Twitter時事問題:仙谷官房長官の「自衛隊は『暴力装置』だ」という発言と馬淵氏を擁護した事について
Twitter時事問題とも言うべきか、昨日は、私がフォローしている人の一部で仙谷さんが参議院予算委員会の答弁の際、自衛隊を「暴力装置」と表現したことが話題になっていました。このことから、少し気になることもあるので触れておくことにします。
私は、丁度、仙谷さんが国会でこの発言をした時にテレビ映像を見ていて、唐突に飛び出したこの言葉に違和感はありました。自衛隊を「暴力装置」という言葉に言い換える仙谷さんの意図すること、「暴力」という言葉の含みに合法である自衛隊に対する批判的、この言葉の出処などをです。何故自衛隊をこの言葉に置き換えてあの場面で表現したのか、これらの理由から相応しくない言葉を使ったと瞬間に感じてました。と、同時に、仙谷さんの背後からの野次の影響か、「実力組織」と言い換え、さらに質問者から謝罪と撤回を要求されてから謝罪した、という一部始終を見ていました。これは少し問題に挙げられるのではないかと思っていた通り、夕方、finalventさんが「官房長官の「暴力装置」発言で謝罪=直接注意へ−首相を」(時事ドットコム)の記事をTwitterで流されたのです。私は画像で見た部分がそのまま問題になったと思っただけでしたが、その直後から、別の角度で混乱が始まったかに見受けられました。
その混乱の元になったのは、おそらく仙谷さんを擁護する側に立つ誰かが「マックス・ウェーバーは警察や軍隊などの物理的強制力を「暴力装置」と呼んでいる」と解釈し、その言葉を仙谷さんが引用しているから正しいというように擁護しようとしたのではないかと思いました。これをTwitterで流したことに対する反応が多く、騒ぎが大きくなりつつあったのではないかと推測しました。私のタイムラインでは、話が途切れてしまうので、途中でラインの読み方を変えて、finalventさんにどれだけの情報が集まっているのかを集中的に見られるように変更し、やり取りを読んでいました。
この発言の何に反応してマックス・ウェーバーの事が引用されたのか、そもそも、その出典も明らかではない上、仙谷さんが「暴力装置」という言葉に何か特別なメッセージ性の含みを持たせて発言したのか、それさえもはっきりしていないというのに、どんどん憶測が広がり、言葉がTwitterのラインで流れてゆく様子を見ていると驚異でした。
私は、「自衛隊は『暴力装置』だ」と、国会で官房長官が使用して良い言葉ではない、というコモンセンスが通じない世代の話くらいに受け止めるのがやっとでした。finalventさんは、思い込みや、明らかにそれは違うといった人の解釈に疑問を投げかけたりの対応をしていたかに思います。
Twitterで誤解がまかり通るということに対しては、ある程度対応できることで、時間はかかりますが、諦めずに引用している出典が明らかになれば、誤用しているのかどうかも説明はつくことです。finalventさんの努力も決して無駄ではないのです。
後で彼のタイムラインを読むと、半らこの騒ぎは鎮静したかに思ったのですが、昨夜の産経の記事に目を通すと、仙谷さんの若かりし頃の話と共に、ジーンとするものがあり、この人も世代の傷というか背負うものの重さを感たのかと思い、気の毒な気がしました。お涙頂戴のオチをつけるつもりはないのですが、発言に及んだ背景を知って、仙谷さんの人生に共感する部分もあり、これからの日本にとって、良いことかもしれないと感じました。その話も含めて、ここで仙石さんの「暴力装置」発言に触れておきたかったのが理由でもあります。
➠仙谷氏「暴力装置」発言 謝罪・撤回したものの…社会主義夢見た過去、本質あらわに(産経ニュース)
現在では、自衛隊を「暴力装置」といわれると違和感がある。だが、旧社会党出身で、東大時代は日韓基本条約反対デモに参加し、「フロント」と呼ばれる社会主義学生運動組織で活動していた仙谷氏にとっては、なじみ深い言葉なのだろう。
仙谷氏は著書の中で、「若かりし頃(ころ)、社会主義を夢見た」と明かし、その理由としてこう書いている。
「社会主義社会には個人の完全な自由がもたらされ、その能力は全面的に開花し、正義が完全に貫徹しているというア・プリオリな思いからであった」
仙谷氏は後に現実主義に「転向」し、今では「全共闘のときの麗しい『連帯を求めて孤立を恐れず』を政治の場でやるとすってんてんの少数派になる。政治をやる以上は多数派形成をやる」(7月7日の講演)と述べている。とはいえ、なかなか若いころの思考形態から抜け出せないようだ。
「ちょっと言葉が走った。ウェーバーを読み直し、改めて勉強したい」
自衛隊が「暴力装置」だと表現された時点で気づくべきでしたが、青春をかけて闘った学生達が、国家権力としての警察を「暴力装置」という代名詞を普通に使った時代の言葉です。この言葉が口をついて出ただけだと気づくべきでした。ただ、仙谷さんにとっては重たい問題であると自覚していただきたいです。この言葉を意図して使ったわけでもなさそうで、それだけに、国会答弁という場で出てきたのは言葉だけではない内面の問題があるのだと思います。昔の反骨精神丸出しのようになったご自身の政治家としての資質について、今回は、向き合う機会になればと願うものです。
また、この政府は菅総理を始め旧社会党のメンバーにも、仙谷さんのように「昔とった杵柄」組がいるのです。リーダー格が自らを省みる姿勢になると、政党内にも変化が起こると思います。国会議員が政府の合法機関を批判している姿は、国民目線にはどのように写っているかに気づいていただきたいです。
ところで菅さんですが、首相の座についてからこっち、なんだか覇気を感じませんが、今回の仙谷さんの反省から連想したのですが、責任ある立場になってやっと分かってきたのかもしれないと思いました。こんな上から目線な言い方はよろしくないですが、率直に言うと、失態で気づくという経験です。「言葉が走った」辺りに問題があることに菅さんも気づいたのだとすると、青春を投下したあの全共闘時代の自分を一掃するくらいの覚悟がないと、民主的な日本にはならないです。反骨精神のまま、国家権力と化しているのは自分なのだと気づいたとしたら、姿勢も考えかたも変わるのではないかと思います。それに気づかれたとしたら、それはおめでとう良かったね、なのですが、国会議員という職についてからではやや遅蒔きです。国民にとっては、迷惑な話だとも言えます。
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私にはもっと気になる議員として、馬淵氏と仙谷氏がいます。馬淵氏の出鱈目発言に対して、庇い立てした仙谷氏に対する問責決議案を野党が提出し、社民党が反対した結果、却下されたことが解せないです。
馬淵氏は、率直に言って卑怯者です。この件は、先日も書いたとおりです(参照)が、彼の嘘発言で、海保の情報管理体制が、さもずさんであるように報じられたのが最初です。その後の調べでも、確かに海保の管理に問題はあるとは思いますが、国民に与えた印象は、「国会議員は真当な仕事をしている」、「海保は何をやっとるんじゃ」であったし、捜査を長引かせた要因にもなったと考えます。馬淵氏と、馬淵氏を擁護するかのような「保安官と政治家は問われる責任が違う」と、発言をした仙谷さんの責任は大きいです。
この発言の元になる思考形態は、ご本人が認めているように「暴力装置」という発言と同じで、かつての国家権力闘争時代のものではないでしょうか。このお二人の政治家としての責任を問うための問責決議案が却下されたことは、これらの問題を放置することになります。それは、民主党の体質の改善にはマイナスであるとともに、正すとはどういう事か、ということから考えなおさなければならなくなります。間違った事を間違っていると主張し、改め正すことを寸断させてしまわぬうちに、早期の解決を求めます。
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