2010-10-28

極東ブログ「クルーグマンの予言:緊縮財政の英国は日本型停滞に陥るだろう」について

 一昨日の極東ブログの「欧米は緊縮財政から大きな社会へ。日本は大きな亡霊へ。」(参照)を受けて、その文脈を読むべく、イギリスの目指している「大きな社会」への道とアメリカの目指す社会について考えました(参照)。そして、午後になって、自分が書いたこととは言え、調べないで鵜呑みにした点があったなぁと、気になってTwitterでつぶやいていた時、プレスデモクラットのクルーグマン氏のコラムが流れてきたのです。これがさらに頭を悩ますことになったのですが、英訳も難しい。毎度のことながら、政治的な背景が見えないと、訳しても意味が腹に落ちないのです。そして、少し間を置いて極東ブログでエントリーされた「クルーグマンの予言:緊縮財政の英国は日本型停滞に陥るだろう」(参照)で、乗り上げていた暗礁から救出されたのでした。とは言え、イギリスの問題は現在進行している赤字国の取り組みそのものですから、問題は複雑で難しいですし、理解できたとは言いがたいものがあります。ましてや、外国の経済学者が日本を引き合いに出してくる時は、ろくでもないことの方が多いですし。
 現実に起こっている問題の紐解きや文脈の読みが片方にあり、他方では、クルーグマン氏の推論や持論が入り交じったコラムなのだと了解して読まなくてはなりません。極東ブログが、その辺の難しい部分をがっつり掴んで解説してくれているのでありがたいことです。私が昨日のエントリーで失敗だと思っていた部分もこの解説に含まれていて、それがズドーンと転がり込んできて、やはりどこかできちんと解決する運命にあったのだと観念しました。
 まず、イギリスのキャメロン政権が性急な緊縮財政に走っていることは、イギリス国民は本当にそれで納得しているのかという疑問です。極東ブログでは、これについて一昨日の極東ブログのエントリーではこう見ています(参照)。

 意外にも英国国民はキャメロン首相を概ね好意的に見ている。これからじわじわと中間層をしめあげていくのに。なぜか。
 簡単に言えば、福祉を国家が担うのではなく、社会が担うように「大きな社会」を構築しようという合意が取れつつある。

 この時点で、私は鵜呑みしました。イギリスの政策がだからと言って正しいかどうかは分らないことです。そこをどうなんだろう?という疑問の答えを求めるようにクルーグマン氏のコラムを読むと、それもまた正しいとは言えないのです。
 極東ブログの昨日の解説では一変して、イギリスが直面している問題は経済ではなくまさに「新しい政治の課題」としています。この原文は、クルーグマン氏のコラムで私が難儀した部分です。

Why is the British government doing this? The real reason has a lot to do with ideology: The Tories are using the deficit as an excuse to downsize the welfare state. But the official rationale is that there is no alternative.
英国政府がこんなことをしているのなぜか? 本当の理由は政治理念にある。保守派は財政赤字を福祉国家の縮小の言い訳にしているのだ。それ以外には公的な理由になりそうなものがないからである。

 ここは、あまりにも日本離れしているところで、そのまま訳せないと思っていたのですが、「保守派は福祉国家を縮小しようとしている」と、そのまま解しても理解できるでもなく文脈は依然難しいです。
 が、クルーグマン氏に触れたあたりでようやく見えてきました。

 財政危機による緊縮財政でもなく、経済再発展のための緊縮財政でもない。この経済危機を機会に、国家を縮小しようというのが、英国が今経験しつつあることだ。
 もっと言うなら、日本の停滞は官僚の失態でありながら微妙に官僚支配と整合的だった。これに対して、現在の英国は福祉国家から新しい、大きな社会をベースとした社会に転換することを目指している。クルーグマンは自身の政治理念で目をふさいでいるが、新しい問題が提起されているのである。

 そして、クルーグマン氏は何故ストレートに国家の問題に焦点を当てなかったのだろうか?と、他国の経済学者のことながら気になりました。つまり、これもお国の違いで、アメリカの保守派側の考え方から見ると、経済政策路線を変えて性急に緊縮財政にイギリス政府が走れば、それは自滅への道だとしか思わないからではないでしょうか。同時に、その考え方(アメリカの保守的考え方)で日本を見ると、政治家が官僚政治脱却といいながらしっかり官僚に負ぶさっている日本がお手本だと見えるのでしょう。それが、引き合いに出される由縁だと思います。
 でも、イギリスの政府はどうやらクルーグマン氏が予想しているような方向とは違うところに政治性を持っているようです。ここで一気に周囲が明るく見え始めてきたのですが、大きく踏み出したかに見えていて、問題はこれからなのだと思うとエールを贈りつつ密かに見守るしかないのです。
 私の最初の疑問に戻ると、イギリスが新しく生まれ変わろうとする方向での政治的な改革であれば、国民はこれに賭けるはずです。政府に牛耳られているとは思いにくいです。もしかしたら、英国民は財布の紐を引き締めながらも政府をサポートするくらいの自負を抱いているかもしれません。
 そして、気になる日本ですが、イギリスと日本は状況が似ているので、良くすれば日本もイギリスのような「大きな社会」を目指せる国だと思うのです。つまり「小さな政府」と、劣化前の民主党が言っていたような政府です。
 デフレ化であっても、少なくとも今よりは国民には活気がでたし、我慢のし甲斐が見い出せたように思います。「郵政民営化、結構じゃないやりましょう!」みたいなね。
 チャンスがないわけではないと信じたいのですが、希望は持てないというか、しぼんでくるのも仕方のない運命を感じます。一概に軍事力が無いせいだとは言いたくないのですが、アメリカに守ってもらう以上、アメリカを支えるという運命的なものを背負っているのです。

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