2010-09-16

極東ブログ「なぜフランスはスカーフを禁止するのか」は繰り返される

 フランスの上院は14日、イスラム教徒の女性が被る「ブルカ」の着用を全面的に禁止する法案を可決したそうです(参照)。「ブルカ」の着用禁止に関しては、度々話題になっていることだとは思っていましたが、先日もコーラン焼却問題があり、宗教問題なのか法律制定の是非の問題なのか、といろいろ混同しやすいと思いました。特に、日本の宗教に対する考え方は世界から見れば特殊であると思うのと、イスラム教やフランスの「ライシテ(非宗教性)」を日本のメンタリティーで理解するのは難しいと思います。では、私がそれに詳しいのか?と言ったら理屈では詳しくはないですが、実体験から抵抗無く「そういうものだ」と、感覚的に理解できているとは言えます。それは、諸外国人に混ざっての学生だった経験からです。が、日本では誤解が起こりやすいとは思っても、その道理を説明するとなると少し難しいと感じていました。

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 前置きが長くなしたが、フランスの法律で「ブルカ」を禁止するかしないかを他国人がとやかく批判するのはナンセンスなので、ぶっちゃけ、その国の法律が気に入らないのであれば行かなければよいのです。ですが、これでは問題を理解したとは言えないので、いつまでも同じような議論が繰り返されてしまいます。平均的な日本人感覚での解釈だと、「宗教の自由を認めているのなら、法律を作ってまで「ブルカ」を禁止するのは間違っている。」と、いう意見が多いと思います。だからでしょう、今回のフランス議会の可決によってフランスが如何に国家権力を振りかざす国かという誤解から、イスラムをわざわざ敵に回しているなどと批判的な連想が増殖してしまいます。
 イスラム教徒はイスラム教の教えで全て行動します。「ブルカ」はイスラム教の決まりであり、国家の決まりなのです。何がここで問題になるかとういと、フランス国内でイスラム教徒の女性が新しい法案に従うとすると、自国の決まり事に矛盾した行為になるのです。これではまだ説明が不十分ですね。んじゃー「ライシテ(非宗教性)」は、そもそも何よ?それこそが宗教を不平等にしているんではないの?という疑問が出てきます。そう、これこそが私がきちんと説明できない部分なのです。極東ブログのこの説明は秀逸と言えます(参照)。歴史的背景からフランスのライシテの説明があるので、もしかしたらフランス人でライシテ(非宗教性)が曖昧な人もここで勉強になるかもしれません。
 本文から抜粋してしまうと、変に分ったつもりにってしまうことを懸念するのですが、全文を転載するには気が引けますので本意ではないのですが、少し抜粋させてもらいます。

フランスでは日本同様信教は自由であるが、同時に憲法で「非宗教性」が明記されている。端的に言えば、フランス国家はまったく諸宗教から独立していなくてはならない、ということであり、そのことから公共病院や公教育において、宗教性が厳格に排除される。

こうした問題の詳細は、フランス大使館の社会の項目の非宗教(参照)に詳しい。この文書は非常に面白い。読んでいてはっとさせらたのは、特に次の点だ。

以上のように非宗教性とは、単なる法的システムではなく、文化であり、エトス(倫理的規範)であり、また、論議を拒否する既成の言説によって精神を支配するような「聖職者至上主義」からの開放の動きなのである。クロード・ニコレ教授は、非宗教性のこの本質的な(そして体系化できない)側面を次のような言葉でみごとに明らかにしてみせた。聖職者至上主義による支配の試みに対して非宗教性が歴史的に成し遂げた勝利を、今度は、人間一人一人、市民一人一人が『自らの心において、絶えず実践していかなければならないのだ。人は誰しも、他人や自分自身に対して強制的態度を取りたがる小さな「帝王」や小さな「聖職者」、小さな「重要人物」、小さな「専門家」に、いつでもなりうるのだ。それは強制されてかもしれないし、誤った理論からかもしれないし、単に怠惰や愚かさによってかもしれないが』。しかるに、非宗教性は『そのことから身を防ごうとする、困難ではあるが日常的な努力なのである。(中略)非宗教性とは、知性と倫理の厳密さを最大限に高めることで最大限の自由をめざすことであり(中略)、非宗教性には、自由な思想が必要である。

非宗教性の本質は法によって体系化できるものではなく、自由を求める市民の義務とせよとするエートスなのだ。フランス革命は続くよ、どこまでもである。※エートス:道徳観(文脈からそういう意味と捉えてはどうでしょう)

 すごく納得できる説得力のある話だと思いましたが、これを受けて感じるのは、法の制定だけでは片手落ちになるような気がします。それよりも、フランスの「ライシテ」が理解させるようなフランス政府の努力も必要ではないかと思います。規則や模範によって行動を規制することが習慣となっている人や、それによって他国の宗教や慣習を規制できるという考え方で法律を制定すると、人の心情的なものがついて行かれなくなるのではないかと思います。

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 日本ではあまりこういう問題が起きません。何故でしょうか。そういう疑問から、日本人にとって宗教とは何だろうかと考えてみたくなって読み始めた「日本人のための宗教言論」(小室直樹)では、こう話しています。

 仏教は釈迦の教えではない。
 西洋人は仕方がないとしても、日本人もほとんどの人が誤解をしているのではないか。これは本当のことで、では誰の教えかというと、客観的に存在している法(ダルマ)のことを指す。仏教でいう「法(ダルマ)」とは、行為の規範を示し、慣例、風習、義務、法律、真理、教説など、さまざまな法則を指している。自然法則も超自然法則も釈迦が発見して衆生に伝えたのであるから、釈迦が発見しようとしまいと「法(ダルマ)」というのは厳然としてそこにある。だから、釈迦の教えが正しいというのは、本当の法(ダルマ)を発見したから正しいのであり、釈迦自らの教えだからではない。

 この後に、キリスト教を説明しながら西洋人と日本人の考え方の違いについて書かれています。日本人の宗教の捉え方の根本が分ってくると、外国の宗教やその教徒に対する誤解の存在がはっきりしてきて、問題は、そこから解かなくてはならないと思えてきました。今回の、フランスの法律の制定に対する理解も深めたく思いました。

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