イエメンの暴動と歴史的背景-チュニジアの政変で影響を受けている国々
Twitterで流れたイギリスBBCニュース(参照)やNHKニュースで、フランスのサルコジ大統領が、チュニジアに起こっている暴動に対して救済に向けた動きを表明したのは昨日です。今まで何をしていたのかと腹立たしい思いがこみ上げました。チュニジアがかつてのフランスの植民地であったことや、ベンアリ前大統領が脱出前に相談した時点でだんまりを決め込んだようでしたが、今となっては各国に飛び火してしまい、多くの犠牲を出しています。経済救済に向けてG20への呼びかけがあったそうですが、チュニジアの暴動の発端は失業や物価の高騰、貧困などかもしれませんが、そういった問題に有効な経済政策を打てない政府の腐敗や汚職への不満や怒りとなっています。国内情勢については「世界的な物価高の連鎖とフランス発動のG20のこれから-チュニジアやアルジェリアの暴動が示していること」(参照)で触れた通りです。
長い間の独裁政権が生んだ歪の修正のための訴えであり、怒りと化した感情を静める手立ては、サルコジさんとは言えどもないのかもしれません。
この情報から周辺国への飛び火の様子が気になり、少しニュースを当たってみると、かなり多くの国で焼身自殺や暴動、デモなどが起こっているようです。今後の情勢の変化も気になるので、ざっと大まかに拾っておくことにします。
この中で、アルバニア(イタリアのブーツのかかとの真横の国)は、現べリシャ政権の汚職疑惑で副首相が辞任し、野党や市民が首相に退陣と前倒しの選挙を求めているというのが現況で、チュニジアの暴動の発端とは違いますが、べりシャ首相が「我が国はチュニジアにはならない。暴力は厳しく取り締まる」と語っているところから、強権政治の現れを感じます。実際、警官がデモ隊に実弾を発砲し、死者や負傷者を出したことは市民感情を煽り、暴徒を増大させることにつながる可能性があると思います。
また、気がかりなのはイエメンです。暴動が起きた背景がチュニジアによく似ていることと、21年にわたる独裁政権であったこと。また、調べてわかったことは、アラブの最貧国であることでした。長きに渡って独裁的な強権支配の下に貧困を強いられてきた人々の怒りは、おそらくチュニジアに匹敵するのではないかと思います。
イエメンは、19世紀初頭はエジプトの支配下でしたが、1839年イギリスに西南部を占領され、イギリスの植民地でした。1849年、オスマン帝国に北イエメンが再占領された後、1919年、第一次世界大戦で敗北したオスマン帝国から独立してイエメン王国が誕生しました。その後、1962年に起きた軍事クーデターにより、イエメン王国が崩壊し、イエメン・アラブ共和国となりますが、英領だった南イエメンが1967年に南イエメン人民共和国として独立しています。その後、1990年に南北が合併しましたが、1994年、旧南部が再び独立を求め、内戦が勃発しましたが、国際的な支持を得られず直ぐに鎮圧されました。そして、1999年、初めて国民の直接投票による大統領が誕生しました。2000年には、旧南イエメンの首都アデンのアデン港で、イスラム原理主義勢力アルカイダのメンバー2名の自爆テロによって米艦コールが襲撃されました。
このような歴史的背景であっても、国民は98%がアラブ人で、殆どがイスラム教であることから生活習慣的な違いはあまりないと言われています。ところが、イスラムの教えよりも部族内のルールの方が優先されることがしばしばあるようで、主張が尊重されているようです。
さて、国の背景を心に置いて、毎日が伝えているイエメンの暴動の記事を読んでみることにします(毎日)。
アラビア半島南西部のイエメンで反政府デモが発生し、22日には首都サヌアや南部主要都市で学生や野党勢力ら数千人が集まってサレハ大統領の辞任を求めた。21年にわたって同大統領による独裁体制が続くイエメンだが、大統領を名指しした大規模な抗議活動は初めてとみられる。チュニジアでベンアリ前大統領の亡命につながった民衆蜂起が飛び火した形だ。
現地からの報道によると、サヌアでは約2500人のデモ参加者が「アリ(サレハ大統領の名前)よ、友達のベンアリの所に行け」と叫んだ。
イエメンでは、今回の騒乱前から、北部でのイスラム教シーア派の一派ザイド派の反乱や国際テロ組織アルカイダ系団体「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」の活動、南部での分離独立運動という「三重苦」に直面してきた。高失業率や大統領周辺の腐敗、地方の開発の遅れなど、国民はチュニジアと同様の環境の中で苦しんでいる。
イエメンはテロ対策で米国の支援も受ける。しかし、掃討作戦で民間人が死亡しており、反米、反政府感情は強い。AQAPは米欧を標的にした爆破テロ未遂事件も起こしており、サレハ体制の動揺は、国際テロの活発化を招く懸念もあり、民主化は「もろ刃の剣」と見る専門家もいる。
アルカイダのテロ対策の拠点国家であることや、民主化を求めた政変のための混乱に関して、アメリカはどう関わりるんだろう。そういう疑問が湧いてきます。そもそも、政権に問題があるから暴動が起こるのであり、アルカイダのような活動も元は正義のためです。この国の歴史から、長年イギリスの植民地であり、その南部が独自性を主張したにも関わらず、弾圧を受けてきたという背景から、母国を守ろうとする原理主義者らが大きなテロ組織となったのも自然の流れです。このことを考えている時、ソマリア海域の海賊化してしまった漁民の訴えが脳内で重なるのですが、アメリカの対応によっては、アルカイダを刺激しないとも限りません。
イエメンの暴動を知った時にいろいろな思いが巡り、何か安心材料はないかという思いもありましたが、毎日が指摘している「三重苦」には、人々の長い痛恨の思いがずっしりと積み重なってきているかに感じられます。仮に暴動が拡大しても、アフガニスタンのようなことにはならないで欲しいと願います。
参考文献:イエメン共和国大使館HP
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コメント
北イエメンとして知られたイエメン王国はオスマン帝国の支配下にありましたが、独立後イタリアと友好通商条約を結んでその勢力下に入ることを企図されるものの、いかなる列強の植民地にもならなかったんですね。多数の首長国が紛争の仲裁などを通じて英国の支配下に置かれた南と違って王国としての権力がしっかりしていたからでしょうか。その点は同じ時代の日本とよく似ているのかもしれませんね。
あるいはイタリアがエチオピア攻略に2度も失敗したような『だらしない帝国主義者だったから』とは口が裂けても言えませんよね。
(イタリアとイエメンの条約についてはwikipedia英語版より 1926年締結 別名サナア条約)
投稿: いえいえごめん | 2013-06-29 16:58