極東ブログ「自衛隊は暴力装置ではない。タコ焼きがタコ焼き器ではないのと同じ。」について
一昨日の仙谷官房長官の「自衛隊は『暴力装置』だ」について詳しい語訳と共に、仙谷さんの常識と非常識の紙一重部分が明らかにされたようです(参照)。
テレビ放映されている国会で、しかもそれを視聴しているのは殆どが一般市民括弧笑なので、「暴力装置」という言葉が、社会学や政治学や法学で用いられる用語であるなら正しく使って頂きたいものです。また、正しく使われたからと言って、それで誤解を招かないかと言えばそうでもなく、エントリーでも指摘されているとおり、「おおやにき」「池田信夫」「石破政調会長」の有名な諸氏も、仙谷さんと同種の間違えを公然と述べられてるようです。なのに、白羽の矢がたったのは仙谷さんだけ。理由は、仙谷さんだから。
仙谷さん関わりのエピソードがたくさんある中、「柳腰外交」という言葉を発して大いに国民を笑わせてくれた時、誰が何と言おうと「撤回しない」、と頑張られたお陰でこの言葉もようやく定着し、案外使い勝手の良い言葉として現政権の外交を評価する代名詞になりました。でも、元を正せば、間違った言い回しです。この「柳腰外交」の言葉も、どの様な背景で生まれ、誰が使い出したかというお里がはっきりしていて、なおかつ、仙谷という名の政治家が間違ったまま使用することにさも意味があるように呈した曰くつきの言葉です。この前提条件を「柳腰外交」という言葉とセットで後世に伝え繋がなくては誤解を招きます。そして、「暴力装置」という言葉も同様です。
このようなケースで言えるのは、一表現であり、いい変えれば時代のギャグのような言葉として定着しているというだけです。が、一過性の言葉にすぎないという認識は、あまり後世には引き継がれません。言葉だけが残るのが殆どです。
「柳腰」の意味は、辞書では「《柳腰(りゅうよう)」を訓読みにした語》細くしなやかな腰つき。また、細腰の美人。」という意味です(参照)。仙谷さんは、単に「しなやかな外交」を言いたかっただけかもしれませんが、誤用を指摘されても、その語彙を訂正することもなく押し切ったのです。
前置きが長くなりましたが、極東ブログで解説されている「暴力装置」は、いつの間にか間違った解釈のもとに誤用されているということがはっきりした上、その解説は、「柳腰外交」という言葉も同様に、注意して使用しなければならない言葉なのだと理解しました。
暴力=悪の解釈をしない分野があり(「識者のみなさんが元にしている社会学の泰斗マックス・ヴェーバーから考えて」)、「暴力装置」の意味がたこ焼き器と並べて説明させているのが何ともお茶目で、極東ブログ風味を漂わせています。
つまり、「暴力装置」というのは、各種の暴力を独占して扱う国家の装置("apparat")という特性を述べている。各種の暴力をあつかう装置("apparat")だから「暴力装置」なのである。タコ焼きを作るのがタコ焼き器("apparat")というのと同じことなのだ。タコ焼き器もまた、コンロ、金型、ひっくり返し用キリ、油引き、粉注ぎと各種の要素をまとめた装置("apparat")なのである。
国家は暴力ではなく暴力「装置」("apparat")。もちろん、その文脈でいうなら、自衛隊は「暴力」ではある。そして「支配手段」("a means of domination")でもある。だが、「暴力装置」ではない。
よって、自衛隊は暴力装置ではない。
なんとなくややっこしい感じですが、暴力=悪という解釈のもとでこの文脈を読むとまちがった解釈になるので、一般的には難しい言い回しかもしれません。そこを悟った長官は、国会で直ぐに訂正したという常識的な部分もあったというわけです。
しかしながら、先に述べた諸先生方と同様に仙谷さんも、それからTwitterで大騒ぎした諸氏も皆さんお勉強不足だったというわけです。因みに、この言葉に引っかかりもしなかった市民も多くいるので、今後の誤解を避けるためにもこのエントリーで一線引かれたのは有用です。
追記
誤解を「避けるためにも有用」なエントリーだと書いたばかりですが、今朝ほど該当エントリーの「はてなブックマーク」(参照)を拝見したところ、どうも、日本語の文章を正確に読めないからではないかと思うような頓珍漢なコメントが多く、これには唖然としました。困ったと言うべきか。極東ブログの内容は、日本の新聞が読めたら読解できる内容だと私は思っています。物を知らないと文脈が読めないと言うことはありますが、文章が読解できないと言うのは、新聞を読む以前の問題だと思います。なんだか、これはとても問題だと思いました。
追記
先の追記とほぼ同時くらいに極東ブログから補足のエントリー「自衛隊ではなく国家が暴力装置だから国民は安心して暮らせる」(参照)があがりました。読者に読解力を求めるよりも、もっと分りやすく噛み砕いて書き直した方が良いと判断されたようです。
やはり「国家が暴力装置である」は、「乱暴な力」ということではないということが通じないため、誤解や曲解が多かったようです。また、「「その暴力(乱暴な力)をふるうApparat(組織体/装置)が自衛隊や警察」というのはシンプルな間違いだ」として、その説明を加えられました。
この理解が重要なのは、私達が憲法に守られていることを説明しているからです。
だから憲法がある。憲法というのは、政府の暴力(Gewalt)をルールによって規制するということだ。この規制が正当性を担保する。
さらにいえば、暴力装置として暴力を独占した政府から最終的に市民を守るための契約が憲法なのであるし、そう認識できなければ、そもそも憲法を理解していなことになる。また、この契約を守らせるために可能なかぎり権力(Gewalt)を分散しバランスさせる仕組みが、民主制度という政治制度なのだ。
この部分の理解に不安な方は、どうか、極東ブログをじっくり読んでいただきたいです。
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コメント
>間違った解釈のもとに誤用されているということがはっきりした
極東ブログの「国家=暴力装置で、自衛隊=暴力」という考えは、たしかによく組み立てられて説得力はありますが、これもネット上での議論の一つにすぎませんよ。彼の場合は、日本語における翻訳用語としての歴史(もちろん原語での定義も重要ですが)や、ウェーバー前後の理論的発展の流れを無視しているため、解釈が飛躍し過ぎている気がします。
>先に述べた諸先生方と同様に仙谷さんも、それからTwitterで大騒ぎした諸氏も皆さんお勉強不足だったというわけです。
誰かの意見を盲信して勝ち馬に乗ってはしゃぐだけなら、「お勉強不足」だったり「頓珍漢なコメント」と大して差は無いよう気がします。
・・・とネット検索でいきなりこんなコメント書いてしまいましたが、時事ネタの定めとしてどうかご容赦を。あとキノコ汁のレシピおいしそうですね。
投稿: 保守派ウェーバリアン | 2010-11-20 23:24
保守派ウェーバリアンさん、盲信の危険性に示唆頂いたのだと受け止めておリます。ありがとうございます。
>これもネット上での議論の一つにすぎませんよ
確かにおっしゃる通りで、その範囲を超える事はできません。特別にこの分野を研究された方には茶番劇に見えるのかもしれませんが、これがネットの限界です。ただし、議論は日を追って進むということもあるので、間違えを正すことも可能です。また、大学で学ぶようなレベルに達することはできないまでも、私のような主婦層でも関われる学びの場であることも事実です。
>誰かの意見を盲信して
これは違います。極東ブログで引いているリンク先の記事を拝見した上で私の意見として書いています。
>大して差は無いよう気がします。
ではどういう事が本当でしょうか?と、ネット上では議論をやり取りすることができます。
投稿: ゴッドマー | 2010-11-21 06:21