2010-09-30

「ゲゲゲの女房」武良布枝―終わってみて

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 NHK朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」が終わりました。結構毎朝楽しみに観ていた割りに、終わっても残念な気持ちが不思議と残りません。私にとっては自分が育った時代背景で、「つばさ」に続いて昭和をたっぷり味わうことができました。だからか、満たされて終わったように思います。また、昭和の色が滲み出る場面が沢山あって、その場面に配置されていた生活雑貨品に遠い昔の記憶が蘇り、耳は役者の台詞を聞き目はそれらの小物に心を奪われた状態で、食い入るように見ていました。また、キャスティングでは、要所要所に名の売れた俳優の存在はあるものの、全く知らない顔ぶれも多かったというのにぎこちない印象はありませんでした。後から聞くところによると、NHK朝ドラとしての視聴率は良かったそうです。
 漫画が売れない時代が長く続き、赤貧の生活をしていた村井家を見ながら、昭和の私の子ども時代を回想していました。当時の貧しさは村井家だけでなく、どこの家も慎ましく生活していた時代でしたが、やはり東京オリンピックというのは日本に大きな変化を齎し、時代の分かれ目でした。まだ子どもだった私は遊びに夢中でしたが、ドラマを見るうちに、次第に親の苦労が見えるようになってきたのも確かです。ドラマでは、当時の生活を明るいタッチで描いていましたし、実際の人々の暮らしも明るくのんびりとしていたように思います。そして、村井さんのように戦争を生き抜いた人というのは、死の境目を経験しているせいか、人間的に心の広い器の大きな大人でした。そういう大人が周囲に一人でもいると、受け止めてもらえるという安堵感が得られ、皆頑張れた。そういう空気があの時代にはありました。ただ、ドラマは、「漫画家の水木しげる」として展開しているのではなく、たまたまそういう人物と結婚した女性が夫を支えて生きて行くという部分に光が当たっていると思います。それが、現代の日本女性に薄れてきた部分であり、私などは「それって、私が目指す女性だわ。」と、武良布枝さんの生き様に感動する部分もあります。 
 あれから日本は急激な高度成長を遂げて、現在はデフレ貧乏をしています。この貧乏と、あの時代の貧乏では一体何が違うのだろうかと考えると、デフレ貧乏に人は先が見えないのですよ。当時の日本は可能性が期待できたし、頑張れたのです。一生懸命働いていれば何とかなるといいながら、登場人物のそれなりの生きる姿を描いていたあの通りだと思います。ドラマの展開に、デフレ貧乏に至る前までの日本がきちんと埋め込まれていていたので、見る側も世代を超えて時代を感じ取れたように思います。
 村井さんのサクセスストーリーは、あの時代ならではのもので、好きなことに一生懸命打ち込んで、辛抱強く取り組めば必ず日の目を見る。そう信じて夢を抱いていた若かりし頃の私を思い出し、また、それが叶わなかった果かなさや無念さを思い出していました。また、途中いろいろな気づきが自分自身にもあって、「悔しさ」の気持ちを素直に受け入れられたのも新鮮でした。
 村井さんのような精神性は、昭和の戦後生まれの私達にも多少残っていまが、団塊世代の持つ見えないパワーに踏みにじられ、虐げられて潰れて散ったのです。取り戻せないという悔しさは、もうどこにもぶつけようがない。だから諦めるしかなかった人生でもありますが、今の若い人達に比べたら総じてよい時代を見ながら生きてきたとも言えます。
 このドラマの原作になっている著書についてや昭和の話について、私と同じ世代の男性の立場で書かれているブログへもどうぞ➠極東ブログ「[書評]ゲゲゲの女房(武良布枝)」

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