2010-10-17

曰くつきのノーベル賞について

 極東ブログの「政治的だった2010年ノーベル経済学賞」(参照)に触れて、昨日私も少し意見をしましたが(参照)、妙に気持ちに残るものがあるせいか、ネットのニュースにその関心が向きます。
 昨日は、パキスタンが中国に加勢するかのように劉氏への授与を批判する声明を出したと報じていました(asahi.com)。

パキスタン外務省は15日、中国の人権活動家、劉暁波(リウ・シアオポー)氏へのノーベル平和賞授与について、「賞の授与の原則に反し、権威も損なう」と批判する声明を出した。極めて友好的な関係にある中国に配慮したとみられる。

 中国の民主化を願う劉氏がノーベル平和賞を受賞したことに対して、社会には様々な意見はあるとしても、一国のトップが他国の受賞者に批判や賛否の意見を個々に表明するような現象に驚いています。先日はオバマ氏が、パキスタンとは逆に賞賛していました。この受賞が、意図的になるべくしてなったとは思いたくないのですが、あまりにも不自然です。何か図られているような気味悪さがあります。
 このように、連日私の思いが巡るのは、一つにはスウェーデン王立科学アカデミーには、誰に授与するかの決定に何かの意図があるのか?またはないのか?という疑問や、もう一つは、人が単に、利害関係をこの時とばかりに持ち込みたがるだけなのか。このような気がかりが潜在しているため、昨日私が書いた時は、そこから出てきた一種の嫌気のようなしらけた気分でした。普段はあまり強く思っていませんが、これを機に蓋が外れたというか、でした。
 しらけた気持ちになっている時は、自分の見たいくないものを見まいとするような力が不自然に働きます。昨日触れたように、ノーベル賞を政治の道具に使って欲しくないと思っているのは、私にはまだ諦めきれない反骨心のようなものがあったのかと自分でも驚きです。このような思いがあるうちは、自分の力で何とかできるというおごりがあるからかもしれません。
 心の深い部分なので普段は気づかないのですが、反応の気持ちを調べてみると、自分自身の心の中で正義感とそれを打ち消そうとする気持ちが反目し合っているのに気づきます。普段は、この意識の存在を自覚できていないだけではないかと思うのです。これがノーベル平和賞に対して反応したのだと思います。
 この賞は、それを扱う人によって賞自体が不思議な力を持ってしまうことと、それによって、受け取る側や周囲にいろいろな意見が出てくるようです。私の猜疑心もその一つで、たまたまそれは薄汚い、と、私が嫌悪するのです。
 私って、何故この賞にこれほど拘るのか分りません。こんな風に捉えたのは今回初めてです。その受け止められない部分が表出し、それを昨日書いたのだと今頃分ったのです。これはノーベル平和賞を政治の道具に使うべからずという「反目」です。そして、自分自身の内面の問題だということが分ってきました。
 平和って何?と聞かれても、その説明をしようとすると、相反する不和な状態の存在を無くすことが平和だと言ってしまいそうになるのです。それは、個人的な幸福感を満たすだけという虚しさを残すのです。平和は一体どこにあるの?と慌てて探すような焦る気持ちになってきます。
 「平和」は何故これほど非現実的なんだろうかと落胆するのは、少なくとも、私自身にそれがないのが現実なのです。

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