2011-01-16

銃を持つことが憲法上の権利だということが当たり前に見えてくる

 8日、アリゾナで起きた民主党のガブリエル・ギフォーズ下院議員ら20人が死傷した銃乱射事件を期に、複数の州で拳銃の販売数が急増していることを知りました(読売)。このような現象を理解できないでもないのですが、日本は銃社会ではないし、アレはヤクザの持つ物で、一般人にはまるで関係のない世界のことです。が、他所の国の出来事として、日本には関係ないと言えなくなる日が来るのかもしれない、と少し思うことがあります。日本が銃社会になる日がいつか来るかというと、これはかなり飛躍的な考え方ですが、そうではなく、外国人と関係を持つような国際的な場面が多くなる中で、どんなことが起こるか計り知れないと思うのです。
 日本は、非核三原則の「核兵器をもたず、つくらず、もちこませず」という三つの原則から守られ、平和ボケと言われてしまうほど世界で起こっている戦争に関わることなく平穏です。これが仇となったのか、武器輸出三原則の「(1)三原則地域への輸出を認めない、(2)それ以外の地域への輸出も慎む、(3)武器製造関連設備の輸出も武器に準じて扱う」の見直しをすることに抵抗を示す人が多いのではないかと思うようになったのです。私は、戦争に加担しない事を大原則に非核三原則を守り、攻撃的な日本ではない事を表明することが何よりも安全なのだという考え方を強く持っていました。「いました」というのは、昨年の極東ブログの「民主党政権下で日本の武器輸出三原則が終わるだろう」(参照)で、認識が変わったのです。この記事から受けた衝撃で気づいたことは、私の平和に対する保守的な考え方でした。戦争の爪跡というのかがまだ漂う日常に接しながら育ったため、平和を願うことは戦争をしないことだという考えを強く持っていたことに気づいたのです。この平和主義をびりびりに破き、酷い錯覚の中で生きてきた保守的な考えの持ち主だったことを後悔こそしたきっかけとなったのが該当の記事でした。

 昭和時代の視点からすれば、こうした結語は普通に響くが、NATOの現状からすれば、日本はアフガニスタン戦争で血を流しもせず、イランとの関係も傍観しながら、NATOのMDの傘を妨害する国として、平和とは逆のイメージで見えてくる。

 この部分で、私自身の思い違いを修正することになったのですが、NATOとは平和維持活動のシンボル的な組織だという概念的な見方が自分にあり、ミサイル防衛システム(MD)を推進しようとしているなどとは露知らず、これに抵抗することは世界から浮いて置き去りになってしまうのだと痛感したのです。戦争に対しては距離を置きながらも、無視できない状況が知らず知らずのうちに目の前に来ていたのです。複雑な気持ちではありますが、「自己防衛」ということを考えざるを得なくなりました。
 先のアメリカの拳銃の購買が増える現象も、日本では考えにくい現象ですが、分る気がします。ましてや、アメリカは、銃を持つことが憲法上の権利とされている国なので、米メディアやインターネット上で銃規制の是非を問う声が高まっているとしても、規制を強化できるのかどうかは不透明だと思います。
 ここに、アメリカ在住の高校1年生のある疑問があります(参照)。

「なぜ日本警察は銃を使わないのか。」

 初めまして。ニューヨーク在住の高1です。
今は休暇で実家の神戸にいます。
日本に帰ってきてニュースを見ていたのですが
拳銃男がパチンコ店を襲って車に立てこもった事件に
関しても、ちょうど今日起きた秋葉原のナイフを
持った男が車で10人ほど轢いた後、何人かを切りつけて
死亡させたという事件に関しても、警察はすぐに現場に
来ているのになぜ銃を使わないのでしょうか。

たとえば車に銃と一緒に立てこもっている時点で
周りの住民や警察官を危険にさらしているという点
やすでに強盗をした後だという点で、攻撃しても
いいのではないのでしょうか。(中略)

考えがアメリカナイズドされているとよく言われますが、
こういう環境化において銃を抜くことに関してはアメリカナイズド
もなにも関係なく、正しいやり方のような気がします。

またよく警察が銃を使った後に「発砲は正当だった」とか
言っているのを聞きますが、なぜ凶悪犯に向けて発砲するのが
そこまで大事(おおごと)なのでしょうか。

 これは、「OKWave」というQ&A形式の投稿サイトで、2008年に日本で起きた通り魔殺人と秋葉原で起きた無差別殺人に寄せた質問です。アメリカナイズされていなくとも、多くの若い日本人が彼と同じような疑問を持ったのではないかと思います。
 攻撃されたら身の安全を守るために狙撃することも日本の法律では合法ですが、安易な銃器の使用は厳しく規制され、最終手段としての使用が認められているのです。
 この高校生の疑問の払拭は、おそらく自分の命が危ないと、いつ判断して銃を使用するか、という微妙な間合いがあることを解決することにあると思います。
 これは、正直に言うと私も明確に答えられる問題ではありませんでした。警察官の立場では勿論ないので、そういう規制的なことではなく、人間が持つべきモラルのような部分に向き合うことだと思います。このような問題に向き合わずにずっとこの年まで平和で生きてこられたのですが、昨年に引き続き、「自己防衛」でなにが守られるべきか、そのことは大きなテーマになると思っています。
 回答者の一人は、次のように警察が実行犯を射撃しない理由を挙げています。

 1)例え犯罪者と言っても人命には変わりはないこと(無論、日本において被害者の人命が犯罪者より軽視されていると言うのは誤解です)。
(2)事件解決の為犯罪者の生命を奪うのは、厳に限定的で最終的な判断でなければならず、例え法の執行と言えども、その為の法的根拠が必要となる。早い話が射殺してしまった後で、何かその手続きに問題が生じたり、事実誤認があったでは取り返しが付かない。
(3)犯罪者を死なせてしまっては、その事件背景を探ることが不可能となってしまう。例えば共犯者の存在とか、その犯罪行為に第三者の意思が介在していなかったか(早い話が黒幕の存在)とか、更には犯罪者がその犯罪行為に至った社会環境等の問題点。実はこの社会環境の問題点を探ることが、犯罪を防止し、或いは未然に防ぐ等、犯罪抑止の観点からも重要なのである。
(4)そして最後に私は、跳弾や流れ弾等による第三者への被害の可能性の高さも上げられるのでは?と思っております。

 質問者の「何故銃を使わないか」に的確な回答をされていると思いますし、私も同感ですが、これは警察の銃の扱いの観点ですから別問題です。質問者の疑問は警察の観点とは別に、「自己防衛」の意味合いが強く、銃使用は凶悪犯に対しては正当だという市民の主張があるようです。この主張は、アリゾナの事件を発端にアメリカ各地で起きている銃を購買する市民行動の裏づけでもあると言えます。また、これが、アメリカの銃社会での正当性なのだと思います。
 仮の話で、しかも極論ですが、上記の4点が守られれば、日本の国民も「自己防衛」の権利として銃の所持が認められるのではないかと言えると思います。武器輸出三原則の見直しが囁かれるようになった日本でもあり、このような解釈の元に、いつか銃刀法が見直されるような日が来るのかと危機感を持ちます。

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