったのだろうか?疑問のままに調べたのですが、探すとないもで、全巻揃うかどうか分かりません。そもそもこれはどんな内容なのか?Wikipediaにはこのようにあります(参照)。

 ノラ(孤児)の黒犬・のらくろ(野良犬黒吉)が猛犬連隊という犬の軍隊へ入隊して活躍するというお話。最初は二等卒(二等兵)だったが徐々に階級を上げ、最終的に大尉まで昇進する(当初、のらくろを少佐に昇進させるつもりだったが軍から苦情があり、やむを得ず大尉で除隊させた。別説では、少佐になると偉くなり過ぎて前線にはやたらに出せず、動かし難い。戦後に描かれた話には、戦闘描写はあるがほとんど誰も死なず、物語の序盤で軍隊は解散する。孤児ゆえの辛さを描写する事もあるが、田河はこの辺りの描写を自分自身と重ね合わせたという。ブル連隊長、もしくはモール中隊長が父親的な役割を演じている。いわゆる正伝では最終的に所帯を持ち、喫茶店の店主になるが、外伝では様々な職業を手がけている。

 そして、作者については(参照

 田河 水泡(たがわ すいほう、男性、1899年(明治32年)2月10日 - 1989年(平成元年)12月12日)は、昭和期に活躍した日本の漫画家。現代美術家から転じた。世界で初めての専業落語作家でもある。東京市本所区林町(現東京都墨田区)出身。義理の兄は文芸批評家小林秀雄。
本名・高見沢 仲太郎(たかみざわ なかたろう)。現代美術家としての名は高見沢 路直。落語作家としてのペンネームは高沢路亭。

 田河水泡の名前の由来は、「高見澤」をローマ字で「TAKAMIZ・AWA」と書くと、田河水泡になるからで、ローマ字のようにきちんと読んでもらえなかったからだそうです。
 1931年から今の講談社の「少年倶楽部」に連載され、1941年、内務省からのクレームで打ち切られたとありますが、その後もキャラクターとしての人気を博していたため、田河の弟子によって新作が発表されたとあります。私の記憶にある「のらくろ」は戦後のそれもずっと後なので、キャラクターとしてのイメージしかないことにここで気づいたのです。実際、のらくろのぬいぐるみや学用品のキャラクターを見かけたことも思い出しました。
 ますます当時の「のらくろ」がどのような漫画だったのか知りたくなり、掘り当てたのがこれです(参照)。

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9 ブル聯隊長「あの鉄条網はどうしても爆弾で爆破せねば攻めとることは難しいな」
10 決死隊「聯隊長殿 自分達三人で決死隊になります」 ブル聯隊長「爆弾を投げに行ってくれるか えらいぞ」
11 決死隊「御国のためだ 命はいらない」
12 爆発音
13 ブル聯隊長「それッ このひまに突ッ込めェ」 兵隊「突ッ込めェ」 モール中隊長「あの三人を犬死にさせるなッ」 のらくろ「一番乗り のらくろ一等兵 ここにあり」

 当時の漫画には、コマごとに読む順に番号があるのにちょっと感動しました。予断ですが、「ヒストリエ」を読み始めた頃、読む順番がわからない(番号がない)ので疲れるという話をしたら、そこが漫画の読ませどころなのだと教えられたのです。この時から、てっきり漫画のコマには番号を付さないものと思い込んでいたのです。
 戦前の初等科の国定教科書になっていた「三勇士」でこの三兵士が、正に鉄条網破壊のため、自爆して突破口を作ったと言われて英雄になった下りです。「肉弾三勇士」とも言って、自爆による英雄だったのです(参照)。しかも、年号に注目。満州事変が勃発したのは1931年9月で、「のらくろ」の連載も1931年12月ですから、戦争で起きた事をまるで実況のように漫画として世に広めたわけです。これは、田河の性格のせいなのか、それとも製作者魂というべきか、海の向こうでは戦争の真っ只中だというのにいずれにせよ暢気なものだと思いました。
 さらに調べると、のらくろシリーズ全10巻が単行本化されたのは翌年からで、『のらくろ上等兵』(昭和7年12月)、『のらくろ伍長』(昭和8年12月)、『のらくろ軍曹』(昭和9年12月)、『のらくろ曹長』( 昭和10年12月)、『のらくろ小隊長』(昭和11年2月)、『のらくろ少尉』(昭和12年5月)、『のらくろ総攻撃』(昭和12年12月)『のらくろ決死隊長』(昭和13年8月)『のらくろ武勇談』(昭和13年12月)『のらくろ探検隊』(昭和14年12月)。このように、のらくろは昇進してゆく様が分かります。また、最後の「のらくろ探検隊」は昭和14年、つまり、十五年戦争と言われる年代にそっくりかぶっています。
 十五年戦争とは、1931年(昭和7年)の満州事変から日中戦争を経て大東亜戦争の終結の1945年(昭和16年)までですから、 大東亜戦争終結の二年前に政府からお咎めをいただいて幕を閉じたということになります。
 第一巻の「のらくろ上等兵」の結末について、リンク先では次のように触れています。

 この戦闘の一番乗りの功により、のらくろ一等兵は、上等兵に昇進します。そして、亡くなった3匹は、それぞれ金鵄勲章の栄誉にあずかるわけですが、ラストのコマで、戦死者の墓を前に「一しょに凱旋しようと思つた戦友は名誉の戦死を遂げて自分ばかり上等兵になつてすまないなァ」と泣くのらくろの描写でこの話は終わります。

 また、『のらくろ総攻撃』・『のらくろ決死隊長』・『のらくろ武勇談』の3作では、動物のキャラクターを戦争に関わった国にたとえて、山羊は蒙古で、豚の国の豚勝(トンカツ)将軍が、そこに駐留する猛犬連隊に腹を立て、熊の国の支援を頼りに戦争を仕掛け、豚の国の一部と見なしていた羊の国を猛犬連隊の力で独立させてしまったとあるのです。 

猛犬将校  オイオイ、豚勝将軍 君の方ではまた戦争をする気だそうだがやめた方がいいぜ平和のために

豚勝将軍  そんなら羊の国を返すあるか

猛犬将校  君はまだ分からないのだな 羊の国は羊が独立したのだ
          犬がとったのじゃない だから豚は豚でおとなしくしていればいいじゃないか

豚勝将軍  そんなら犬は犬の国へ帰れ豚の国に出しゃばって守備隊なんかに来て呉れんでもよいある

  猛犬将校 バカ言え 犬が守備してやらなければ豚の国は熊に食われてしまうぞその時に困るから守備してくれと君の方で頼んだのじゃないか

豚勝将軍  アハハア そうか それ忘れてた どうか守備隊様々頼むある

 漫画の下りとは言え、しかも不謹慎かもしれませんがじーんと泣かせる内容で、当時の人のやり取りを漫画の中の会話がまるで再現しているように感じ取るのは間違いなのだろうか。極一部の抜粋とは言え、今風のギャグで茶化したりオノマトペ的な表現ではなく、生きた会話による筆致という印象を受けます。
 手塚治虫の漫画の一代前に、田河のような漫画家がいたとは知りませんでした。亡くなったのはいつだったのか調べると、田河は1989年(平成元年12月12日)に90歳で、因みに、手塚治虫は同年2月9日に61歳で、昭和と共に去ってしまった漫画家だったのです。

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2011-02-12

ある冬の日のこと

(「作詞者、作曲者ともに不詳)

雪やこんこ霰やこんこ
降っては降ってはずんずん積もる
山も野原も綿帽子かぶり
枯れ木残らず花が咲く

雪やこんこ霰やこんこ
降っても降ってもまだ降りやまぬ
犬は喜び庭かけまわり
猫は炬燵で丸くなる

 この歌、雪が降る度に記憶の中の小学生の私が口ずさんでいます。歩きながら、その光景がそっくりもどってきて、当時のいくつかのシーンを回想しているうちに目的の場所へたどり着いてしまうのです。そして、小学生の私もそこですっと消えて現実に戻るのです。雪というのは思いがけない追憶の世界へ連れて行ってくれるものです。
 飼い始めた犬は、生まれて始めての冬を迎えています。小型なので、室内でお気に入りの玩具と戯れていれば運動不足になるとも思えませんが、犬種にもよるのか、とても運動好きです。毎日の散歩は、きつい登りの片道3.5キロの山道がそのコースとなっています。往復7キロも走ったり歩いたりしているこの犬が、雪の日には外に出られないとなると、それは、ストレスだよねえ。と、ぼんやり思っていました。
 問題は、この雪道をどうするかにありました。雪やこんこ霰やこんこ♪と、歌いながら歩くのもよいなあ、行きたいなあと思った途端、犬が濡れちゃうじゃんか。そんなことよりも、食料の買い置きが気になり、続いて現役の長靴がないことが外出の足を止めてしまうことになると思い出したのです。畑用に回した長靴は、どうも履く気になれないし。

Kenmap

 ここで、長野県の冬は雪に閉ざされると誤解されている向きもありそうなので、この土地のことを説明するとこうです。気圧配置が西高東低になると日本海側に雨や雪を降らせ、太平洋側は晴れる、というのは誰もが知っている日本の典型的な冬の天候です。県のほぼ中央にはアルプス連山があり、これが、日本の脊梁山脈(せきりょう)と言われているように、文字通り背骨が長野県を二分しているのです。ですから、天候も県内では東西南北で全く違います(参照)。
 この気圧配置にあるときは、北アルプスを境に南部の地域は東京や静岡などと同様の晴れになりますが、南アルプスを境に県西部は雪や雨になることが多いです。つまり、諏訪は県内有数の、年間通して穏やかな気候に恵まれた土地柄なのです。そうは言っても、逆に気温は一二を争う極寒でもあります。まあ、軽井沢の次くらいかな。話が長くなっていけませんね、つまり、諏訪が雪に閉ざされる心配はほとんどないのです。地図のほぼ中央の丸い白いところが諏訪湖です。
 ところが、天気予報では二三日降り続くと言うので、食材のストックや長靴の心配に至る羽目になったのです。雪やこんこと歌っている場合じゃないのです。しかも、この極寒の地に雪が降ると、日中溶けた部分が翌朝バリバリに凍ってしまうのです。こうなると、でかい鉄製のハンマーでもってかち割るしかなくなります。そうならないために、こまめな雪かきが必須となるのです。昨日は、これで何度か雪かきをしましたから、普段使わない筋肉が悲鳴を上げるというわけです。今年の積雪量は日本海側ではかなり多いようで、連日雪被害を報じているのを耳にすると、諏訪などは比較になりませんが、これだけでも大変だと痛感します。
 この雪を始めて経験するわんこですが、彼の日課の散歩の事がますます気になり、私と一緒に家に缶詰になるのも可哀想に思えてきたのです。かと言って、雪中散歩は寒かろうなどと考えていてはっとしたのが、雪やこんこの二番の下り「犬は喜び庭かけまわり、猫は炬燵で丸くなる」んだった。まあ、雪の中にあまり出ないので、雪中で散歩している人も見かけたことはない私です。この歌の通りで良いのだろうか?変な母性本能というか、過保護な私。実子にもこんな気遣いはしたことがない。にもかかわらず、あの柔らかい肉球が霜焼けになるんジャマイカ?などと、いくつかの思惑が脳内を駆け巡る。こういう時はTwitterにかぎる。と、Tweetしてみたが、無反応。冷たいな、皆。
 一大決心をして出かけて、犬の洋服売り場でレインコートなるものを見つけてきた。黒と赤のトーンがカッコイイミッキーマウスのフード付きだ。地味なのを見つけるのに苦労した。犬の洋服は、私に似合わずカラフルでミーハー的なんだな、これが。なんせ、連れて歩くのは私なんで、私が阿保に見られるんジャマイカと、そっちが気になる。途中、友人のミニチュアダックスフンドの冬のコートはファー付きのフードであったことを思い出し、ためらいもなくそっちに気が行く私。いかん、いかん。ついでに、犬の長靴もあるんジャマイカと探しながら周囲をきょろきょろ。この光景を知り合いの誰にも見られなかったかが気になりつつ、楽しいショッピングであったな。

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2011-02-11

肌で感じる諏訪の景気や中国、台湾、マナーのことなどいろいろ

 諏訪に住んでいて、敏感に感じることができるのは製造業の景気の動向かなと思います。企業名では、エプソンを筆頭に、一部上場の企業もいくつかあります。人口53000人のうち、第二次産業(製造業)に携わる人口は10300人ですから、五人に一人。因みに、第一次産業(農林水産業)は1100人、第三次産業(サービス業)は16400人で、生産年齢の人口は34100人なのです。5人家族なら、お父さんは工場へ、お母さんはパートでラーメン屋さん、おじいちゃんは山で芝刈りみたいな構図になるのかな。つまり、隣近所には製造業関係の仕事についている人が多いのです。それも、精密業が盛んで、昔から、東洋のスイスと言われて空気は澄み、水は清らかだからです。温泉地ということもあって観光客も諏訪湖周辺のホテルには多く、また、高原の空気に触れるにはもってこいのアルプス連山にも近く、住むにも良い土地です。それに、諏訪城址もあり何かと歴史のある古い町であり、造り酒屋や味噌や醤油、寒天、高原野菜など、気候に合った食品製造も多いです。
 景気の動向を感じると言えば、近所の小さな工場が廃業したり、リストラされたお父さんが毎日犬を軽トラに乗せて畑に通う姿を見かけるとかで情報が見えるのです。駅前のまるみつ百貨店は今月20日に閉店が決まっています。昭和39年から地元に親しまれてきた唯一のデパートですが、郊外の大型ショッピングモールや大型ホームセンターなどに経営は押されぎみでした。今まで何度も経営危機があり、数年前、旧精工舎(現エプソン)の創業者の関係筋が、この町に残したいという気持ちから資財を投げ打って再建に当たったのですが、これ以上の経営改善ができなくなったようです。
 この土地の不景気が日本の平均的なものとは言いがたいですが、こうして見ていると、この先に景気回復の道はあるとは思えません。とにかく、購買意欲なるものはないですから、作り手が余ってるのです。皆、仕事がしたくてうずうずしているのです。
 最近、ニュースで中国人観光客を呼び込むための商戦情報を聞きますが、諏訪では、外国人観光客は少ないです。内陸なので無理もないのですが、テレビで報じている中国人観光客の勢いを見ていると、急成長時代の頃の日本の外国観光を思い出します。欧米から、メガネをかけてカメラをぶら下げたちんちくりんのおっさんは日本人だ、と失笑を買ったことも忘れられません。その頃、私はイギリスで、日本人の男性観光客のナイトツアーの案内を頼まれてアルバイトをしたことがありますが、ガツガツしたおっさんが夜の街に繰り出す目的は一つといったところでした。
 昨日見かけたニュースで9日、台湾に訪れた中国人観光客とのトラブルを報じていましたが(サーチナ)、それとは関係なく、そういえば台湾は今年「国父」と慕われる孫文らが清朝を倒した辛亥革命(1911年)から100周年にあたり、様々な慶祝イベントが開催されていると聞きますから、中国人観光客で賑わっているのもそのはずです。例の如く、ここでちょっとその状況を調べてみました(読売)。

2010年に中国から観光やビジネスで台湾を訪れた旅行客が激増、1967年から09年まで43年間最も多かった日本人客を大幅に上回ってトップとなったことが、台湾交通部観光局が11日に発表した統計で明らかになった。
08年の馬英九政権発足後の中台関係改善を反映した形だ。

同観光局によると、08年7月、中国人の台湾での団体観光が解禁されて以降、中国人旅行客が急増。10年は前年比67・8%増で163万735人を記録。日本人旅行客は同7・9%伸びて108万153人となったが、中国に大きく引き離されての2位だった。
台湾当局は、中国人の個人観光を4月にも解禁する方向で検討を進めている。

 こうなると、中国人が観光客としてどこでも喜ばれて当然です。日本の秋葉原では一人平均20万円は買い物をしているとも聞きましたし、急成長を遂げている中国を受けれて、第三次産業復活となれば嬉しいです。
 が、これだよ。中国ってこれだからあかん、と言われることにマナーの悪さが際立つことです。先の台湾でのトラブルが、その代表的な一つです。まあ、小さな記事ですが、ここでは大きく取り上げておくことにします。

台湾の有名観光地、阿里山国家風景区の森林鉄道で、大陸からの観光団が列車の座席を取りあって乱闘する騒ぎが続出している。分かっているだけでも6日に1回、7日には2回発生した。苹果日報などが報じた。

6日午後に発生した乱闘では、ミネラルウオーターのペットボトルも飛びかった。現場を目撃した台湾人観光客はインターネットで写真を公開し「あまりにもレベルが低い。双方ともそもそも、並ぼうともしなかった」とあきれた。
7日の「乱闘」は、神木駅と阿里山駅で発生した。神木駅で乱闘に巻き込まれたという福建省からの観光客は「私たちは列に並んでいた。列車が駅に到着したとたん、山西省からの旅行団が割り込んできて、争いになった」と主張した。

 これって、先進国ではマナーが悪いと言いますが、興進国中国においては当たり前。昔の日本のおっさんがイギリスでガツガツしていたのとは全く違う意味でガツガツというか。
 拓殖大学の台湾人客員教授 黄文雄さんが中国について面白い分析をしています。「中国が嫌われる七つの理由」、これ、よく勉強しておくと良いかもしれません(参照)。

  1. 自己中心
  2. ご都合主義
  3. 独善(悪いのは全て他人だ)
  4. 責任転嫁
  5. 人間不信(二人で井戸をのぞくな)
  6. 土匪国家(その土地に住みついて害をなす集団。土着の匪賊(ひぞく)。土賊。(Kotobank)
  7. 危険な「友好」

 こんなことはほとんど知り尽くされているのかもしれませんが、最後の「友好」はちょっと曲者で、解釈の違いと日本人の国民気質に落とし穴があるようです。

 中国を相手にする側にとって、中国が強調する「友好」ほど不安なものはない。なぜなのか。その理由は「友好」の解釈権がもっぱら中国の側にあり、中国の規定する「友好」におとなしくついていかなければならないからだ。ことにしたたかさをあまり持ち合わせていない日本人は、腹芸が下手でタヌキとキツネの化かし合いができない。しかも日本人は外圧に弱く、中国流の「友好」パフォーマンスに対抗するのがきわめて下手である。
 友好」という言葉を額面どおり受け取っていると、思わぬ落とし穴にはまることになる。実は中国が「友好」を語るとき、ことに相思相愛を語るときが最も危険なのである。それは歴史を振り返ればわかる。たとえば、中ソ、中印、中越戦争が起こったときは、いずれも両国の「友好」関係が蜜月のピークに達した時期にあたり、まさに老子のいう「物極まるときは必ず反(かえ)る」という結果になった。
 だいたい人間の歴史で、民族間、国家間に「子々孫々の友好」などあったためしがない。中国との「友好」は、すなわち彼らの独善的な価値観を全面的に受け入れることでしかない。日本人は中国がたたみかけてくる友好の嵐に翻弄され、身も心もくたくたになってしまう。そして考えれば考えるほど嫌悪感を越えて怒りがこみあげ、やがて「日中友好」の滑稽さに気づくことであろう。

 へー、とか思っちゃうのは、うちの会社でも中国の娘を三名受け入れたことがあるのですが、雇用関係にあったからか、上記に関係して思い当たる悪い印象はないです。でも、5の人間不信については、あります。
 彼女達は、中国製品を絶対に信用していません。買い物に行っても必ず「Made in China」をチェックします。電気製品は、中国製は直ぐに壊れるから絶対に買わないのだとか。ふむ、納得。野菜は絶対に生では食べません。これは、中国で作っている中国野菜は不衛生だからだと。理由は肥料にあるみたいだったな。中国製のインスタント調味料もできるだけ使わない。これは、添加物だらけで薬を食べるようなものだからだって。でも日本製のは美味しいんだって。同じなんだけど。しかも、中国に味の素が進出したからインスタント調味料の分野が広がったんだけどね。鶏肉とか、肉類をよく洗って使っている。これは、中国では市場の道端に放り出してあるから汚いんだって。それは日本でも肉の塊を荷台に乗せて市場を行き交っているらしいけど。
 あれ、話の流れがおかしくなってきたみたいです。話しを戻して、中国と言わず、色々な国の人達と関わりを持つようになる日本が目指すとしたらどんなことかなあ、と考えてたのです。
 広義には、他所のどこの国よりも居心地の良い国だと絶賛されるような観光地を目指すのはあるとしても、製品はやっぱり日本製、接客態度は世界一という評価を目指すとしたら、究極的には個人力の結集になるのかな。先の、中国が嫌われる7つの理由を反面教師に襟を正すということもあるけど、なんだかなあ。

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2011-02-10

メルケル・サルコジ案は無理無理-でも気にいった

 ユーロの財政難については昨年末に少し触れましたが(参照)、危機に陥った国内銀行の救済のため財政赤字が深刻になり、ユーロの支援を要請したアイルランドの政権が解散・総選挙に追い込まれているようです。政権交代が実現すると、二大野党の統一アイルランド党と労働党の主張している、アイルランドに対する金融支援の返済条件の見直し問題がクローズアップされ、ギリシャに続いて新たな問題を抱えるのではないかと思います。(SankeiBiz)。
 全体的な動きを把握するために、クリップしておくことにします。
 まず、ユーロの財政はどうなっているのか?危機的だと聞いてもその実態はどうかと調べると、4日にすでにユーロ首脳会議で、ユーロ防衛基金の強化・拡充を3月に行うめどが立っているようです(毎日)。

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総額4400億ユーロ(約49兆円)の欧州金融安定化基金(EFSF)のうち融資に充てられる額の増額や、財政危機に陥っているユーロ圏諸国の国債をEFSFの資金を使い、市場から買い戻す案などが軸となる。3月中旬に臨時のユーロ圏首脳会議を開き、詰めの協議を行う。

一方、独仏両国は首脳会議で、「EUの競争力強化のため」(サルコジ仏大統領)の財政規律強化策を共同提案した。主な内容は、(1)一部の国で年金受給開始年齢や法人税率を引き上げ、EUで統一化(2)物価上昇率に連動した賃上げ制度の見直し(3)財政赤字の順守目標を憲法や法律などに明記--などで、ドイツが採用している財政規律策をEU全体に拡大するよう求めた。

 これに反発が出るのは必須で、内容には唖然とするものがあるのですが、既に融資をうけているギリシャを例えに当てはめると、財政悪化していますから国債価格は大幅に低下してるため、発行時の価格よりも「安く」買い戻せます。これが、結果的に財政赤字の削減に役立つという理屈を言っているのだと思います。何だか手品みたいな話なのですが、素人目にはそういうもの(可能なこと)なのか、としか言い様がありません。
 また、1,2,3,の要望は、国会主権に触れる内容でかなり強行とも言えますが、会談に応じたドツはこれでも軟化していると報じています(参照)。

 ドイツ政府は欧州金融安定ファシリティー(EFSF)の拡大やギリシャの債務負担軽減策に反対する姿勢を続けてきたが、欧州各国がドイツ型の厳しい経済改革を進める兆しを見せ始めたことから、強硬なスタンスを和らげる兆しが現れている。
 公には、ドイツは依然としてEFSFの規模拡大は不要だとの姿勢を崩しておらず、ギリシャによる債務再編を受け入れようとはしていない。
 だが、水面下では、ギリシャの債務返済条件変更や欧州における賃金や年金制度の改革などを盛り込んだ包括的な合意を3月までにまとめるべく、交渉の場についたもようだ。

 ドイツはユーロ圏で鍵を握っていると思っていただけに、この軟化姿勢は今後の交渉がスムーズに行くのではないかと期待したいのですが、国内では支援反対論が強く、昨年5月のギリシャ救済や他国の救済メカニズム創設に対する有権者の反発もあり、メルケル政権の支持率が落ち込んでいるため、欧州各国に財政規律強化策を条件にしているようです。

  • 「小刻みな」アプローチには断固反対すると強調している。なぜなら、ドイツでは年内に7州で選挙が行われ、追加支援策が浮上するたびに議会の了承を求めることは不可能なためだ。
  • トリシェ欧州中央銀行(ECB)総裁の後任人事をめぐる思惑も絡み合う。ウェーバー独連銀総裁のECB総裁就任を支持することをドイツが交換条件にしていると公に認める向きはいないが、ウェーバー総裁がギリシャに対して救済融資の返済期間を30年に延長する案を提示したのは、偶然の一致ではなさそうだ。ウェーバー総裁はそれを通じ、ユーロ危機解決の立役者になろうとしているとの見方がある。

 独仏の共同提案は国家主権に踏み込んだ内容とも言える上、融資を受けた国の足元を見るような内容ではないのかと関係の無い私が言うことでもないと黙ったのですが、ギリシャからは物言いがついているようで、これが議論されることに期待します(ロイター)。

 ギリシャのパンガロス副首相は7日、日刊紙タネアとのインタビューで、債務の上限を国内法で制定するというフランスとドイツの共同提案を一蹴した。
 仏独両国は4日に開催された欧州連合(EU)首脳会議で、競争力強化と債務危機解決に向けてユーロ圏やEUの加盟国が採用すべき一連の措置を共同提案した。
 共同提案には年金支給開始年齢の引き上げや賃金のインフレへの連動撤廃なども盛り込まれているが、他のEU加盟国の反応は芳しくない。
 パンガロス副首相は「すべての国家の憲法に介入するEUの決定という考え方を断固として拒否する。それがドイツの救済案に加わる前提条件になるという構想は魅力的ではない」と述べた。

 ここで調べてわかったのですが、例えば、アイルランドの法人税は12.5%と他国に比べて極端に低く、ベルギーはインフレに応じて公務員の給与が上がる仕組みをとっています。世界的な経済危機の渦の中で特別に凹んだ国を救済する時、加入してまもないエストニア(2011・01・01加入)などは、即行で支援側に回らなくてはならなくなります。
 それぞれの立場を持つ国々を統合していくのは至難の業だとは思いますが、今回の独仏共同提案はあくまでも「提案」としても、この案に接点が見いだせるのかが疑問です。ただし、この疑問視は日本人の私の感じるところであって、欧米は無理難題とも思われるような事を割と平気で提案するというのはお国柄でもあると思います。
 日本人は、交渉の際に打って出るとうような強行な姿勢は見せず、相手の承諾圏内を見極めて妥協点を最初から見つけるような、相手にすればこちらの手の内を見破られやすい隙だらけのような交渉の仕方が多いと思います。例えばロシアとの北方領土問題でも、ロシアが経済支援を必要としている時に、まずはニ島返還に応じ、経済支援を切り札に残るニ島の返還を要求して下駄を預けておくなど・・・ああ、私のでしゃばることじゃないですね。けど、メルケル・サルコジ案は、誰も認めそうもない案ですよ。それなのに、がーんと前に出すその姿勢が気に入りました。日本政府は、爪の垢でも煎じて飲んではどうでしょうか。

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2011-02-09

私の鍋遍歴からの愚考

 「善書は紙筆を選ばず」これは、昔母からよく言われた言葉ですが、そうじゃないんだなこれが。今は、道具を選ぶ時代なんです。で、やっぱり良いお道具を使えばそれなりの成果も得られるというものなんです。と、反発したわけではないのですが、色々やってみないとわからないというのと、良いと言われているものを一度は使ってみたいという好奇の目の奥に、自分の腕以上の出来栄えを期待してしまうのが調理器具なんです。
 確かに母に言われているころは、物を増やすよりも最低限の物を持ち、その手持ちの中から創意工夫をして使いこなすのが腕の見せ所なのだと、しかもそれをひけらかすことなく、秘めたる喜びとする奥ゆかしさがいい女なのだと教わったのです。道具に走る走らないというよりも、母の言うような「いい女」の方に魅力があって、できるだけ頭を使って料理は知的にするものだという考え方も、実は私にはしっかり入っています。そういう母はどんな人っかて?「トイレの神様」のおばあちゃんを想像してもらうとわかると思います。

 では、これまでの人生で鍋釜をできるだけ買わなかったと問われると、人一倍買ったかもしれないのです。その理由は、一生ものと自負できるような丈夫で長持ちする器具に出会うためでした。それを言うなら、例えば、洋服や靴、バッグなども私は良いものをたくさん持っています。イギリスのバーバリーのAll woolの(勿論)スーツやコート,、バッグ、スコッチハウスの帽子などは私の二十歳代の物です。日本では売っていないものなので例のバーバリーでございみたいなチェックではなく、よく見ないとそれとはわからないのですが、30年近く着ています。愛着もあって大切にしているためか、全く古着にも見えないのです。長く着ても型崩れなどしないし、どんなに時が経っても処分する理由がないのです。一番の天敵は、woolをこよなく愛する「虫」だったりしますが、手入れをきちんとしていればそれも大丈夫です。
 洋服ですらこのように一生ものと言えるような代物に出会うことができるのですから、他のものにも期待を寄せてしまうというものです。それが、私の場合は鍋釜なのですが、納得の行くものにはなかなか出会うことがありませんでした。
 最近のもので一番のお薦めは、ウー先生のパン。「ウー・ウェンパン」です(参照)。使い勝手といったら、空焚き以外ほぼ万能鍋と言って良いと思います。特に、ドーム型の蒸気調節穴付きの蓋のデザイン性や使用感は最高。そして、蒸し器として使えるように、平らな穴付きの内鍋なんて傑作品です。しかし、フッ素加工の耐用年数の虚しさだけが欠点。蓋と内鍋は無傷であるのに、肝心の鍋の底の部分だけが最初に傷んで不義理をするのです。これ、何とかなりませんか?なのです。せっかく素晴らしい鍋に出会ったというのに、フッ素加工の部分にだけは購入時に覚悟を決めないとダメなんです。
 また、鉄製の鍋と違って、フッ素加工は手入れをして復活させる事もできないのです。これは、最初から洗い流すだけみたいな簡単な手入れを優先させるツケで、長く楽をして寿命も短いという証です。私のウー・ウェンパンもここで2年半位になるので、そろそろかなというところです。ただ、お値段と耐用年数を考えれば、良とするところかもしれません。個人的には、このお値段で一生物になったら快挙ですが、適当に耐用年数を設けないと商売も成り立たないのかな。高度成長期頃の製品メーカーは、耐用年数と総合的な使用感の対価として値段設定し、商品の消耗時期よりもやや早く新製品を売り出したものです。だから、飛ぶように売れた時期の消費者は、商品価値を何に置いたかという点で、私の母の頃の価値観とは全く違いました。で、私はその生き残りのようなものなのです。
 さて、手持ちのお道具がだんだんみすぼらしい状態になると、思い出したように使うのがフランスの「VISION」製のフライパンなのです。これは、液晶化ガラス(耐熱強化)製で、大変丈夫です。IHヒーター以外なら、電子レンジ、直火、オーブンと、全ての熱源に有効です。これが、娘と同じくらいの年齢で、無傷で使用しています。フッ素加工のフライパンのように表面がダメになることもなく、鉄のフライパンのような磨きの手入れも一切必要ないのです。仮に料理でしっかり焦がすようなことがあっても、長い時間水に浸せば、焦げ付いたものが鍋の形のままぽっこり浮かんで取れてしまいます。

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 こんなに素晴しいバーバリー版フライパンがあるというのに、なーんでこれが重宝されてこなかったのか不思議なんです。また、この会社、もうこの製品も作っていないみたいなのです。
 既にVISIONはフランスでの生産は中止されていますし、その後アメリカへ移ったのですが、現在市場で買えるのはデッドストックくらいではないかと思います。私がこのフライパンを買った頃は、高度成長期の終わりに近かったのですが、VISIONも少しずつ商品ラインを増やしていました。フタ付きのキャセロールの大小やミルクパンのような片手鍋なども数種ありました。今思うと、あれが最後の足掻きだったのかも。
 当時、私がお世話になっていた方に商品群から一つを選んで毎年プレゼントしていたことがあって、彼女は、外から料理の出来具合が見えるので、うっかり焦がす事がなくなったと喜んでいました。その喜びを聞いて、ついには自分用にと私もフライパンを買ったのが今の手持ち品です。
 メーカー側からみると、一生物を作ると商品は絶賛させるけど、買い換える必要がなくなるので儲からないという原理なのかな。それと、高度成長期の商品価値は、短期耐用型で低下価格によるリピーターの購買意欲ですから、その時代の中で埋もれてしまった素晴らしい商品に無念さを感じます。
 私の寿命と共に物の一生も同じで良いと思っていましたので、死ぬ時は、物を残さない事が良いと思ってきましたが、一生物は私一代ではなく、譲りつなぐ事もできます。また、「物」というのは壊れるもので、儚い一生でしかないと思ってきたのですが、日常使うものが何十年も使い続けられるのであれば、それこそ物の真価じゃないのかな。私は、何か間違った考え方をしてきたような気がしています。

 どうかなと思って、簡単で美味しい男料理の先生のブログをぐぐったら、鍋釜に関して考察を発していらっしゃいました。私とは全く違った角度で、料理時間に的を絞って器具選びをされているあたり参考までに☞こちら。 因みに、ここで紹介されているスロークッカーは、後に私も購入し、ここでも度々料理例で紹介しています。

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2011-02-08

NPO法人の派遣でスーダンで働くgodmother-ただの睡眠障害か?

 私は、独立したばかりの南スーダンで、現地の女性たちの中で料理ならぬ、お裁縫を教えていました。貧困の生活でろくな栄養も摂れていない子どもたちを賄う母親に料理の技術を教えるため、日本のNPO法人の一会員として南スーダンにやってきたのでしたが、その目的のとおりには事が運んでいない毎日でした。料理を教えようにも食材が十分整わず、得体の知れない虫が泳ぐ水を相手に、思うに任せない日々が続いていました。
 ここ、南スーダンは油田が多いとは言え、独立前から決着の付いてない利権問題があり、現在も境界線がまだ決まっていない部分があります。所有がはっきりしていないため、南北両政府の派遣で軍が巡回しています。貧困の差が激しく、都市部にはまるで中国を思わせるような高層のビルも立ち並んでいますが、家賃が高く、借り手がないために70%は空き家となっています。
 都市部を離れると、道はなくなり、人々はまだ裸足の生活をしています。小さな村落に井戸が一つあれば良い方で、何キロも離れた場所の井戸まで水を汲みに行くのが女性の仕事になっているのです。このような場所で、料理の手ほどきをするとは、日本でもっと現地調査をすべきじゃないかと憤慨したところで、組織には上も下もないNPO法人なのです。改善すべきは自らその点を考え、次に繋ぐしかないのです。何事も自主運営であるため、文句を言う相手もないのです。まだまだ自分は未熟だなあ、とそんなことを思いながら、物事がスムースに運ばないことにストレスを感じる日々の連続でした。
 そして、何故お裁縫を教えることになったのか、その経緯がすっかり飛んでしまっている私なのですが、アフリカの女性たちの仕事は、手先の器用さが支えていくと考えたのでした。
 宝石の多いアフリカには、彫金や宝石デザイナー、レザークラフトでラクダの可愛いブローチやマスコット、バーニュ布で作ったスカーフやブラウスなどを生産コストに見合った金額で販売するなど、きっと小さな産業として育って行くに違いないと、そう信じていたのでした。
 ところが、ここに水をさすようなニュースが昨日飛び込んできたのです。南部の独立が取り消しになるかもしれないというのです。それは、国境線のない例の油田のそばで起きた戦争に原因するものでした。見出しは「Fighting in south Sudan kills 30」(BBC 6 February 2011)で、あろうことか、私の誤訳で南スーダン内部の内輪揉めと読んでしまったのです。それをTwitterで指摘してくれる人がいて難を逃れたのですが、いや焦りまくり。下手をすれば、誤報としてアフリカの日本人に配信するところでした。因みに、私は、現地の日本人に情報を提供するような仕事にまで首を突っ込む始末です。とは言え、誤報はマズイ。非常に責任の重い事ですから、大事に至る前に間違えを忠告してくれたことに感謝しています。
 このへんで目が覚めたのですが、これ、全部夢の出来事です。夢の中で思っていたことをそのまま書いたのですが、おかしな夢を見たものです。すごくリアルで、目が覚めたというのにしばらく夢の続きで会話していて、覚醒と睡眠の奇妙な空気にいました。
 途中に出てくる南スーダンでの戦争は、実際に起きていて、私が誤訳をして泡を食ったのも本当です。 スーダン南北の10年間の騒乱に終止符を打つべく、選挙によって南スーダンの独立が叶う直前だというのに、何もここで戦争を起こすこともないだろうと、ニュースの全容が見えたときには呆れました。因みに、私が誤訳をしでかす時は、大概戦争ニュースです。この原因は単に未熟だとしか言えませんが、武器や軍組織の単語は訳が難しい上、既にメディアで固定的に使用されている単語も多いので、邦語と英語の新聞が別物のような錯覚も起こすのです。
 こんなに鮮明な夢を見たのも不思議です。おそらく、誤訳した時の印象が強く、それがそのまま夢に絡んだのだと思いますが、夢の最初のほうで、翻訳の仕事で大変なドジをやらかして自信をなくした私が、NPO法人で人助けに関わり始めたのがこの流れになったみたいです。結構、自分の中に昔の仕事で悔いを残している感じがあるのは本当です。逆に言うと、また返り咲きたいみたいな願望のようなものなのかもしれません。

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睡眠はコントロールできる
遠藤 拓郎・江川 達也

 と、妄想し始めて思い出したのが、「睡眠はコントロールできる」(遠藤拓郎・江川 達也)です。先日、極東ブログで紹介されていて、なんでもiPhoneのアプリケーションで読めるとあって、それに飛びついてiPhoneに入れたのです。目につく場所にないので、今頃買ったことを思い出したのです。
 まだ、読み始めもいいところなのですが、紹介記事にはこうあるのです(参照)。

 簡単に言うと、各種の精神的な問題、あるいは勉強や仕事などに関連する社会的問題が、本人は自覚していないけど実は睡眠に起因しているという側面をよく描いている点にある。いろいろ現代思想するんじゃなくて、それ、睡眠障害だよ、みたいな。

 ね、なんとなく読書意欲をそそられるのです。思うに、今日のような夢は、「それ、睡眠障害だよ」って言われる類なのかな、とか思ったのです。日中に起きた出来事が夢に出てきて、その理由がわからずにもんもんとすることはたまにあります。自覚しないところで酷く傷ついた可哀想な私、みたいな妄想をした上に、それを被害妄想に発展させてしまうとも限りません。現に、昨夜のNHKクローズアップ現代の「鬱を“心”から治せ 有効性」などを聴いても、心の病は自分でかかっているようです。おお、さらに気になってきた。早速、本気を入れて読んでみることにします。

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2011-02-07

死刑囚永田洋子という人-元連合赤軍幹部の獄中病死

 1971年から1972年に連合赤軍が起こした事件で、当時、世間のことがまだあまりよく理解出来ない年齢の私にも、あの凄惨な事件を起こした主犯である永田洋子被告に情状酌量の余地などあるはずがないと思ったものでした。
 昨日、永田洋子被告が獄中で病死したことを知り、この事件が何だったのか、まず当時の事を思い出そうとしていました。が、事件の内容で覚えている記憶は、逮捕後の報道によるものばかりで、リンチ事件が起きたことを報じるニュースや、連合赤軍の当時の活動の詳細は、実感としてのものではないということがうっすらわかったのです。つまり、永田被告自身を、この人にはこういうことをした人という後付情報の上に自分の見方を重ねて認識しているのだ、という感覚的な捉え方だった事に気づいたのです。死刑の社会的な意味や意義を考え始めたのはしばらくした後で、あのあさま山荘の籠城事件(1972年)からもう40年も経っているのかという感慨が気持ちを埋めていました。
 この世代がやらかしたことを言い始めると、ロクでもないことばかりなのです。団塊世代と括られている世代で、西田敏行の「65歳になりました」というコマーシャルを耳にする度に心の中で「大きな声でえばることじゃないよ」と、ついつぶやいている始末です。戦後、「お前たちは誰のお陰で生きていると思っているんだ」と親から恩着せがましく言われて育ち、それを敗戦したアメリカのせいにして反発心を剥き出しに、よくもまあ世の中をめちゃめちゃにしてくれたものだ、というのが私の印象です。中島みゆきの歌が大嫌いなのもその理由で、歌詞に世代の臭いがたっぷり染み込んでいて臭ってくるのです。
 永田被告に話を戻すと、私の彼女像は、革命戦士になることは世の中を良くするための正しさだと妄想していていた気違いだと思っていました。正義を盾に人殺しをしても許されると思っているとんでもない奴と思ったのは、1982年(昭和57年)の一審東京地裁で「同志殺害の原因は、当時の誤った革命理論に求められるべき」を主張したからです。革命理論が間違えだったら、殺したあんたの罪じゃないと言うのかい、と反発したのを覚えています。これが、この世代の物事に対する正当化というもので、自分のせいじゃないと平気で主張するのです。それもその筈、恩着せがましく親に言われて従順に育った幼少期をすごした結果、自分の幸せを奪われたと恨んでいるのです。自分の不幸は、人のせいなので、自分に向き合う回路がないのかもしれないと思ったほどです。今の国会議員のこの世代にもこの特徴が出ていると、この際なので付け加ておきます。
 この時の判決は、「永田被告らの個人的資質の欠陥」と指摘した上で、「自己顕示欲が旺盛、感情的、攻撃的、強い猜疑(さいぎ)心、嫉妬心」などを列挙するものでした。当時私が持った疑問は、この人は殺人という罪に向きあうことができるのだろうかということです。妄想の中に自分が存在している事に気づき、その上で、現実に戻れるかどうかが彼女の獄中生活にかかっていたのではないだろうか。仮に戻ったとしても、死刑が取り消されるとも思っていませんでしたが、結局、病死ではもう向き合うことも問うこともできません。
 私は、死刑によって殺人犯を葬るのではなく、馬鹿は死ぬまで治らないという考え方です。社会復帰の可能性云々ではなく、凶悪犯は、生きて一生自分の犯した罪に向き合うが良いと思っています。だから、終身刑の賛成者です。
 永田洋子死刑囚と文通をしていた瀬戸内寂聴氏は、その後の控訴審で死刑の回避を訴えたのですが、その理由を調べると「被害者の一日一日を思い出し、責任を痛感している」「生きて事件の意味を考えさせてほしい」(参照)とあります。獄中で手記を書くなどをみると、永田さんは革命戦士からひとりの人間に戻りつつあるのかとも感じていましたが、命数には逆らうことはできず、自ら「総括」することもなく死に絶えたのは、彼女にとっては心残りではなかったのかとさえ思います。

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2011-02-06

とりとめのない話になったが、散歩で思ったこと

 生後6ヶ月を過ぎると、犬の運動能力もかなりパワーアップするもので、ジョギングコースにしていた7キロの道のりは、犬との散歩コースになっています。日中のぽかぽかとした日差しは、さすがに立春。昨日は、この散歩コースの折り返し点にしている公園で、お祖母ちゃんに連れられた兄と妹の二人に出会いました。犬の人懐こさに救われて、お陰でこうした人達と会話をする機会に恵まれるものです。そして、犬は子どもが大好き。
 お祖母ちゃんにしがみついて、また、祖母も心持ち強く保護するように手をしっかり握っている少女は、障害を持っていると見た目で直ぐにわかる子です。私は、そのことにすぐに気づいたのですが、それとは悟られないように素知らぬ顔を作って、連れた犬に気を配っていました。
 兄の方は、わずか3.5キログラムの犬とは言え、飛びついて行く犬の勢いに押されて寝転がって戯れていました。大はしゃぎしている兄の様子を、怖いもの見たさに祖母の後ろ手に回っては前に、犬が近づけばまた後ろ手に回りながら、少女なりの犬との対話をしているのだなあ、と微笑ましく見ていました。
 一緒の祖母も、足元がしっかりしていない少女を気遣ってはいるものの、きっと犬好き。怖がる少女に諭すように話しかけては次第に犬との距離を縮め、少女から、「ひも」「しっぽ」などの知っている単語を発するような反応が始まったのです。祖母の顔は笑いでほころび、それは、手放しの喜びようでした。兄も、妹やお祖母ちゃんの方を時より意識しながら、彼なりにパフォーマンスをしているようでした。
 この時間が20分位だったのかと思うのですが、別れ際に、「犬を飼うといいですね。」と私に話してきて、この少女が本来なら小学2年であり、脳性麻痺を患ってることを明かしてくれたのです。私は聞くまでもなく分かっていたのですが、軽く、「そうですか」と返事を返して別れました。
 思い出していたのは、生後一日だけ生きた私の第一子のことでした。
 内臓未熟で仮死状態で生まれ、出産後直ぐに小児科へ回されて延命措置の治療を受けました。医師の努力の甲斐もなく翌日息を引き取ったのですが、その時、医師から、「命がつながったとしてもこれだけの治療をすると、脳に障害が残らないとも限らない。そうならない限界のところまでの治療はしました。」と告げられた時には言葉が出ませんでした。目に前にいる赤子の体は、まだ温かく、今にも息を吹き返すのではないか、もう少し治療はできないのか、と訴えている心に「終わったんだよ」ともう一人の私が言っているのです。
 小さいお腹だと心配されながらも臨月までは元気にお腹で動いていた、元気だった私の娘は、生きるための空気を自分で吸えないほどのひ弱な生命力だったとは。この丈夫な体の私の何がいけないのか?と、自分を責める日々が続きました。「脳性麻痺の子どもを育てるのは大変ですよ。考えよう、ということもありますよ。」と、医師から言われ、また、亡くなった子どもよりも次に丈夫な子どもを生むことを考えたほうが良いと言うようなことを言わました。それを、そうだなと思えたのはずっと後の話です。
 もしかしたら、私も公園の少女のような子どもを育ててたのかもしれない、そういう思いが別れ際にあって、祖母が手を引くその子が小学二年だと思うと、これから先の苦労は他人事とも思えず、気が重くなったのです。いや、こんな風に見ちゃいけないと打ち消そうとするのですが、正直なところです。面倒を見てくれる人がいない最悪の状況を想定して、たった一人でも生きていかれるように親は育てなくてはならないのです。それでもできないことが残れば、それを誰かが何らかの方法で助けなければこの子は生き延びられません。そういう状況の人は日本のどこにでもいますが、この国は、どこまでそのことを考えてくれるのだろうかと不安になり、気が重くなるのです。
 もう一つの経験に、国が面倒を見てくれてよかったというのもあります。生まれながらにして足の筋肉の萎縮によって起こる先天性内反足だった、末の息子の時の経験です。
 一般的に、赤ちゃんはお腹では足を前に組んでいますが、息子はお腹であまり運動をしなかったのか、内側に縮まったままだったようです。出産後、直ぐにギプスをはめて治療に取り掛かったのは、筋肉が伸びやすい生後一ヶ月の治療が10年後の後遺症の予防につながるからです。息子も当然、整形外科の患者になって治療を始めました。
 10歳までは、足首から先を外向きに矯正するための装具(革製の靴)を足に合わせて手作りしてもらうのですが、成長の著しい時は、半年で靴が小さくなります。これを公費で賄わないで自腹を切ると、靴の代金だけで一組8万円相当かかります。国に申請して認可されると自己負担は二割の1万五千円くらいです。全部で9足作ったので、70万円以上はかかっています。この制度はありがたかったです。
 ただし、国からお金を出してもらうための手続きは大変です。医者の証明や装具の見積書などの書類を整えるために関係機関に何度か足を運び、現金を手にするまでには時間もかかり、子どもを連れてそのために歩きまわるだけでもくたくたでした。
 これは、国から補助を受けるだけの話ですが、長いプロセスを踏むので、現金が入金されると「ありがたい」という気持ちになるです。これがまた、惨めな思いなのです。 母親は、子どもに何かあると、それは自分のせいだと思いこみやすく、自責の念というのはずっと付きまとうので、これを受け入れるまでは葛藤があるものです。
 公園で遊んだ少女やその祖母に何も言わずに別れたのは、自分の身に起こってみないとわからない苦労や痛みをさもわかったような言葉や、社交辞令でさえも言いたくなかったからです。人がする苦労を分かち合うとか、慰めや同情は思い上がりからくるもので、そういう高いところは居心地が悪いのです。それよりも、黙って見ていることしかできない自分が歯痒く、複雑な思いで一杯でした。で、このような思いになるのは何故か、そこがどうしてもわからなかったのですが、昨日、なんとなくわかったのは、意識の問題です。
 国が上から下を見て、誰がお恵に相当するのかしないのかを見定め、そのお眼鏡に適った人はきちんとお願いをすると救ってくれる、みたいな意識が、私の知らぬ間に潜んでいたようです。だから、補助を受けるのは、周囲に申し訳ない気持ちがしてくるのです。そして、国には、ありがたいと思ってしまうのです。その国って誰よ?なんですよね。誰もいないというのに、自分で勝手に像を作ってしまうのです。時々、窓口の職員だったりもします。
 最後に一言だけ言うと、役人は、国民から業務を委託され、代行しているだけです。それを円滑に公平に行う仕組みのあり方や、制度を決めるために議論するのが国会議員の仕事です。それだけのことです。私達は、何かの時のために一人ひとりが国の機関にお金を預け、誰もがその必要があれば受け取ることのできるお金をもらうことに、遠慮や気兼ねなんてする必要はないのです。

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2011-02-05

「イスラムの怒り」内藤正則を読んでみて

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イスラムの怒り
内藤正典

 昨日届いた、「イスラムの怒り(内藤正典)」が面白かった。読んだ後、何とも穏やかな優しい気持ちに満たされているのが不思議なのです。また、ムスリムが世界から正しく理解されていないために、長く虐げられてきたことと自分のことが重なって、読んでいる中で泣けた部分もありました。心地良さの余韻のままに書いておくことにします。
 この本を読むきっかけとなったのは、「相撲は、ムスリムは嫌うと思う」という一言でした。相撲は、私は興味がないのでどうでも良いのですが、このところ、中東のことを取り上げて書いていることもあって、特に騒乱には心を痛めている私です。ところが、いざ書くとなると、大変な作業も伴います。やや開き直りのようでもありますが、無知であることを恥じて書かないよりは、その恥を晒しながらでも、少しでも人を理解して行きたいと願うようになってきたのです。そして、「ムスリム」を理解するのはとても難しいと思っていました。
 本書では、「ムスリムとは、イスラムを信仰し、その教えを実践する人、つまり、イスラム教徒のことである。」と説明されていますが、ムスリムに対する偏見や、欧米のムスリムの不理解によって出来上がった「原理主義」などという言葉や、これに俗悪化された含みが蔓延り、何からムスリムを学ぶべきかがわからなかったのです。そんな状態の私には、「相撲を嫌うムスリム」という一風変わった切り口ながらも、ここから何かがつかめるかもしれない、そう思って飛びついたのです。
 ネット上の友人であり、ある意味では私の先生かもしれないのですが、この同級生から時々、自分の考えを持つようにと叱られます。その言葉は、彼の考えであるし、私がはいそうですかと従っているわけでもないのですが、私にとっては良い助言です。人の話を鵜呑みにすることは決して間違えだとは思いませんが、そうやって生きて行く先に、きっと必ず自分は何者か?と、自問自答しなくてはならなくなる日が訪れるのは目に見えています。今まで生きてきて、それをやり過ごしたツケを払ってきたこともありますから、この言葉を向けられるとはっとするのです。
 一つには勉強不足。これに対して、コンプレックスはありませんが、物事の動向を読もうとする時に、これ以上は先に進めないという思考停止のような状態に悩むのがそれです。浅墓な知識で物事を断定したり決定づけたりするのは、そのものの原理性や生態の誤った方向性となりますし、ましてや、その不確かな事を書いてネットで晒すことも避けたいことです。だからといって、そのために学んで知識を身につければ完璧になるとも悩まないとも思っていません。学びには終りはないので、どこまで行っても延長上でしかないと思っています。
 また、学びによって知識を広げることは物事を解釈する助けにはなると思いますが、問題は、自分自身の心にあるのではないかと思うのです。あまり上手く言えないのですが、自分と違うものを理解する心が欲しいというか、何かが物足りない寂しさからそう思うのです。疑問が湧いたら解決に奔走するというよりは、その問題を一緒に考えたいというような自分でありたい、それが在り方ではなく、そう願っているのだとうことがはっきりしてきたのです。
 いつだったか、オバマ戦争の終りについて「あの戦争の「終わる」はない」と、先の友人から聞いたとき、内心ひどく憤慨した私ですが、本書を読んだ今、あの戦争が始まったことに既に答えがあることが分かりました。確かに、このままでは終わる道理がないと私も思います。本書の帯に「ムスリムにとって、命にかえても守る「一線」とは何か?」とありますが、これが不理解なために、なんと無駄な戦争を長年続けてきたのかと愚かさを感じました。そして、彼らが守りたいことを侵害さえしなければ平和的に解決出来るのだとも思いました。これほど拗れたかに思われる戦争ですが、終らすことはできる筈です。そうそう、例の「相撲を嫌う」についても同意できます。
 第三章の「西欧はなぜイスラムを嫌うのか」を読むと、逆にイスラムは何を愛しているのか、と読み取れてきます。ここで、イスラムに対しての偏見が多少でもあればしめた物です。読み進めるごとに、自分の偏見という鱗が剥がれてゆくような爽快感が走ります。そして、あっという間に読み終えてしまい、なんだかもっと知りたいという欲望の解消先を探す始末です。
 そして、読みながら何度もこみ上げたのは、これまで私がここに書いてきた中東問題をもう一度振り返ってみたいという思いです。心が何かに突き動かされているような、それに従いたいと思えてならないのです。

 「イスラムの怒り」は極東ブログで、2009年6月21日のエントリーで既に紹介されています☞こちら が、私は何故か、この本はスルーしていました。風邪で欠席していたのかも。

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2011-02-04

立ち上がった!世界銀行のゼーリック総裁-「人々が栄養のある食物に確実にアクセスできるように」

 長期化しているエジプトの動乱で、昨日までに推定300名が死亡、6000人が負傷しているという発表を知り、あれだけの人が集まれば乱闘が起きたりするのも当然だとは思いますが、独裁政権に対してこれが民主的な対抗措置であるなら気が済むまでとことんやったら良いという気もしています。ただ、日に日に犠牲者が増えることと、国全体が麻痺状態となっていることが気になります。
 一昨日もパンの争奪で死者が出たと報じていて、エジプトで主食のパンが入手困難になるということは、ただ事ではないわけです。日本でも15年くらい前でしたか、米不足で一時タイ米に頼ったことがありましたが、現在起きている食糧難はアフリカに限らず、世界的なレベルでもあります。これは、先月、チュニジアで起きた暴動の背景の話でも書いたとおり、いくつかの要素が重なった結果です(参照)。とはいえ、何とかならないものかと調べているうちに、世界の食料需要に対して生産が追いついていないということが問題だとわかりました。じゃー、どんどん作ればいいじゃんと思うのですが、どうもそれが上手く回らないようです。原因となっている事は何か、これを少し掘り下げて調べてみました。
 昨日、ワシントンD.C.に本部をおく世界銀行のゼーリック総裁から御触れが出ていました(「食品価格高への国際的な対応が必要=世銀総裁」ロイター2011年 02月 3日)。こんな感じの方☟

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 同総裁は、20カ国・地域(G20)の首脳に対し、貧困国を脅かし、主にアジアの発展途上国でインフレを押し上げている食料価格の高騰と変動幅の拡大への対応を最優先課題にするよう要請した。

 2011年のG20首脳会合議長国であるフランスのサルコジ大統領は、商品価格の変動と国際金融システムの改革を優先議題に挙げているが、ゼーリック総裁は、人々が栄養のある食物に確実にアクセスできるようにするため、現実的な対策を打ち出すことが重要と強調した。

 総裁はまた、食料価格の上昇による影響を受けている貧困国への緊急支援措置を再開したことを明らかにした。ただ、最近の価格高によるアフリカ諸国への影響はそれほど深刻ではないとの見解を示した。

 世界銀行などに一般市民は用事が無いので存在を忘れがちですが、世界銀行とは、各国の政府を相手に直接的な融資をする銀行です。ここのトップが動き出すとなれば少し安心したのですが、引用の「アフリカ諸国への影響はそれほど深刻ではないとの見解」の言及は、個人的に気に入りませんが、理由はわかります。アフリカは産油国ですから外貨取得に困ることのない国です。貧困を生んでいるのは、政府が悪いという理由に尽きるのは理解できます。では、世界ではどれだけ深刻なのか、国連食糧農業機関(FAO)の情報を借ります(ロイター2011年 02月 3日)。

 食料価格の高騰により、1月の国連食糧農業機関(FAO)食料価格指数は2カ月連続で過去最高を更新し、2007―08年の食糧危機時の水準を一段と上回る見通しとなっている。
 穀物、油糧種子、乳製品、食肉、砂糖で構成される食料品バスケットの月間価格変動を測るFAOの食料価格指数は昨年12月、食糧危機時の08年6月につけた過去最高を更新した。

 FAOはこれまでに、食品価格が一段と上昇する可能性があると警告し、世界の気象パターンに懸念を表明している。
 昨年の黒海での深刻な干ばつや、オーストラリアの豪雨、アルゼンチンの干ばつに加え、北アフリカと中東の政局不安を受けた需要増加期待で、穀物価格は数年ぶりの高水準に上昇している。
 また、米国の穀倉地帯が吹雪に見舞われていることを受け、小麦先物は2日も引き続き圧迫された。

 あの2008年を上回るというのに、深刻じゃないわけねぇーだろとは誰も言いませんが、食料価格指数は物価の高騰の裏づけとして、今から手を打っても早過ぎることもないはずです。何故、アフリカに言及して「影響ない」と言えるのか?そっちに深刻な問題がありそうな気がします。
 また、価格高騰の原因は投機マネーによる値上がりや品不足が起因しますが、今起きている事を具体的に言えば、昨年の世界的な天候不順で市場が不安定になったため原油の買い占めなどの投機マネーによる値上がりと、中国などの新興国の景気上昇によって需要が拡大し、品不足になった事があります。では、中国の意見はどうなの?と、当然関心が向きますが、あちらからはあまり聞こえてきません。中国というのはなんというか、国内向けと国外向けで言うことが違いますし、国外で言うことも違うのです。中国市民が政府に不満があるときは、政府は沈静化のために日本を悪者に仕立てます。それも演じれたら大したものですが、日本政府は真に受けてしまうので困ったものです。嗚呼、脱線。
 温家宝首相が、旧正月の挨拶で国内向けに演説したのを見つけました(ロイター2011年 02月 2日

 中国国営メディアは2日、温家宝首相が、旧正月の演説でインフレ抑制と不動産投機取り締まりへの決意を示したと伝えた。
 温首相は、消費者物価全般の安定に努めると表明。今年は困難な問題に対処する必要があるとの認識を示した。
 人民日報によると、首相は「われわれの行く手には依然として数多くの困難、問題が待ち構えている」と発言。
 「人々が最も懸念する問題を解決する必要がある。過度な物価上昇を断固として防ぎ、確固たる姿勢で不動産市場をうまく管理していく必要がある」と述べた。

 菅さんよりはすっきりしていますが、簡潔明瞭過ぎ。これだけで私が何を読めるか?ですが、これってもしかして、中国は自国の価格安定のために外国からどんどん輸入するということでしょうか。それは、つまり、国際相場が上がるということになります。あれっ、と思ったのですが、現にそうなってきています。ふむ。
 また、不動産取得についてですが、中国の地主さんは政府ですから、この問題はどうにでもなるんじゃないのかと単純に思います。土地に投資したくても、中国国民は政府から土地を有償で借りていると言ったらいいのかな?だから、何の意味かよくわかりません。悪しからず。
 そして、価格高騰の原因の極めつけが、オイルマネーというところでしょうか。この辺もロイターで記事がまとまっています(ロイター2011年 02月 2日)。

食料インフレによる社会不安を警戒する中東の産油国が、食料の買い付けを急いでいる。在庫の積み増しで価格高騰を防ぐことが狙いだが、大量のオイルマネーが食料市場に流入すれば、広範な物価上昇をもたらす恐れもある。
食料インフレは各地で暴動や反政府デモの一因となっており、チュニジアやエジプトの混乱が自国に飛び火することを警戒する中東湾岸諸国は、海外からの食料輸入加速に加え、海外農地への投資にも乗り出している。

<サウジは小麦備蓄を拡大> 
サウジアラビアは先週、世界的な食料インフレを懸念していると表明。すでに3年以内に小麦備蓄を倍増する意向を示している。
中東最大の経済大国であるサウジには、大量の外国人労働者が流入、約1900万人の自国民は高失業率に悩まされている。

<アルジェリアも大量の買い付け>
アルジェリアは1月、100万トン近い小麦を買い付けたことを確認。穀物輸入を緊急に増やすよう指示を出したことも明らかにした。
リビア国営石油のガーネム代表は、商品価格全般が値上がりしており、原油高は正当化できるとの考えを繰り返し示している。
同代表はロイターに「食品価格の高騰分を補うには、1バレル100ドル前後の原油価格が必要だ。食品価格の上昇は、所得が大きく減ることを意味する」と述べた。

<途上国の農地を買収>
湾岸諸国は、食料安全保障のため、途上国の農地買収にも乗り出している。
湾岸諸国の海外農地買収も、食料インフレの原因となり得る。
IHSのランドルフ氏は「もしサウジやカタールが、マダカスカルの農地を買収すれば、現地の物価に壊滅的な影響を与えるだろう」と指摘した。

 ざっと拾ったという感じですが、この動きはヤバイです。中国は世界の約20%の人口でアフリカは13.7%ですから、世界一の人口を誇る中国と産油国が、資金力をもって買いあさりを始めると、貧困な国への供給が減るだけではなく物価も上昇します。そうなると、今度は、国際的な争奪戦へと展開します。パンどころの話じゃなくなります。
 世界銀行の総裁が仰るとおり、アフリカはオイルマネーがあるので直ぐに困るようなことはないにしろ、それでも世界を揺するような大きな暴動が起きては飛び火しています。アフリカも範疇に入れた対応をお願いしたいです。
 先日、小麦粉が少なくなってきたという情報をTwitterで知り、慌てていつもよりも多目に買ったばかりの私です。なので、外国を取り上げて、他所事みたいな話をするはお恥ずかしい限りです。

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2011-02-03

イラン核化の阻止は空爆によるしかないのか、それは本当に急がれているのか

 ムバラク政権崩壊後、エジプトや中東和平にどのような影響をもたらすのか大変気がかりでしたが、酒井啓子氏の「エジプト:軍とイスラム勢力にまつわる「誤解」」(Newsweek2011年02月02日)の見解から、転覆後のエジプトの政権作りは、これまでと変わらないのだということがわかりました。

 政権打倒を求める民衆パワーは、東欧の民主化革命や一年半前に民主化を求めたイランの緑の運動にように、これまでのアラブ世界にはまれな新しい市民運動である。だが、転覆後の政権作りには、これまでと変わらず、国内政治エリートの特権維持と、地政学上の利害関係を第一に考える欧米諸国の外交政策が、決定要因として機能している。この動乱と熱狂、興奮は、新しいワインを古い袋に入れて収拾されるのだろうか。

 さらっとしたもので、エジプトの暴動の規模が大きいからといって、エジプトがひっくり返るというものではないようです。支配層が「頭」だけ切って生き延びるのであれば、外交的にもあまり変化はないと見てよいのではないかと思ったのですが、私の関心は、今後の中東和平問題です。昨日もこのことで少し触れましたが(参照)、イランの核化を恐れるエジプトのムバラク氏が核化の野望をちらつかせていたということや、ウィキリークス公電によって暴露されたサウジアラビアのアブドラ国王の談話が気になっていました(「米国はエジプトをどう見ていたか、なぜ失政したのか」極東ブログ)。イランの核開発の情報も合わせて、クリップしてまとめることにします。

 ウィキリークス公電ではサウジアラビアのアブドラ国王談話も暴露されたが、イランが核兵器開発に成功すれば、サウジを含めた中東各国が同様の行動を取るだろうと述べ、さらにはイラン空爆を米国に求めていた(参照)。
 イラン空爆はブッシュ政権が巧妙に回避したものだったが、背景ではそれを容認し推進するアブドラ国王の思いがあった。

 このイラン空爆についてもここではさらっと書いてありますが、実は、かなり現実的になりそうだという追加情報もあります。
 ThinkProgressでJohn Bolton氏(ブッシュ政権時の大使)がフォックスニューズというラジオ番組で、イランの空爆の必要性を話しています「Bolton: Mubarak’s Downfall Would Mean We Need To Bomb Iran Sooner」(参照)。

As you pointed out, El Baradei, you know, ran cover for the Iranians for all those years that he was with the IAEA. And, I just don’t think the Israelis have much longer to wait…they’re going to have to act in fairly short order. 
ご指摘のように、エルバラダイ氏は、IAEA(国際原子力機関)事務局長時に、数年間イラン問題に取り組んできています。そして、イスラエルは、これ以上は待ちきれない寸前のところまでに来ています。

And I think the fall of a Egyptian government committed to the peace agreement will almost certainly speed that timetable up.
そして、和平協定に心がけてきたエジプトの政府の倒壊は、ほぼ確実にその時間を加速させると思います。 

 エルバラダイ氏のIAEA退任後、イランの勢いを抑制する力も減退した今、イスラエルの攻撃が始まる前にアメリカがイランを空爆する必然も出てくるということです。このことは、先のリンク先である極東ブログでも早々に指摘しているとおりで、アメリカによるイランの核施設空爆の可能性をイスラエルへの配慮という点で触れています。
 また、エジプト政権崩壊に加えて、イラン空爆が時間の問題となる理由に、1月下旬、トルコ・イスタンブールで行われたイラン核開発に関するイランと6カ国の協議が頓挫したことも要因ではないかと思います(産経 1月23日)。

 6カ国側の代表である欧州連合(EU)のアシュトン外交安全保障上級代表は協議終了後、交渉に進展がみられなかったことに「失望している」と述べた。
イランと6カ国は2009年10月、イランの低濃縮ウラン1・2トンを国外搬出し、兵器転用しにくい形に燃料加工した上でイランに戻す案で合意したものの、後にイランがほごにしたことで頓挫。イランの低濃縮ウランは現在、再濃縮すれば核爆弾2~3個分に相当する3トン超に達しているとみられている。

 ところが、イスラエルとアメリカの共同開発による制御システムを誤作動させるためのコンピューターウイルスの攻撃によって核開発が二年以上遅れるという情報もあるようです。

 イラン核開発の中核である中部ナタンツの濃縮施設をめぐっては、昨年秋までに制御システムを誤作動させるコンピューターウイルスの攻撃を受け、核開発に2年以上の遅れが出ているとされる。今月16日付の米紙ニューヨーク・タイムズによると、このウイルスは米国とイスラエルが共同開発したものだという。

 いずれにせよ、ブッシュ政権時では空爆を免れたイランは、エジプトのムバラク政権が崩壊すればアメリカとイスラエルが黙ってはいないということです。
 では、イランの核開発はどの程度進んでいるのかですが、これが2011年と2015年説があるようです。
 2009年にイスラエルのバラク国防相は、2011年までにイランが核兵器を獲得すると発言し、イスラエルの対外諜報機関モサドの長官を8年間務めたメイル・ダガン氏が退任直後に、イランの核兵器獲得は2015年以降になると発言していることに関し、Newsweek2月2日号はこの真相を次のように報じています。

 経済制裁や「妨害工作」によってイランの開発を遅らせたのは確かだ。しかし、せっかくイラン政府が圧力を感じ始めているなかで、なぜイスラエルの情報機関の長官が国際社会を安心させるような発言をしたのか。
 ダガンは単に、自分の任期中にイランの核開発は進展しなかったと示そうとしただけなのかもしれない。しかしもっと可能性がありそうなのは、ネタニヤフ首相が早まってイラン核施設の攻撃を決めかねないとダガンが懸念している、という線だ。

 ダガンの見解を知る人々によると、彼は対イラン攻撃は間違いであり、問題を解決できないままイスラエルを激しい戦争に追い込みかねないとみているという。「決断を追られるまでは、時間も選択肢もたっぷりあるとダガンは考えている」と、ある人物は語る。
「2015年説」を公の場で語ることで、ネタニヤフが内閣やアメリカ、国内世論に対しイラン攻撃の正当性を主張しにくくしたのかもしれない。

 ネタニヤフの姿勢に異を唱えているのはダガンだけではない。2月に退任するアシュケナジ軍参謀総長も、イラン攻撃に前向きでない意向を示した。ハーレツ紙によると、アシュケナジはペレス大統領とイスラエル軍大将2人に、「自分の見解を聞くと首相に約束してもらうように」と要請したという。これがバラクの怒りを買い、アシュケナジの退任につながったとの指摘もある。

 2011年という情報が正しければ、空爆も急がれることになりますが、2015年説に倣えば交渉の余地もあるということになります。
 先の酒井氏の見解のとおり、ムバラクが没落してもエジプトの政権に大きな変化が起きないのであれば、中東の橋渡し的立場をこのまま維持できるのかもしれないと思いつつ、イランの核問題では、アメリカの今後の出方や、イスラエル、サウジアラビア、エジプトとの関係も注視したいです。

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2011-02-02

エジプト-中東和平にまつわる問題とエルバラダイ氏の関わり

 エジプトのデモが始まってから一週間が過ぎ、死傷者の数も多く、自体の収拾はどうなるのかと見守るしかないのですが、米オバマ大統領が30日、「エジプト国民の願望に応じる新政府への秩序ある移行」を支持すると発表し、概況で気になることを書きとめておくことにします。
 このオバマ氏の声明は、事実上ムバラク政権に引導を渡した事には違いないのですが、ワシントン・ポストによると、米政府は9月に予定されるエジプト大統領選を管理する暫定内閣を発足させたいという思惑を込めて、「移行」という言葉を選んだと伝えています。また、イギリスの新聞デイリー・テレグラフが、エジプトのムバラク大統領が、同国内での反政府デモの拡大を理由に、私用護衛とともに同国の首都カイロを脱出したことを明らかにしました(参照。これでムバラク大統領による独裁は終わり、エジプトにどのような政権が誕生するかが気になってきます。
 親米政策をとってきたエジプトは、イスラエルやヨルダンとの国交を築き、中東和平の仲介役としてアメリカに協力してきています。イスラム過激派への対応にも力を注ぎ、見返りに、アメリカから年間13億ドルの軍事援助を30年以上も受け取ってきていると言われています。ムバラク政権崩壊後、これまでの支援は当然見直すことになると思います。おそらく、ここまではアメリカのシナリオのとおりに進んで来たかに思いますが、この先がまったく見えません。
 アメリカにとって一番望ましいのは、エジプト国民が反対しているムバラク政権関係者が退陣し、支持されている野党と軍が協力体制を速やかに作る事だと思います。が、最大野党で非合法のイスラム原理主義組織、ムスリム同胞団が気になります。数の上では最大なため、民主的な選挙を行えばエジプトの政権を獲得されてしまうという懸念が拭えません。これは、もちろんアメリカが望まない方向へ行くことになります。
 元国際原子力機関(IAEA)事務局長の民主化運動指導者エルバラダイ氏がウイーンから急遽帰国し、ムバラク退陣を訴えてデモに参加したことでさらに求心力が加速した今、ムスリム同胞団がエルバラダイ氏を支持するという声明を出しというのです(毎日2011年2月1日 21時1分

 今年9月に予定される大統領選挙を巡り、現行憲法の規定では、立候補要件が厳しいためスレイマン氏だけでなく、民主化勢力指導者として浮上しているエルバラダイ前国際原子力機関(IAEA)事務局長の出馬も困難だ。エルバラダイ氏に対しては、高い組織力を持つ穏健派イスラム原理主義組織「ムスリム同胞団」が支持を明示しているが、エルバラダイ氏自身の姿勢にぶれも見られ、他の民主化勢力との間で支持は一本化されていない。

 ここで願わくは野党の一本化ですが、これは不可能に近いのではないかと思います。既存の野党は、ムスリム同胞団が政権を握ると、エジプトがイスラム化することになるため強く反対的です。これは現政権やアメリカと同じ意見だと言えますが、最大野党であるムスリム同胞団がエルバラダイ氏を支持するとなると、野党が割れてしまうことになり、政権が野党に移るとも言えなくなります。
 これではムバラク後の政権が安定するどころか、まったく先が見えない状態です。これが、中東情勢にどのように影響するのか。また、エジプトとイスラエルの関係でも、パレスチナ自治区ガザを支配しているハマスは、エジプトのムスリム同胞団を母体に設立された組織で、対ハマスでイスラエルとエジプトの利害の一致点です。今後この関係が崩れ、封鎖が解除されることにでもなれば、これまで籠城していたハマスに勢いがつく可能性もでてきます。ファタハ・アッバス議長の立場が危ぶまれ、中東和平問題へと移行する可能性も見逃せません。
 また、エルバラダイ氏は、民主化を訴え人々に呼びかけはしていますが、肝心の政権像についての具体的な話は語っている様子はないようです。ムスリム同胞団がいち早く支持を表明したと言っても、この段階では支持者の増大を狙ったものではないかと思います。
 エルバラダイ氏の決断が、今後の中東全体の和平の鍵を握っている言えると思います。正しい判断を仰ぎたいです。

 暴動が起こる前、アメリカがエジプトをどのように見ていたかについては、極東ブログ「米国はエジプトをどう見ていたか、なぜ失政したのか」(参照)が詳しく、冒頭のオバマ大統領の声明とのつながりと機微が感じ取れると思います。

※ 線引き部分について:6時のNHKニュースによると(2011/02/02)、ムバラク氏はエジプトで退陣の要請を受けているとの事で、国外脱出は事実ではないようです。

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2011-02-01

ミャンマーが欲するものは「民主政権」に非ず-報道への違和感

 ミャンマーでは昨日予定どおり新国会が召集され、民政移管に向けた第一歩を踏み出したようです。と、書いた時点ですでにアウトだと言われそうですね。この議会が予定とおり行われただけでも評価に値すると言えるのだろうか、という疑問も同時に起こるのかもしれません。が、私はミャンマー情勢を報じた内容に少し違和感を持ちました。
 各紙が報じているのを見ると、注目されているのは民政移管を見せかけた軍事政権の維持に他ならないのではないかという見方と、そうであるなら国際社会の評価として、制裁の解除に値するか、その査定に焦点が当てられています。そして、この判断を左右するとも思われている軍のタンシュエ氏が横滑りして再選されるかどうかです。
 これまで独裁的権限を振るってきたタンシュエ氏が民政移管後の国家元首である大統領に横滑りすれば、民政移管が見せかけに過ぎないという証となり、制裁を加えているアメリカや国際社会との関係回復はどうなるのかという点です。
 日が変わって2月1日、毎日では、タンシュエ氏の後継者と目されているシュエマン前軍総参謀長(63)が議長に選出されたと報じているので(参照)、タンシュエ氏の横滑りはほぼ確定ではないかと思われます。悪い予感が当たったというか。では、これでミャンマーへの制裁措置解除の方向性も閉ざされてしまうのだろうかということに問題が移ります。
 結局、その犠牲になるのがミャンマー市民で、極貧生活を強いられているのが実情ですから、軍政権に民衆の声を届けてゆく以外に方法はないとなります。その望みと言ってもよいのか疑念もありますが、昨年11月の総選挙で、民主化勢力としては、民主化指導者アウン・サン・スー・チーさんNLDから分派した国民民主勢力(NDF)が上下両院で計12議席を得ています。選挙自体が民主的ではないと、アウン・サン・スー・チーさんは、この選挙をボイコットしています。
 この制裁措置について、今月16日東南アジア諸国連合(ASEAN)非公式外相会議での評価はスー・チーさんの解放などからも、経済制裁の解除・緩和を欧米諸国に求めていくことで一致したそうですが、立場を変えると、野党勢力にとっては制裁は軍政との交渉材料でもあるので、これを失うことは政治的には不利になります。
 スー・チーさんはこの件に関してかなり慎重ではあると報じていますが、スイスのダボス会議にビデオメッセージを送って訴えているのをみると、そうでもないような感触です(毎日新聞 2011年1月29日)。

【ダボス(スイス東部)伊藤智永】ミャンマーの民主化運動指導者、アウンサンスーチーさんは28日、スイスで開かれている世界経済フォーラム(ダボス会議)に「私たちは地球社会の一員となることを切望している」とのビデオメッセージを寄せた。

 スーチーさんは「ミャンマーは東南アジア最貧国の一つなのに、50年以上に及ぶ軍事政権と政争で、人々が教育や健康への多くの機会を失ってきた。国民の和解と政治の安定がなければ、社会と経済の発展は夢物語にとどまる」と強調。

 会場の投資家や企業経営者らに「私たちにはインフラが必要だが、皆さんは投資する際、法律の順守、環境や社会、労働者の権利、雇用創出、科学技術の普及促進といった点に特に注意を払ってほしい」と訴えた。

 スー・チーさんのこのような個人的な声が国際会議に送られ、その場で公表されるというのは、個人でできることとして知名度の高さを思いますが、考えてみると、ミャンマーの軍政権内で声を上げずとも、このような方法で国際社会に呼びかけのできる人物がミャンマーに存在していることに大きな意味があるのだと思います。
 ミャンマーにとって、早急に暮らしを安定させることが急がれている中、制裁解除を許してしまうと軍への交渉材料がなくなるというのは本当にそうなのだろうか。議会を民主的に運営することの条件に、国際社会からの支援を並べて書き、なおかつそれを餌に軍政権だけ批判的に報じることは、何か情報が間違ったものとしてすり返られてしまうような錯覚を起こしただけじゃないのかと感じます。
 イギリス植民地から独立後、ミャンマーを取り巻く物騒な周辺国に対して、守る立場である軍は、民族国家を目指しながら今のミャンマーを建国させてきたのも事実です(参照)。この国にないのは、経済発展だけではないのかという印象です。先に挙げたスー・チーさんの訴えからも、ミャンマーの人々が求めてるのは、貧困から脱することではないのかと思います。メディアの捕らえ方なのか、私の読み方の間違えか、「民主化」という言葉に少々誤魔化されて、ミャンマーが必要とするものを見失いがちですがミャンマーの人々が欲しているのは仕事ではないのかと思います。
 軍政権に注文をつけるとすれば、経済にキーンな人物を政府内に登用することです。それと、間違っても日本の二の舞はしないことです。

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