極東ブログ「菅首相、続投」で思うこと
私の予想に反して、菅さんが小沢さんに圧勝した形で民主党代表選は幕を閉じました。これで少し静かになるというホッとする思いは隠せないのですが、思いと言えば、民主党国会議員票で小沢支持票が当初の組織票以上に伸びなかった点が予想外で、がっかりな点として残ります。良し悪しは別として、小沢一郎という議員の影響力は衰えているということを承服することなのだと、何故か自分自身に言い聞かせている私なのです。
投票直前の約15分の演説で、「最後の演説になるかもしれない」と、言葉する小沢さんの顔を食い入るように見ていました。この代表選に賭ける意気込みを感じたと同時に昭和を駆け抜けてきた小沢さんの軌跡を思ったのです。その長きに渡る議員生活で培った力で、党内の議員を手玉に取るのはたやすいのではないかと思っていたのが外れたのです。これは、私の時代錯誤だったのだと思い、この点でがっかりしたのです。もう、昭和の影を引きずる議員は終わりなのだと実感しました。
小沢さんが何度も繰り返し伝えていた「政権交代という形で国民から託された政治を、その理念に沿ってやり遂げる」は、菅さんによって、「マニフェストの通りに簡単に事は運ばない」に変わるのでしょう。「できることには限界がある」とも言っていましたが、そういう政治になるということです。極東ブログでは、この辺りのことを冷静にこう語っています(参照)。
しかし同時に、私は小沢氏の政治主導の理念は昭和の時代の懐かしい物語だと思っていた。中央の官僚制を打破し、地域主権としてみんなで地域を考え国を考えていくというのは、私にしてみると、終わってしまった物語に聞こえた。
私は、残念ながらというべきだろうが、現代の政治の実質は一種の工学のようになったと考えている。国民の意見を反映するのが民主主義の本義ではあるが、実際の政策となれば、その背景の複雑さゆえに独自の専門知識からなかなか動かしがたい近似値しか出てこない。経済でも医療制度でも各種保障制度でも、理想は理想としてもテクニカルな前提からはある妥当な水準しか出てこない。そこを逸脱した理想を掲げても、政策には無理が出て全体の利益にはならない。
現代の政治の実質から見ると、「逸脱した理想」になってしまうというのは理屈はそうですが、心にはやはりどうしても無念さが残ります。ここの切り替えの問題なのですが、私が生きてきた時代はずっとこの切り替え人生でした。この歳になってもまだこの切り替えを繰り返すのかと感嘆する思いは残ります。
小沢首相が実現してまた鳩山元首相時代のような、理想が暴走するわけのわからない政治になるよりは、地味な菅首相の継続のほうがよいと私は思う。そして政権交代というのも無駄だったのだときちんと納得することができた点で、菅首相の続投はよかったと思う。
「政権交代というのも無駄だった」ということなのです。このことは、私たち国民もそう理解するのは当然ですが、菅さんを支持する若い議員さん達は、このことを理解していないように見受けられます。改革をするのだと言う抱負を抱いて邁進する意気込みを感じますが、「現実はそう簡単ではない」という道を菅さんは選んで行くでしょうから、矛盾に満ちた道のりになるでしょう。その支持するという初心を忘れないでいただきたい。
今後の気がかりは、内閣人事です。選挙であれほど「挙党体制」を言い続けてきた菅さんの本音が出てくる部分ではないかと思いますが、すっかり党を二分した形に票が割れているのは無視できないです。小沢さんは、「一兵卒」として党を支えると話しているそうですが、6月に幹事長を辞任した時もそう言って、実際は菅政権に批判的だった証として今回の出馬に至ったのです。言葉の通りの解釈では片手落ちになるような気がします。
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